第2話 授業中……下島純
最近の
すぐうしろの席の僕が見ている限りでは、ののかはしっかりとノートをとっている様子だし、先生が長い説明に入ったときもじっと耳を澄ませている。
彼女の席は教室の一番前。あまりよそ見ができない不遇な場所。そのことが、彼女を否応なく集中へと駆り立てているのだろうか。
昨年も同じクラスだった僕は知っている。
その頃のののかは、決して良いとはいえない授業態度だった。
授業中の彼女の相棒は、ペンでもノートでも教科書でもなくて、巧妙に隠して使われるスマホだったから。
教壇に立つ国語教師の声が響く静かな教室。
黒板に白いチョークでカツカツと書かれていく現代文の読解を僕はノートに写しながら、そのたびに視界に入るののかの後頭部をちらりと見やって、無理してなければいいけれど……と心配になる。
そして、これも余計なお世話なのかなと、僕は我が身を顧みるのだ。
「下島純くんはさー、好きな子はいないの?」
校舎とグラウンドを繋ぐ生徒玄関で、靴を履き替えている最中に声をかけられた。
このだらっとした喋り方と声音は友だちの
整列する靴箱が光をさえぎる片隅にしゃがむ僕を、玄関扉に寄りかかる彼女が見下ろしていた。
からかう気満々のにやけ顔だ。
「純くんは名前の通り純情でピュアだから、まだ恋愛とか早いよね――」
「は? いるけど?」
「え、いるの!?」
来海は目を丸くして玄関扉からぱっと背を離した。
「僕も年頃の男なので、好きな人の一人や二人はいて当然だね」
「二人以上は不純じゃん…………あ! つまり、キミは、不純くんなんだ!」
「お、おう」
大発見したみたいな顔でドヤられた。
「ねー不純くんはー、誰のことが好きなのー?」
「僕はみんなのことが好きだよ」
「うざい!」
けらけらと笑う来海を見ていると、その邪気のなさにあてられて癒やされる。年相応ではない素直な心を持った奴なのだと思う。
ただし、これから体育だというのに長髪をさらりとなびかせて、香水の甘いにおいを放っているという、アウトローなところは玉に瑕だけど。
「今日の体育は陸上競技だから、髪は結んだほうがいいよ」
「あ、うん。ありがとう……じゃなくて、わたしの好きな人は訊かないの? 訊いてよ!」
「わかったよ、グラウンドへ向かいながら話そう。授業に遅れるとまずい。あの体育教師はちょっとしたことでも根に持つタイプだ」
「なんていうか、純くんは動じないよね」
気を削がれたらしい来海は、大きな瞳をパチパチさせていた。
僕が先に行って生徒玄関を出ると、来海はてててっとついてきた。
今日は雲の少ない良い天気だ。夏の陽射しが降りそそぎ、緩やかに吹き寄せる風が肌を撫でていく。
徐々に暑さが増していく日和の中で、僕が気にしているのは今の正確な時間だ。すぐにでも確認したいところだけど、一番近場にある時計は確かグラウンドに出ることで初めて見ることができるはずだった。
それでも僕がきょろきょろしていると、
「どうしたの? トイレ?」
「いや、時計が見たくて」
「あ、見たい? いいよ。ほい」
並んで歩く来海がジャージに包まれた腕を僕へと伸ばし、手首にちょこんと巻かれた時計を見せてきた。
「ああ、ありがとう。用意がいいな」
「でしょー!」
鼻の下をこすって来海は得意げな顔をしている。
どうして運動を行うのに邪魔になるものを身に着けているのかについては、内心問いたい気持ちだ。
ともあれ僕は失礼して時計をのぞき込む。そして時刻をしっかりと確認して――思考が全部吹き飛んだ。
授業が始まるまで、残り一分を切っていた。
先生が遅れてきたりしない限りは間違いなく開始に間に合わない。
汗がどっとふき出してきた。
急いで走って向かう姿を見せれば、遅れまいという意思は伝わるかもしれない。
それで、何かの事情があったのだと思ってくれたりも、するかもしれない。
実際のところは、情状酌量の余地はないのだけれど。
僕が一人で怒られるだけならどうとでも受け流せるので別にいい。ただ、来海まで一緒になって叱責されるのは絶対に嫌だ。
それはポリシーが許さない。
「純くん、難しい顔してどうしたのー……って急に走り出す!? ちょ、ちょっと待ってよっ!」
慌てふためく来海に説明を尽くす余裕もなく、僕は手をうしろに伸ばして、おろおろと時計ごとふらつく彼女の腕を掴んだ。
初めて触れた来海の腕は、どこか頼りなさを感じた。
「え、え、なに!? フラグ立ってないんだけど! 純くんとは仲のいいお友だちって認識なんですけどっ! ちょ、ちょっとそんな強引に、どこに連れて行くの!?」
「グラウンドだよ! 授業が始まる三十秒前なんだよ、全力で走れ!」
目を白黒させる来海は、必死になって僕の手を握りしめて、足をもつれさせながら駆け出す。
「わたし、走るの、苦手!」
「僕もだよ!」
「置いていっていいよ、わたしは元々、印象が良くないんだし大丈夫!」
「ダメだそんなの! だって、僕は、」
誰かが一人で悲しむ姿は見たくないんだ――と叫びそうになった。
それをすんでのところで飲み込んで、代わりに、
「僕はな、怒られたりお叱りを受けるのが大嫌いなんだよ……!」
「なんかうつわがちっちゃい!」
「うるさいっ!」
全力疾走していると、広いグラウンドの一角に整列している生徒たちが遠くに見えた。
肝心の先生の姿は、まだ目視では確認できない。
賭けに勝ったか……?
