蛇珀はいろりを腕に抱え、地面を蹴るとあっという間に二人から見えなくなった。

「あれが中流神とはこの世は終わるかもしれんの」

「よいではないか。あれが従順になっては魅力も半減するというもの。それに私たちの前では、口先だけの言葉など無意味であることはそなたも承知であろう?」

 神に世辞は通用しない。だからこそ、蛇珀が本音ではきちんと感謝の念を持っていることは明らかであった。最後のは、らしくないと思った蛇珀の単なる誤魔化しであることも。

 鷹海は二人が去った場所を眺めながら、親しみを込めた笑みを浮かべた。

「……まったく、困った奴じゃ」

『時に狐雲』

「なんでございましょう?」

『あのいろりという蛇珀の細君さいくん……主の細君であった華乃にどことなく似ておらぬか』

「……狐雲様の!? むう、わしは奥方のお姿を見たことがないのじゃが……つまり、どういうことじゃ?」

「ふふ、さて……ご想像にお任せいたす」

 狐雲は愉快そうに含み笑いをして流した。

 いろりと華乃、二人の容姿は違えど、纏う空気や面影など共通するものは確かにあった。

 他人の空似か、生まれ変わりか、はたまた狐雲と華乃の末裔か……は、神のみぞ、知る……?


 いろりを胸に抱いたまま、軽々と仙界の地を跳び、駆け抜ける蛇珀。

 しばらくすると前方に現れた一本の大樹。

 その前に華麗に着地すると、蛇珀はいろりをそっと降ろした。

 懸命に顔を上げれば、どうにかてっぺんまで認めることができる、堂々たる姿の大樹。茶色い幹の太さは恐らくいろりを十人並べても足りない。

 茂った葉は透明度の高い虹色をしており、常に色調が変化し、品のある優しい煌めきを生み出していた。

 人間界の樹木とはまったく別物であるその光景は、実に幻想的にいろりの目を惹きつけた。

「仙界に唯一生えている神樹……神の木だ。三百年前、俺はこの葉の雫から生まれた」

「この綺麗な葉っぱから、蛇珀様が……」

 この美しい大樹の葉から滴り落ちて生を受けたなど、なんて神秘的で、そしてなんて蛇珀に相応しいのだろうと、いろりは思った。

「俺たち神が身につけているものは全部この葉から作られてる」

「そうなんですか! じゃあ、この数珠も?」

「それはこの葉と、俺の爪でできてる」

「そうだったんですか! だから……」

 どことなく蛇珀の気配を感じることができたのかと、いろりは思った。

 思い出の写真すらなかったいろりを支えてくれたのは、この翡翠色の玉だったのだから。

 蛇珀は自身の欠片を肌身離さずつけていたいろりを見て、たまらない気持ちになった。

「……これを、お前に見せたかったんだ。俺の親みてえなもんだからな」

「そうですよね……! 私もお会いできて嬉しかったです。連れて来てくださってありがとうございます、蛇珀さ」

 ま、と言おうとして蛇珀を振り返ったいろりは思わず言葉を失った。

 隣に並んだ蛇珀が、驚くほど真剣な目で見つめていたからだ。

 仙界には下界にない美しいものがたくさんある。綺麗に生え揃った緑の苔も、泉である水鏡も、この神樹も。

 しかし、どれもこの蛇珀の前ではただ霞み、引き立て役になるのみだといろりは痛感した。

「ありがとな、いろり。俺を待っててくれて」

 蛇珀は、愛おしさの限りを尽くしたような優しさ溢れる微笑みをいろりに向けた。

 蛇珀はすべてを知っていた。

 苦行を終えた際、天獄よりいろりの状況を伝えられたからだ。

 自身が苦行に出てから、雨の日も風の日も毎日欠かさず無事を祈るため神社に参拝していたことも、百恋の誘惑を容易く拒絶したことも、人前では気丈に振る舞いながら夜な夜な涙に暮れていたことも――。

「い、いいえ! わ、私は本当に、な、何もできなくて、ただ、待っているしかできなくて……」

 蛇珀の渾身の笑みが眩しすぎて直視していられなかったいろりは、顔を真っ赤にして視線を泳がせ、両手の指を弄った。

「あ、で、でも、少しお料理ができるようになったんです、蛇珀様に食べていただけたらと思って、えぇと、お肉料理を、中心に、あ、でもまだ全然、うまくはないんですが……あ、あ、それから、蛇珀様に、手紙を書い……あ、て、手紙というより、日記のように分厚くなってしまって、読むのが大変かもしれないんですが」

「いろり」

「ひゃいっ!?」

 緊張のあまり焦って早口になっていたいろりは、名前を呼ばれ飛び跳ねながら背筋を伸ばした。

 いつの間にか目の前に近づいて来ていた蛇珀の端麗な顔。

 しかしその表情は、先ほど見せた神らしい潔白な笑顔とは違った。

 苦しげに眉を寄せ、渇望するような熱視線……それは蛇珀の“男”の顔であった。

「……俺はもう我慢できねえ……触れてもいいか?」

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