するとそこには、ハンガーにかかった衣服がずらりと並んでいた。外観は和だが、中は広いクローゼットのようになっていた。

「おお、なんかいろりに似合いそうな服もたくさんあるぜ」

「本当ですか?」

「ん? なんだこれ」

 押し入れの床に置かれた小冊子を手に取る蛇珀。

「し、じゅう、は、って……?」

 意味もわからず中を見た蛇珀は毛が逆立つほど驚いた。

 “四十八手”……それは男女が睦み合う際の様々な体位を記したものである。

「い、いろり! 今は来るなそこにいろ!」

「え? でもお洋服が……あれ? それはなんですか?」

「ななななんでもねええ!!」

 思わず閉じた小冊子の裏には、『百恋より』とご丁寧に語尾にハートマークまでつけた頭に来るほど綺麗な字が並んでいた。

 なぜ現代にあえてこの浮世絵くさいものを選んだのか、それはまあ、百恋が五百年前の生まれだと考えれば納得であったが。

「――あんっっのエロ神があ!!」

「蛇珀様!!??」

 怒りのままそれを押し入れ内に叩きつけた蛇珀だったが、いろりがいない時にこっそり見てみようとも思っていた。

「そうだ、こんなことしてる場合じゃねえ……まだ乗り越えなきゃいけねえ難関があるからな」

「えっ? ま、まさかまだ苦行が……!?」

「いろりの母ちゃんに結婚の許可をもらわねえと……!」

 思い詰めた顔をする蛇珀に、いろりは拍子抜けしてしまった。

「一体どんな試練が……」

「あ、あの、蛇珀様、そんなに気合いを入れられなくても、大丈夫だと思いますよ。普通結婚するためにあんな苦行はありませんから」

「え!? そうなのか!?」

 神の経験から結婚=地獄のような苦行があると思い込んでいた蛇珀であった。

「私の母は、私が幸せになってくれたらそれでいいと考える人なので」

「母ちゃん優しかったもんな」

「はい。だからこそ私が小さな頃には、よく……泣いていました。『ちゃんと生んであげられなくてごめん、お父さんがいない子にしてごめん』と……。当時私は目が見えなかったので、その顔を見ることはありませんでしたが、母の啜り泣く声と、手の甲に落ちた涙の温かさは忘れません」

 いろりの話を蛇珀はしんみりとした面持ちで聞いていた。

 それに気づいたいろりは心配させまいとにこりと微笑んだ。

「あ、全然暗い話とかではないんです。ただ、そういうことがあったので、私には必ず幸せになってほしいと、いつも言っていますから。蛇珀様なら大丈夫ですよ。きっと大歓迎されます」

「そ、そうか? まあ、歓迎されようとされまいと、ちゃんと承諾を得に行かねえとな」

「今からですか!?」

「当たり前だろ! 善は運べって言うからな!」

「それを言うなら善は急げです蛇珀様!!」

 有言実行の蛇珀は、いいと思ったことはすぐに行動に移す。

 神だからではなく、蛇珀本来のこの性格をいろりは羨ましく、そして男らしいと思っていた。

「しかし、この袴姿で挨拶に行くわけにはいかねえよな。どうすりゃいいんだ?」

「一般的には、男性が大事な場に赴く場合はスーツを着ることが多いようですが……、あれ? 蛇珀様、その……押し入れにそれらしいものが見えるのですが」

 いろりが指差した先を視線で追うと、そこには取り計らったように鼠色のスーツがかかっていた。

「おお、これか!?」

「きっと狐雲様辺りが気を遣ってくださったんでしょうね」

 いろりの推察通り、今後の流れを考え狐雲が用意したものであった。

「じゃあとりあえず着替えてみるか」

「じ、じゃあ私は後ろを向いておきますね!」

 正座をしたままくるりと背中を向けるいろりの純な反応が、可愛いような、ちょっぴり残念なような、蛇珀は複雑な気持ちであった。

 白いワイシャツに灰色のジャケット、パンツ。そうして蛇珀は初めて洋装に袖を通した。

「これでいいのか?」

「あ、できましたか蛇珀様……」

 振り向いた先に立つ蛇珀には、後光が射していた。正しくは後光が射しているように見えたのだが。

 いろりに幻覚が見えるほど蛇珀のスーツ姿はかっこよかった。

「……どうした、いろり? やっぱり洋服は慣れねえから似合わ」

「写真を撮らせていただけますか」

「へ?」

「お写真をお撮りしてもよろしいでしょうかああ!!??」

「お!? お、おお、別にいいけどよ」

 いろりはスカートのポケットから素早くスマートフォンを取り出すと、あらゆる角度から激しく連写した。それはもう、容量が大丈夫か心配になるほどの連写速度と回数であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る