「し、知らないわよ、あたしも」

「俺は先を急ぐ! 惚れた女に待ちぼうけさせるなんざ男じゃねえからな! じゃあな!」

 に、と牙を見せ迷いなく走り出す蛇珀は、その魂にはあまりに眩しく映った。

拳豪様も、あんな風にあたしを想って必死に苦行を越えられたのかしら……なのに、あたしは――……。

「……ごめんなさい、拳豪様、ごめんなさい……」

 涙を流すことも許されない魂は、罪の意識に苛まれながら長い長い地獄を彷徨い続ける。

 蛇珀はぐらぐらと煮えたぎる釜茹での道を飛び越えたところで、鼻をくすぐるいい匂いに足を緩めた。

「なんだ? すげえいい匂いが……」

 言い終わる前に、蛇珀の目の前が急に明るくなり、豪華な料理が現れる。

 それらは、赤い竜の模様が彫られた白く広い机の上に隙間がないほど並べられている。

 和洋折衷、高級食材も多数揃っていたが、蛇珀の食欲をそそるのは極めて庶民的なものだった。

 なぜなら蛇珀の舌はいろりが買ってくれたものや、いろりの家で出てくるものでできていたからだ。

 特にその中でも蛇珀が気に入っていたのは……。

「う、ウインナー!!」

 蛇珀はすっかり燻製肉にハマっていた。

 蛇は本来肉食のため仕方がないことである。

 好物の登場に思わず目を輝かせた蛇珀であったが、さすがに明らかにおかしいと気がつくと、わなわなと肩を震わせ机を食事もろともひっくり返した。

「――ってどう考えても罠だろうが! どれだけ俺のこと頭悪りいと思ってやがるんだ天獄様はよォ!!」

 蛇珀に拒否された食事たちは嘘のように消え失せた。

 バカにしやがって、と呟きながら先を進もうとする蛇珀の前に、薄明るい雲が現れる。

「……今度はなんだ?」

 そこから姿を見せたのは、ずらり横並びになった絶世の美女たちであった。

「じゃはくさまあぁ〜〜」

「…………」

 蛇珀の視線は氷点下を下回った。

 さすが恐ろしいまでにいろり一筋の男である。

 猫撫で声を出し誘惑する美女たちを無言で飛び越える蛇珀。

「ちょっと、全然効かないじゃない!」

「セクシーじゃなくキュートの方がお好みなのかしら? それなら!」

 焦った刺客たちが急いで見た目を可愛い系統に変えると、再度蛇珀を呼ぶ。

 すると蛇珀が視線をくれた上ずんずんと近づいて来たため刺客たちは「来た来た!」と期待に胸膨らませたのだが。

「なんだその豚みてえな顔は。いろりは花の億倍綺麗だぞ」

 指差して顔面を全否定された美女たちの幻は、羞恥と怒りに真っ赤に顔を歪ませながら消え失せた。

 本人の前では気恥ずかしくとてもこんなことは口にできないが、他人の前では饒舌な蛇珀である。

 仮初の極楽が消失し淀んだ空間に戻ると、蛇珀は腕を組み、踏ん反り返るように天を仰いだ。

「俺にこんな小細工は通用しねえぜ! 俺を追い詰めたいならもっと肉体的な苦行を強いた方がいいんじゃねえか天獄様よォ!!」

『……まだ我を挑発する気力が残っていようとは。よかろう、受けてみよ』

「――ガッ……!?」

 天から蛇珀目掛け、巨岩が落下する。

 自身の十倍は重さがあろう黒岩を、蛇珀は両掌で受け止め、押しつぶされまいと姿勢を低くし最大限力を込める。

 素足は道にめり込み、白い腕と眉間に血の管が浮かび上がる。

「ぐ、ぎ、ぎぎぎ……がああぁああッ!!!」

 渾身の力で巨岩を押し返す。

 投げ飛ばされた岩は闇の彼方へ消えていった。

 浅い呼吸を繰り返し息を整えると、蛇珀は前を向き、また休むことなく走り始めた。

「待ってろよ、いろり! 苦行なんざさっさと終わらせて早くお前と――……」

 自分の妄想に思わず赤くなった蛇珀は、バチン! と音がするほど豪快に両頬を平手打ちした。

「邪心、喝! ……いや? これは邪心じゃねえ、愛だ愛!! いろり、いろり、いろりいいぃぃ!!」

 菩薩のようないろりの笑顔を思い出しながら、蛇珀は竜の尻尾を目指す。

 ――果たして、蛇珀の努力は報われるのであろうか……?

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