六
吐息と吐息が触れ合い……。
堕ちた――――?
百恋がそう思った時――。
突如、頬に強烈な痛みが走る。
何が起こったかわからず、百恋は赤く腫れた頬に触れて、初めて自分がぶたれたという事実に気がついた。
茫然としたまま、ゆっくりと振り向いた先にいたいろりは、息を乱し、普段優し気に下がっている眉と目尻を吊り上げ、百恋を睨みつけていた。
いろりは激怒していた。恐らく生まれて一番の怒りであった。
「どうして、そんな嘘をつくんですか……? 蛇珀様は、そんなに弱い方ではありません! 自分で言われたことは、成し遂げられる方です! でも、もし……もしそれが本当だったとしても……あなたは、蛇珀様が大変な時に、一体何をしているんですか……? 見損ないました……! 私のすべては蛇珀様のものです! 触らないで、もう二度と、私の前に現れないでください……帰って!!!」
百恋の恋の駆け引きは完璧であった。
しかしいろりは、完璧を求めていない。
いろりは常に、百恋の向こうに蛇珀を見ていた。学校にいても、二人で出かけても、蛇珀とまた逢えたら、こんなことがしたいと想像するのが楽しかった。
蛇珀と人同士がするようなデートは、きっとスムーズにはいかないだろう。女性が好みそうな店も流行りも知らなければ、うまくエスコートする技術もなく、世辞も言えない。
粗暴で不器用で愛想もない。
しかし、いろりは蛇珀のそんな短所こそ愛していた。
照れ隠しに目を逸らす仕草、なりふり構わず守ってくれる強さ、何よりあの、不意に見せる嘘のない愛に溢れた微笑みは、どんなに飾り立てた言葉よりもずっと尊く、いつも輝いていた。
「……ありがとう、いろりちゃん。蛇珀は幸せ者だね」
「――え……?」
微かに寂しげに、しかしどこか清々しく微笑んで、百恋は忽然と姿を消した。
百恋の夜這いから一夜明け、茹だるような暑さの八月が幕を開けた。
いろりは朝早くからセーラー服に袖を通し、夏休みの課題をするため高校の図書館に足を運んでいた。
そしてその帰り、鳥居連なる狐神社に向かう。蛇珀が苦行に出てから、いろりは毎日欠かさず参拝をしているのだ。
どうか、今日も蛇珀様が無事でありますように……。
賽銭を入れ、合掌し、目を閉じながらそう祈りを込めていた時だった。
「毎日ご苦労であるな」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこには豊かな尻尾をした琥珀色の狐がいた。
いろりはたたずを呑んだ。
鷹海、百恋に続き、今度は狐雲。
いつか蛇珀の訃報を知らされるのではないかと、気が気でなかった。
「そなたを迎えに来た。案ずることはない。よい知らせである」
「……え……?」
いろりは思わず気の抜けたのような声を、吐息とともに漏らした。
「あまりに早い朗報に驚いておるのはそなただけではない。さあ、参るぞ」
「は、は、い……!」
よい知らせ、とは一体なんなのか?
まさか……と、いろりは期待に胸膨らませるが口に出せば夢になってしまいそうで、そっと胸に手をやると深呼吸をして心を落ち着かせるよう努めた。
狐雲の尻尾に触れ、空間移動をした先はやはり仙界であった。
そこには、薄紅色の長い髪に紅い狩衣の後ろ姿をした人物が立っていた。
背後に気配を感じると、百恋は徐に振り返った。
そして視線の先にいろりを見つけると、百恋はそれはもう、大層優し気に微笑んだのだ。
その笑顔を見て、いろりはすべてを察した。
――ああ、この方はきっと、あんなこと、したくてしたわけじゃない。何か理由があったんだ。
「狐雲様、いろりちゃんに全部教えていいですか?」
「ああ、かまわぬ。すべてが終わった今、種明かしは必要であろう」
人型に戻った狐雲が問いかけにそう答えると、百恋はいろりの前に立ち、その額に手翳しをした。
いろりの脳内に流れ込んでくる映像。
それはまるでその場に立っているかのように、現実味を帯びた再現だった。
当時の仙界にて、百恋の姿が映し出される。そしてその百恋の隣には、彼より頭一つ分抜き出た背をした、肩幅の広い大男がいた。茶色い髪はライオンの鬣のように茂り、黒い狩衣の上からでもわかるほど隆々とした筋肉を持っていた。
「拳豪、はいこれ、下界に降りて来たから甘味のお土産!」
「おお、またか、ありがたくいただくぞ百恋」
「もー、そんなでっかい図体してお団子が好きなんだから笑えるよね!」
「やかましい」
見た目は野獣のようである拳豪であったが、その澄んだ赤胴色の小さな瞳はとても優し気であり、二人の関わり合い方から親しい仲だったことがよく伝わった。
場面は変わり、拳豪が婦人と見つめ合う一幕となる。
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