九
「母が言ったことを気にしてくださっているんですよね。わかっていますよ。偏差値が高い学校に行き、お給料が高い仕事に就く、そういったのが世間一般では価値があるように言われていますから。でもそれは私のしたいことではありません。私はあなたと一緒に、少しでも長くいたいんです、そこにしか私の幸せはありません」
穏やかに微笑みながらも、迷いなく意志の強い目で告げたいろりは、蛇珀を釘付けにした。
「あっ、でも、巫女は独身の女性じゃないとダメだったような……」
「……神主がいいって言ってんだからいいだろ?」
いろりの白く滑らかな頬を両の手で包むと、蛇珀はそっと口づけた。
いろりは緊張しながらも、もうそれを当然のように受け入れる。
蛇珀の接吻はいつもこうだ。まずは浅く、優しく、それがどんどん深く、激しさを増してゆく。
「いろり、いろり……」
蛇珀は無意識だが、いろりに触れる際いつもこうして囁くように名を呼ぶ。
直接的な愛の言葉を述べるのが苦手な蛇珀が、熱に浮かされたように自身の名を連呼するのが、いろりにはたまらなかった。
好きだ、愛してる、と、言葉にしなくても蛇珀の気持ちが伝わるからだ。
蛇珀様、蛇珀様、好きです、愛してます、もっと、もっとあなたを――。
気を失いそうな濃厚な接吻の中、いろりは切にそう願った。
いろり、いろり、好きだ、愛してる、もっと、もっと、お前を俺の手で――――。
『ぐちゃぐちゃに犯したい、死ぬほど鳴かせたい、そうだろ?』
蛇珀がいろりの浴衣に手を忍ばせようとした時、もう一人の狡猾な笑みを浮かべる自分が脳裏をよぎった。
恐ろしくなった蛇珀は、反射的にいろりの両肩を掴み、自身から引き離した。
「じゃ、はく、さま……?」
驚くいろりの声で蛇珀はようやく我に返ると、誤魔化すように笑った。
「あ……あ、ああ、ね、寝るか!」
「そ……そうですね!」
蛇珀に合わせるように、いろりもぎこちない笑みを作った。
すべて蛇珀が初めてのいろりは、自ら
寝室の照明を一段消し、橙色のほのかな灯りの中で二人は同じ布団に入った。
「あの、蛇珀様、手を握って寝てもいいですか?」
「……ああ」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
「おやすみ、いろり」
一日の終わりの挨拶をして愛らしく微笑むと、いろりはゆっくりと眠りに落ちていく。
胸は弾むのにそれと同時にとても安らぐ。いろりは蛇珀の側を、唯一無二の安息の地としていた。
一方、蛇珀は……
――ね……眠れねえぇ――――……!!!
いろりと二人暮らしを始めてから、蛇珀は毎晩この様子である。
神力が残っているため睡眠時間が少なくとも身体に支障をきたすことはないが。
肉体面ではなく、精神面がとにかく厳しかった。竜の寝床での苦行が可愛く思えるほどに。
横を向けばすぐ近くにある子うさぎのような寝顔。それに今に食らいつこうとしている蛇の自分。繋いだ手は細く、力を込めれば容易く折れてしまいそうに感じた。
それでもその可憐な花を手折りたいと、そんな自身の中にある欲望という名の化け物が、落ち着くどころか日に日に蛇珀の中で膨張する。それはもう、破裂しそうなほどに。
長時間経ちようやく眠りに落ちようものなら、必ずいろりを強引に自分のものにする夢を見るため、それがまた蛇珀の睡魔を遠ざけていた。
……ちっと頭冷やしてくるか。
そう考えた蛇珀は握っていたいろりの掌をそっと外し、気持ちよさそうに夢見る頬に優しく唇を落とした。
「悪りいな、いろり……すぐ戻るからいい子で寝ててくれ」
そう小さく伝えると、蛇珀は部屋を抜け、下駄を履くと外に出た。
そして他の者が侵入できないよう神力で家全体を結界で覆うと、ある場所へ向かった。
狐神社の裏手に位置する緑渦巻く森林地。
真夏とはいえ深夜一時、背の高い木々のみずみずしい葉に覆われた辺りは肌に心地よい涼しい空気が流れている。
森を少し歩けば、やがて目の前に派手さはないが風情ある一筋の滝が現れる。
灰色の岩に囲まれた先に落ちる水流、蛇珀はここに座禅を組み、静かに目を瞑っていた。
森さえも眠っているような静寂の中、ただ滝の音だけが響き、自身も大地の一部と化したような錯覚に陥る。
街灯もなく、唯一頼りとなる月明かりは見事に滝壺を照らし、白い手ぬぐい一枚を腰に巻き滝行に励む蛇珀を讃えていた。
その姿の、なんと絵になることか。
恋を知り男に磨きがかかった蛇珀の清廉さと耽美さを併せ持つ魅力たるや、もはや狐雲をも凌駕するほどであった。
「ふぅ……」
そろそろいいだろうと、心身を鎮めた蛇珀が岩を踏みしめ滝から上がる。
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