さ行のお友だち

さなこばと

第1話 朝……坂木ののか

 リビングで朝食のトーストを頬張っていたら、階段のほうでドドンドーンとすごい音がした。

 トーストを一旦お皿に置いて、マグカップに入ったコーヒーをごくごく。あたしはブラックで飲める大人の女だ。

 台所でお弁当を作っているお母さんが、苦虫を噛み潰したような顔でリビングへと駆けてきて、

「また健治!? 朝っぱらからもう……ちょっとあとで張り倒しておいて、ののかっ!」

「イエスマム」

 慌ただしくお母さんは台所へ戻り、冷凍食品の封を開けてレンチンし始める。

 なぜお弁当作りの最初に解凍を行わないのか、それはほかならぬあたしが一台しかないオーブンレンジで食パンをトーストしていたからだ。

 忙しくさせてごめんねお母さん、でもこれは早いもの勝ちだから……。

 と、そこにお兄ちゃんが腰をさすりながらのそのそとリビングに来た。

「はよーす」

「おは」

 お兄ちゃんは立ったまま食パンを一枚取って、テーブルの上にあるマーガリンをたんまりと塗り始めた。

 見ているだけでも胃もたれしそうだ。

「あ、お兄ちゃん、ほっぺた出して」

「なんで?」

「……妹からお兄ちゃんにしてあげるほっぺた関連って、ねえ、わからない……? お兄ちゃん……」

 ゴクリとするお兄ちゃん。

 そして素直にさし出された頬に、あたしは手首のスナップをきかせてビンタした。

「……なんで?」

「一発くれてやれとボスから直々に指令が下ったので」

 あたしはヒリヒリする手のひらを我慢して、何事もなかったかのようにトーストの残りを食べる。

 ビンタあとを付けたお兄ちゃんもマーガリンまみれの食パンを口に詰め込んでいく。

 あたしはもぐもぐしながらこっそりとお兄ちゃんのことを窺う。

 この人、内面はともかく、頬を近づけるときにちゃんとしゃがんでくれたのは個人的に高ポイントなんだよなあ。

 そのお兄ちゃんは早くも食後に入り、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。

 続いてコップを取りにいくのは明白で、しかし今のその付近にはお弁当の仕上げに入った鬼気迫るお母さんがいて……。

「健治、こら、邪魔しないで! 今忙しいの見ればわかるでしょ、さっさとそこをどけっ」

「朝の一杯もくれないのかよ、うちのボスは!」

「誰がボスよ! 毎日あんたたちの弁当を作ってあげてるんだから使用人みたいなものでしょ、そこにいるなら少しは手伝ってよ、まず食卓のジャムとマーガリンを冷蔵庫にしまって、皿をまとめて、テーブルを拭いて、そうしたら弁当も完成するから皿洗いも始めていいし、」

 お兄ちゃんの分が悪すぎる。

 そしてお母さんは口が悪い。

 あたしは、この言い合いしている二人に比べたら普通の女子高生だ。

 ここに不在のお父さんも普通を極めているけれど、単身赴任中で週末にしか帰ってこない。

 食事も終えて準備万端のあたしは、

「行ってきます」

 とそっと伝え、足元に用意済みのカバンを持って玄関へと歩いていく。

「行ってらっしゃい、気を付けてね!」と声を張り上げるお母さん。

「行ってらー。俺は遅刻ギリギリで行くぜ!」と謎の宣言をするお兄ちゃん。

 ぼそっとしたあたしの声を二人はしっかりと拾ってくれた。

 あたしはちょっと口元が緩む。

「待って、ののか! 弁当忘れてるわよ! 健治お兄ちゃんに教室まで届けてもらうことになるけどいいのかしら」

「最悪すぎるんだけど?」

 お兄ちゃんには申し訳ないけれど鳥肌が立っちゃった。



 自転車に乗って夏が薫る風を切る。

 向かう先は学び舎である高校、ではなくてまずは友だちの征矢野舞衣そやのまいちゃんの家だ。

 舞衣ちゃんは同じクラスの女の子。髪が長めでお目目がパッチリとした童顔で、はっと目を引くタイプのかわいい系。

 ただ、この子もわりと変なところがある……けれど、よく考えたらあたしの周りは変人ばかりかも。

 あたしは染まらないように気を付けないと。

 自転車をこいで五分くらいで舞衣ちゃん宅に着いた。サドルから降りてヘルメットを取る。起きてすぐに整えた髪がぺたってなっていてもやもや。

 まずはスマホで舞衣ちゃんに連絡を送る。


〈ののか〉起きてる?


