自身に靡けばいろりや蛇珀が消えることは、以前の経験により知っていた。

 二人を応援したくとも、手を抜き天獄の命令に反くようなことがあれば自身が露となりかねない。

 口には出せない葛藤が百恋の中にはあり、心のどこかで無理をしていたのかもしれない。

 しかしそれが顔に出るほど百恋は未熟ではない。察したいろりが普通ではなかった。

「ふっ、ふふ……」

「百恋様……?」

「あははははっ!」

 百恋は堪えきれず、思い切り笑った。

 久しぶりに本気で笑った気がした。

「……ありがとう、いろりちゃん……君は優しいね。僕なら大丈夫だから」

 一頻り笑い終え、落ち着きを取り戻した百恋の微笑みは、どんな宝石も霞むほど美しく輝いていた。

 普段調子のいい道化を演じている百恋の本心からの笑みは、いろりの目をも惹きつけた。

 そこには嘘がなかったからである。

 そして百恋は、白い丸テーブルを挟み、向かい合って座っていたいろりに、こう告げた。

「……ねぇ、いろりちゃん」

「は、はい?」

「男は蛇珀だけじゃないと思う、よ……?」

「え……?」

 真剣な眼差しで囁くように甘い声がいろりの耳に響いた。

 硬直しているいろりを見て、百恋はいつもの笑顔に戻ると席を立った。


 百恋と水族館に出かけてから一週間、七月最後の夜。いろりは自分の部屋で一人、学習机に向かっていた。

 あれから百恋からの音沙汰は一切ない。

 神の力でスマートフォンも持ち毎日のように連絡して来ていたのに、だ。

 百恋がそれをしないのは、恋の駆け引きで押してダメなら引いてみる。……この引いてみる、の肯定を行なっていたからである。

 そんなことをされているとは露ほども知らないいろり。そんな彼女の背後が、不意に蒼白く光った。

 いろりは文字を綴っていたシャープペンシルを持つ手を止め、後ろを振り返った。

 するとそこには、蒼白い光を纏った漆黒の鷹がいた。

 普通の鷹より一回り大きいだろうか、艶のある羽根に、ガラス玉のような蒼い瞳、それと同じ色のくちばしと足が印象的であった。

「……もしかして、鷹海様、ですか?」

「そうじゃ。ようわかったの」

「やっぱり! そのお身体の色と目でわかりました!」

 気高い立ち姿の鳥は、紛れもなく海を司る鷹神の鷹海であった。

「怖くないのか、この格好でも?」

「いいえ、ちっとも」

「狐雲様の狐姿ならともかく、わしや、蛇珀の蛇姿なんかは特に娘には嫌われる類じゃろう」

「……そうなんですか? 私は爬虫類も鳥類も好きですが」

「真面目じゃが変わった娘じゃの……」

「……あの、蛇珀様に、何かあったのでしょうか?」

 椅子に座った身体を鷹海の方に向けて不安気に尋ねるいろり。仙界から使者が来るなど、何か悪い報告でもあるのだろうかと心配をしたのだ。

「いや、何もない。あいつはまだ苦行中じゃ」

「そうですか。……では、鷹海様はどうしてここに?」

「……なんとなく、元気かと気になり来てみただけじゃ。深い意味はない」

「そうでしたか。……わざわざありがとうございます。百恋様といい、神様はお優しい方たちばかりですね」

「それはいろりの心が綺麗だからじゃろ。神は相手により邪にも善にもなるからの」

 鷹海の台詞に、いろりは急に思い詰めたように暗い表情をした。

「……いえ、私はそんな、そんなできた人間ではないんです、本当に……」

 苦し気に俯くいろりを見て、何かまずいことを言ったかと鷹海は話題を変えることにした。

「そういえば百恋がこちらに来ておるようじゃな」

「あ、はい、そうなんです。四月からずっと私と同じ学校に来られていて……先日は水族館に遊びに連れ出してくださいました」

「あいつが、いろりを遊びに……?」

 鷹海は百恋が試練の片棒を担いでいることは知らない。

 三百年前に戦神が人との恋で消えたことは狐雲から聞かされていたが、詳細については伏せられている。

 苦行の内容や答えまで知るのは、狐雲と百恋だけとされている。

 そのため鷹海はなぜ百恋がそこまでいろりの近くにいるのか不可解であったが、深く考えない頭は蛇珀とよい勝負であったため追求はしなかった。

「それはなんじゃ? 何か書いておったようじゃが」

「あ、これはですね……」

 いろりは途端少し恥じらうように頬を染めた。

 鷹海が聞いたのは、いろりの机に置いてあるノートと手紙の山だった。

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