十
持って来ていた大きめのバスタオルで濡れた髪と身体をぬぐっていると、ふと、小枝が何かの重みで折れたような音がした。
蛇珀の斜め左、目にしたそこには、細い木々の隙間からこちらを覗く少女……いや、妻の姿があった。
「――いろり……!?」
驚いた蛇珀は急ぎいろりの側に駆け寄った。
「お前、なんでここに!? こんな夜更けに危ねえだろ! 何かあったらどうすんだ!!」
「あ、あの、起きたら蛇珀様がいなくて、それで……前に、よい滝を見つけたと言われていたので、もしかしたらここかと思って……」
蛇珀に肩を掴まれすごい剣幕で言われたいろりは、困った様子で理由を口にした。
結界はあくまで他者が家に侵入できないようにするだけで、いろりが外に出るのを防ぐようにはできていなかった。
もちろん、いろりが目覚めて自身の不在に気づき、後を追ってくるなど蛇珀には予想外であった。
「……俺のせいだな、悪かった、心配させて」
「い、い、え……」
そう言ういろりの視線がまったく合わないことに違和感を覚える。
暗がりでもわかるほど頬を紅く染めたいろりの目には、蛇珀の研ぎ澄まされた裸体しか映っていなかった。腰に手ぬぐいは巻いてあるが。
「――だあっ!? あ、ああ、い、今浴衣を着るからよ! ちょっと待ってろ!」
自身の今の格好を思い出した蛇珀は思わず一瞬女子のように胸を隠すと、いそいそと岩肌に置いた浴衣を取りに戻った。
そんな蛇珀の後ろ姿を見たいろりは、もう我慢ができなかった。
恥も外聞もない。
いや、この人を知るためなら、恥知らずのはしたない女になってもかまわないと覚悟を決めた。
浴衣に袖を通そうとした時、蛇珀の背中に何かが衝突した。
温かく、柔らかで、懸命に縋りつくように自らの腰に巻きついた細い両腕。
いろりが強く、蛇珀の背に抱きついていた。
「……じゃ、はく、さ、ま……」
蛇珀の心臓が跳ねる。
もはや滝行などなんの意味もない。
「……私は、どんなにがんばっても……あなたのように、長くは生きられません……」
消えるように、震える声。
いろりの蛇珀を抱きしめる手に、力がこもる。
「だから、だから……一分でも、一秒でも早く、たくさん……愛してほしいんです……!」
胸の底から絞り出すかのような最愛の者からの懇願に、どうして抗うことができよう。
否、何かに抗う必要など、もうないのだ。
なすがままに、ただ求めるがままに、進むこと。もうとっくに、二人にはそれが許されていたのだから。
蛇珀はいろりの手を握りしめた。
「……いろり、俺は……」
なんと言えばいいのだろう? うまく自分の気持ちを伝えるのは難しい。
だがうまくやる必要などないのだ。いろりなら、あるがまま口にすれば、きっと理解してくれる。そう思える安心感と、絶対的な信頼があるからこそ、蛇珀はここまで乗り越えることができた。これからもずっと。
「……俺は、お前といれば、いるほど……お前を愛しいと思えば、思うほど……お前を傷つけそうで、怖かったんだ…………、でも、もう、限界だ」
ぽつり、最後を独り言のように呟くと、ついに蛇珀はいろりに振り向いた。
そして自身を必死に見上げるいろりの頬を両の手で包んだ。
「壊していいか……?」
吐息がかかるほど間近で視線が絡み合う。
蛇珀の翡翠色の瞳はこの上なく熱情を孕み、今までで最も深く、美しく、輝いていた。
「――――はい……はいっ……! 壊してください、蛇珀さ――」
いろりの呼吸を不安事奪い去るように、蛇珀は唇を合わせた。
この瞬間、蛇珀の中のもう一人の自分は跡形もなく姿を消し、二度顔を出すことはなかった。
襖越しに滲む月光を背景に、蛇珀といろりは初めての時を迎えた。
命の長さは違えども、今同じ時を過ごしすべてを分かち合っている、この瞬間は永遠なのだと、互いの肌の温もりが教えてくれる。
恋をすれば綺麗になるというのは本当のようで、いろりは出逢った頃よりもずいぶん
先ほどまで冷えていた広い布団は、二人の体温で熱を持つ。
仰向けに寝たいろりに覆い被さるようにして、口づけを繰り返す。その薄い唇はやがて白い首筋へ、そしていろりが蛇珀のものである証の刻印へと辿り着く。
緊張と恥じらいのあまり目を閉じていたいろりだったが、不意に瞼の隙間から光のようなものを感じてそっと視界を開いた。
そして目の前にあった光景に、思わず蛇珀の名を呼んだ。
「じゃ、はく、さま……!?」
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