小説「更なる丘」

藤想

更なる丘

デジタル腕時計を見ると、時刻は十五時になっていた。8月の末、まだまだ厳しい夏の日差しで私の体の水分は着実に失われている。一刻も早く用事を終えて喫茶店にでも入って冷たい飲み物を頂きたい。何でもいい、冷たいものだ。


ここは日本の東、都心のビル群に挟まれて車が通れないほど狭っこくなった名もなき脇道。隙間なく立ち並んだ巨大な壁の連なりが太陽から私を隠す、ささやかな救いの影の中。


私の用事は、このデコボコとした緑のクリアファイルをとある事務所に届けることだ。小学生にでも出来るお使い!だったら小学生にやらせたらいい。アイスを買える程度のお小遣いの二倍の額を払えばきっと、望み通りの仕事をしてもらえるだろうし。


居ない小学生の代わりは居る私だ。なんでこんなボロいクリアファイルなのか。この仕事を依頼された時に総務部の宮下さんに訪ねたが、「これしかなかった」とのこと。馬鹿な。これしかないわけがない。


うだうだと下らないことを考えていたら目的の事務所が入っていると思われるビルの前に着いていた。時刻は…十分ほど経過している。駅から十分の距離らしいから、どうやら目的地はここで間違いなさそうだ。

影はまだ私を隠している。中へ入ろう。


自動ドアを抜けると、意外にも案内役のお姉さんがいるタイプのオフィスビルだった。急に場違いな気持ちになってきた…一体どうして私はこんなクリアファイル(しかもベコベコの)を封筒にも入れずに剥き出しで抱えているのだろう。しかもバカみたいな緑色。恥ずかしい。


ピシッとした紺色の制服に身を包んだ小柄なお姉さんに目的のオフィスが何階かを尋ね、入館カードを借りて、カードを首にかけながらエレベーターに乗り込んでボタンを押す。


ビルの前に建った時は全然確認していなかったが、このビル、結構高さがある。エレベーターが登っていくに連れてエレベーター内の光がゆっくりと私のつま先を撫でていき、照明の光と窓の外の光が混じり合って溶けていき、エレベーターの中に光そのものが満ちる。


エレベーターは更に登る。他のビル群を次々に追い抜いて、遂にこの星の遥か遠くにある太陽が姿を表す。さっきまでギラギラと私を焦がしていたあの脱水の光は、やけに神々しく羽衣のように雲をまとい、太陽に続いてビルの奥にある空間が浮かび上がってくる。


太陽に照らされて黄金に輝く地平線。ここは都心のはずでは?あんなに美しい曲線が、地平線が何故…。地平線の上にキラキラと輝くものは何?

この黄金に包まれた丘は一体…。

エレベーターも私も黄金に包まれている。

今、神と目が合っている。


不意に、身体にずっしりと重みを感じる。エレベーターが止まると、私は我に返った。そこから見える外の景色は普通のビルの頭頂部やビルの側面や…さっきの黄金が嘘のように灰色の、なんとも人工的なこの国の都会だ。

白昼夢でも見ていたのか。


私はシャツのボタンが一つ開いていたことに気付いてそれを締め、ベコベコの緑色のクリアファイルを持ち、オフィスの玄関でスリッパに履き替えた。

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小説「更なる丘」 藤想 @fujisou

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