 三分待ったけれどメッセージアプリは既読にもならない。

 次は通話を試みる。

 三分鳴らしたけれど音沙汰ない。

 最後は訪問。

 チャイムをぽちっと押して棒立ちになる。

 そこで握りしめていたスマホが鳴った。メッセージアプリに連絡が入ったのだ。


〈舞衣〉起きた><


 舞衣ちゃん、昨日もまた夜更かししたんだなあ。

 なんでも舞衣ちゃんは毎晩遅くまで起きてをしているらしい。

 そう具体性のかけらもない教え方をしてくれたのは同じく友だちの下島純しもじまじゅんくんだ。なんで一介の男友だちがそんなこと知っているのかあたしは不思議なんだけれど、どうやら舞衣ちゃんは特別なことをしているらしいのだ。

 詳細は一切不明。本人にそれとなく話を向けてみたら無言でにこにこされた。


〈ののか〉三分間待ってやる

〈舞衣〉四十秒で支度しなって言わないところに優しさを感じたよ……


 そんな感想はあとで教えてくれればいいから、ちょっと急いでほしいかも。

 このままだと、遅刻ギリギリで行くとかほざいていたお兄ちゃんと鉢合わせする羽目になる。

 スマホとにらめっこしながら内心焦っていると、ほどなくしてドアの開く音が聞こえてきた。顔を上げたところで、ちょうど舞衣ちゃんが飛び出してきた。

「おはよー! まだ夢うつつな私を自転車のうしろに乗せてくれるって、ののかちゃんのこと信じてるよ……」

「おはよ。二人乗りをするにはあたしの体力がなさすぎるよ。また夜遅かったの?」

「うん。はかどっちゃって……」

 舞衣ちゃんは首をわずかに傾けて、にこーっと微笑む。

 ともすればあざとく見える仕草も、舞衣ちゃんは天性のもののように自然にこなすので、目の前にいる彼女はかわいいの上乗せ状態だ。

 髪はぴょんぴょん跳ねていて、寝起き直後なのがはっきりと見て取れるんだけれど。

 あたしが自転車を手で押して歩き出すと、舞衣ちゃんもとととっとすぐうしろをついてくる。

「ののかちゃん、今日の放課後の『作業』、何をするか聞いてたりする?」

「いや、聞いていないよ。前回は校内の花壇の草むしりで、前々回は……空き教室の机と椅子の移動だったっけ。今日は疲れないのがいいよね」

「ねー。新品の鉛筆をひたすら削っては使えるようにする、とかだったらいいな……」

「それはそれで虚無になりそうだけど」

 あたしは思わず苦笑いをする。


 ――あたしたちは、というかあたしと舞衣ちゃんを含むクラスメイトの五人組は『作業』なるお仕事を学校から申し渡されていた。

 報酬は出ないのでボランティアと呼称したほうがいいのかもしれないけれど。

 それは言ってみれば、清算のようなもの。

 あたしたちには、ほかの人にはない背負っているものがあった。


「ね、ののかちゃん。ありがとね、いつも迎えに来てくれて」

「全然いいよ! 舞衣ちゃんと一緒に登校するの楽しいし」

 あたしがここにいることを肯定してくれて、感謝を伝えてくれる人がいることが、だ。

「ずっと、ずっと友だちだよ……」

「う、うん」

 舞衣ちゃんのそれは、ときおり重たさを感じちゃうけれど。


 道の先に高校が見えてきた。

 そこかしこにいる高校生たちがみんなして吸い寄せられるように校門を潜り抜けていく。

 その流れに乗りながら、あたしは一日の始まりを少し楽しみに感じていた。

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