三
するとそこには、ハンガーにかかった衣服がずらりと並んでいた。外観は和だが、中は広いクローゼットのようになっていた。
「おお、なんかいろりに似合いそうな服もたくさんあるぜ」
「本当ですか?」
「ん? なんだこれ」
押し入れの床に置かれた小冊子を手に取る蛇珀。
「し、じゅう、は、って……?」
意味もわからず中を見た蛇珀は毛が逆立つほど驚いた。
“四十八手”……それは男女が睦み合う際の様々な体位を記したものである。
「い、いろり! 今は来るなそこにいろ!」
「え? でもお洋服が……あれ? それはなんですか?」
「ななななんでもねええ!!」
思わず閉じた小冊子の裏には、『百恋より』とご丁寧に語尾にハートマークまでつけた頭に来るほど綺麗な字が並んでいた。
なぜ現代にあえてこの浮世絵くさいものを選んだのか、それはまあ、百恋が五百年前の生まれだと考えれば納得であったが。
「――あんっっのエロ神があ!!」
「蛇珀様!!??」
怒りのままそれを押し入れ内に叩きつけた蛇珀だったが、いろりがいない時にこっそり見てみようとも思っていた。
「そうだ、こんなことしてる場合じゃねえ……まだ乗り越えなきゃいけねえ難関があるからな」
「えっ? ま、まさかまだ苦行が……!?」
「いろりの母ちゃんに結婚の許可をもらわねえと……!」
思い詰めた顔をする蛇珀に、いろりは拍子抜けしてしまった。
「一体どんな試練が……」
「あ、あの、蛇珀様、そんなに気合いを入れられなくても、大丈夫だと思いますよ。普通結婚するためにあんな苦行はありませんから」
「え!? そうなのか!?」
神の経験から結婚=地獄のような苦行があると思い込んでいた蛇珀であった。
「私の母は、私が幸せになってくれたらそれでいいと考える人なので」
「母ちゃん優しかったもんな」
「はい。だからこそ私が小さな頃には、よく……泣いていました。『ちゃんと生んであげられなくてごめん、お父さんがいない子にしてごめん』と……。当時私は目が見えなかったので、その顔を見ることはありませんでしたが、母の啜り泣く声と、手の甲に落ちた涙の温かさは忘れません」
いろりの話を蛇珀はしんみりとした面持ちで聞いていた。
それに気づいたいろりは心配させまいとにこりと微笑んだ。
「あ、全然暗い話とかではないんです。ただ、そういうことがあったので、私には必ず幸せになってほしいと、いつも言っていますから。蛇珀様なら大丈夫ですよ。きっと大歓迎されます」
「そ、そうか? まあ、歓迎されようとされまいと、ちゃんと承諾を得に行かねえとな」
「今からですか!?」
「当たり前だろ! 善は運べって言うからな!」
「それを言うなら善は急げです蛇珀様!!」
有言実行の蛇珀は、いいと思ったことはすぐに行動に移す。
神だからではなく、蛇珀本来のこの性格をいろりは羨ましく、そして男らしいと思っていた。
「しかし、この袴姿で挨拶に行くわけにはいかねえよな。どうすりゃいいんだ?」
「一般的には、男性が大事な場に赴く場合はスーツを着ることが多いようですが……、あれ? 蛇珀様、その……押し入れにそれらしいものが見えるのですが」
いろりが指差した先を視線で追うと、そこには取り計らったように鼠色のスーツがかかっていた。
「おお、これか!?」
「きっと狐雲様辺りが気を遣ってくださったんでしょうね」
いろりの推察通り、今後の流れを考え狐雲が用意したものであった。
「じゃあとりあえず着替えてみるか」
「じ、じゃあ私は後ろを向いておきますね!」
正座をしたままくるりと背中を向けるいろりの純な反応が、可愛いような、ちょっぴり残念なような、蛇珀は複雑な気持ちであった。
白いワイシャツに灰色のジャケット、パンツ。そうして蛇珀は初めて洋装に袖を通した。
「これでいいのか?」
「あ、できましたか蛇珀様……」
振り向いた先に立つ蛇珀には、後光が射していた。正しくは後光が射しているように見えたのだが。
いろりに幻覚が見えるほど蛇珀のスーツ姿はかっこよかった。
「……どうした、いろり? やっぱり洋服は慣れねえから似合わ」
「写真を撮らせていただけますか」
「へ?」
「お写真をお撮りしてもよろしいでしょうかああ!!??」
「お!? お、おお、別にいいけどよ」
いろりはスカートのポケットから素早くスマートフォンを取り出すと、あらゆる角度から激しく連写した。それはもう、容量が大丈夫か心配になるほどの連写速度と回数であった。
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