七
どちらに従うべきか。蛇珀はいろりをあまりに寵愛するが故に葛藤していた。
そんな中でも時は経ち、今日もまた何事もないかのように一日が終わろうとしていた。
美しい三日月が社を照らす午後十時、蛇珀は風呂から上がり、乾ききらない黒髪をタオルで拭いつつ涼みがてら外の廊下を抜けて寝室に戻ろうとした。
若草色に菊の柄が模様された着流しは、実に蛇珀に相応しくその色男ぶりを引き立てている。
真っ直ぐに続く焦茶色の廊下を踏みしめていた蛇珀は、ふと、足を止めた。
その先に立っている人物が目に入ったからだ。
「狐雲……?」
美しい立ち姿で三日月を見上げていた男神は、蛇珀の声に穏やかな笑みを持ちながら応えた。
「元気そうであるな。……なんだ、いろりとともに
「なっ……!?」
顔を赤くしてあからさまに焦る蛇珀に、狐雲はくつくつと笑った。
「なんだ、お前! 余計なこと言いに来たのかよ!?」
「すまぬすまぬ、そのようなつもりはない。今日はそなたによい話を三つ教えに参った次第」
「よい、話……? なんだよ?」
「一つは、そなたが上流神になるに最も近いということ。そなたたちのことは私が一任することになった故、その条件の公開も天獄様に了承いただけたのでな。それは」
「好いた女の死に、耐えること……か?」
狐雲が告げる前に、蛇珀が答えを述べた。
人間の女に恋をした二人の男神は、琥珀色の月明かりを浴びながら真摯に互いを見つめていた。
「いろりの影響か、少しは頭も使えるようになったか」
「うるせえ……お前だけが達成した苦しみと言えば、後はそれくらいしかねえだろうが」
上流神になる第一条件は恋をすること。誰かを深く愛し、苦行を越え、結ばれ……そしてやがて来る、別れの時。
最愛の者に先立たれ、取り残される絶望、悲嘆に耐えること。これが上流神になるための最後の条件であった。
「名答である。愛するおなごを失った時、涙を流さずして堪えること。これが最後の条件である。もし悲しみに任せ涙を流してしまえば、大地は荒れ大勢の余分な命が消えることとなり、そなた自身も露となる」
本当はその年の人口調整の数に収まっていれば、涙一粒だけ、零すことを許されていた。それほどまでに上流神になるのは、特別なことなのである。
しかし狐雲はそこは伏せた。泣いてもよいと思わせないためだ。
狐雲の隣に並んだ蛇珀は、澄んだ夜空に浮かぶ月を見上げた。
「……やってやるさ、あいつが無駄な死を望むわけねえからな」
少し寂しげに、しかし頼もしく誓った蛇珀の横顔を見た狐雲は、あることを悟った。
蛇珀が他よりも強い力を持って生まれたのは、幸運だったわけでも、力が蛇珀を選んだのでもない。蛇珀が力を選んだのだと。
その器と、逞しさと、優しさが、強い神力を引き寄せたのだ。それは偶然ではなく、必然であった。
狐雲は踊り出したいほど嬉しくなった。
目にかけていた人間嫌いの蛇珀が、自分と同じ道を歩むことですでにここまで成長したのだから。
「そなたなら成せるであろう。しかし蛇珀よ、悲観することはない。いろりと同じ墓には入れなくとも、亡骸の欠片を仙界に連れ帰ることはできる。それを土に埋めれば、やがていろりの花が咲くであろう」
「……もしかして、お前がいつも気にかけてた椿の花は」
「いかにも。私の最初で最後の伴侶、華乃である」
仙界に唯一咲く花にいつも優しげな視線を向けていた狐雲。その理由を知り、蛇珀はすっかり納得した。
「私たち神は人間と違い、いにしえの記憶でもすぐ近日にあったように感じることができる。時折人型であった華乃を恋しく思うこともあるが、悲しみに暮れはせぬ。華乃との日々を思い返せば、未だに胸躍る」
いつも大人で余裕のある狐雲が、華乃のことを口にした今は、子供のような無邪気な笑顔を浮かばせていた。
そんな狐雲を見た蛇珀は、どこか誇らしいような不思議な気持ちになっていた。
それは蛇珀が初めて感じる、尊敬の念であった。
「……そりゃあいい話を聞いたな」
「次に二つ目のよい話だが、老化についてである」
「……老化?」
「ああ、私は人になっておる間もほぼ容姿に変化がなかった。故にそなたも同じであろう」
「俺たちは神力が残ってるからだろ? ならいろりは人間だから普通に歳を取るよな?」
「それはそなた次第である。私は毎夜のように華乃を愛しておったが……精神面の話ではないぞ、肉体的な愛のことである」
「わ、わかってるっつうの!!」
「華乃は百近くまで命をまっとうしたが、その美貌は二十辺りから変化がなかった。故によい意味で世間からあやかしのようだと言われておった。恐らく私と情を交わしたことで神力が華乃にも移り、外見の老化を防いだのであろう」
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