息を切らせてたどり着いた僕たちは、何事もなかったかのように列に混ざった。
「ねえ、純くん、セ、セーフっぽい?」
「いや、ここで気を抜いてうかつな発言をすると、決まって死亡フラグに繋がる。疲れているところ悪いけど、ちゃんと頭を働かせて慎重に言葉を選ぶんだ――」
「やった、セーフだ! なんだもう、頑張って駆けつけなくてもよかったんじゃん!」
「おい、ばか!」
話しながらも並んで膝に手を当てて息を整えている僕と来海の足元に、大きな影が落ちてきた。
僕は心がすり減るのを感じながら、ゆっくりと振り向いた。
「友だち同士で仲がいいのは良いことだな、下島純と須藤来海。ほら、グラウンド三周行ってこい」
言い訳も弁明もできない僕と、横暴だなんだと文句を言う来海は、衆目の中で余計に走らされた結果いつも以上に疲れることとなったのだった。
体育の授業が終わって更衣室に戻る道すがら。
生徒玄関で靴を履き替えながらへとへとでよろけている僕のところに来海が駆け寄ってきた。
「純くんさ、話の続きしようよ」
疲れていて汗も気持ち悪いので僕としてはあとにしたかったけれど、
「じゃ、急いで着替えて教室前の廊下に来てほしい。それで次の授業までには済ませてしまおう。例の好きな人の話だよね?」
「そうそう。自分で始めた物語は自分で終わらせる、それがわたしの数少ないポリシーなので。それじゃー速攻で着替えてくる!」
オーケーを出したら来海が決め顔で敬礼をして、人の行き来する廊下を颯爽と駆けていった。
瞬間に巻き起こった風に来海の汗のにおいが感じられて、僕は何も言えないまま頭をかいた。
僕が着替えを終えて廊下に行くと、来海はすでに待機していたようで子犬のように走り寄ってきた。
「単刀直入に言うと、わたしは
「ふうん?」
瀬戸将隆は基本的に無口で一人行動が多い、僕たちの共通の友だちだ。
あまりにも喋らないので彼が何を考え、何に迷い、何をなそうとしているのか、少なくとも僕は深くまで知らない。
ただ、すごく周りを見ていて頼りになる奴だ。いや、僕が将隆を頼りにしている、というだけなのかもしれないけれど。
「わたしたちの中では将隆くんを除くと男子は純くんだけだから。これは真剣な相談とは違うけど、わたしが将隆くんにそういう気持ちを抱いているんだってことは、キミにも知っておいてほしかったんだー」
来海は顔を赤くしてはにかんでいる。
レア度の高そうな彼女の照れ顔は、いつものその無邪気さとかみ合っていて、少し見惚れてしまう。
「そんなじっと見てきてどうしたの? あ、もしかしてわたしに惚れちゃったー? 恋の相談相手から熱視線を向けられるなんて、わたしも罪深い女だなー!」
「言っただろ、僕はみんなのことが好きなんだ。だから、来海のことも当然好きだよ」
「それマジで本当だったんだ! そっか、それは苦労しているね」
来海の慈しむような視線に僕は心がむずがゆくなった。
それでついっと目をそらすと、来海のうしろに続く廊下から次の授業の先生が歩いてくるのが見えた。
もうすぐチャイムも鳴るだろう。
「……そろそろ教室に戻るよ」
「うん、話聞いてくれてありがとね。体育も助かったよ。あとでジュースおごるから!」
手をひらひらさせて教室に入っていく来海を見送ってから、僕もそのあとに続いた。
僕にはわかる。
いつもわからされている。
須藤来海は、とても誠実でいい奴なんだってことを。
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