四
――――あれから実に、約六百年の歳月が流れた。
狐雲は天獄に課せられた苦行を乗り越え、華乃もまた、試練を突破した。
天獄に認められた二人は仲睦まじく生涯を添い遂げた。
しかしどれほど愛し合っていても、神と人が同じ時間を生きられるわけではない。
それでも狐雲には後悔などなかった。
その現実を受け入れた上で優しさと強さを持ち、華乃を最初で最後の妻として娶ったのである。
「若き二人が今、当時の私たちのように天の試練に果敢に挑んでおる」
狐雲は仙界にある、唯一の花の前に立っていた。
狐雲の胸部まである背丈の細い木には、控えめながらも鮮麗な椿の花が咲いていた。
それは淑女でありながら、多大なる情熱を胸に秘めていた彼女そのものであった。
「影ながら応援してやってはくれぬか。……のう、華乃」
慈しむように微笑み語りかける狐雲に、応えるように嫋やかに、紅い花弁が揺れていた。
狐雲がありし日に想いを馳せていた頃、竜の寝床では一人の男神の咆哮が轟いていた。
「どけどけどけええぇぇ! 蛇珀様のお通りだああぁぁ!!」
剣山のように無数の針が生え揃う道を、蛇珀は素足で駆け抜けていく。
竜の寝床とは天獄の内にある世界のことで、わかりやすく言えば地獄である。
人間界で罪を犯した者たちが魂だけの姿と化し、苦行を受けることで穢れを浄化する場。黒とも灰とも判別のつかない濁った色をした太い道は竜の身体のように長くうねり、そのとぐろの先端は毒々しい黒紫の雲に隠れ決して見えなかった。
その渦を巻いた出立ちがまるで竜が横たわっているように見えるため、竜の寝床と名付けられたのだ。
罪人はその最後まで辿り着けば、ようやく痛みや苦しみから解放され成仏することが許される。
しかしあまりに果てない道は、ほとんど終わりのない永遠の地獄と化していた。
蛇珀の苦行はこの竜の寝床の先端まで到達することである。
他の罪人たちとは事情が違うため、蛇珀は肉体を与えられここに放り込まれていた。
これは苦行であり、試練であり、そしてもう一つ、修行でもあった。
いろりの色香に当てられ、大地を震えさせてしまう未熟な精神を叩き直し、絶対的な根底理性を創り上げるための荒療治に似た鍛錬であった。
この苦行が成功すれば、蛇珀は一回り成長することだろう。
もちろん成功すれば、の話だが。
四方八方に飛び交う
「痛ってえ! 痛て痛て痛てい――痛てえっつってんだろうが!!」
大きく振り上げた左腕を勢いよく下ろすと、風が起き、鉄の刃が吹き飛んでゆく。
裂かれた衣類が煩わしく、蛇珀は上半身の白い布を自ら破り捨て袴一枚の格好になる。
普段は若草色の狩衣で隠れているその上半身は、実に均整の取れた
空間には夥しいほどの勾玉に似た半透明色の魂が浮遊しており、常に耳を塞ぎたくなるような陰鬱なうめき声が響いていた。
蛇珀はそんなことを気に留めるでもなく、ただ前だけを見て走っていたが――。
ふと、気になる言葉を聴覚が拾い、曲がり道の縁に乗り、足を止めた。
「……どうして、あたしは何も悪くない、ただ好きになったのが神だっただけなのに……」
呪いのように同じことを繰り返しながら、蛇珀の元に近づいてくる悲しげな魂。
「あんなの抗えるはずがないわ、あたしは騙されたのよ、ひどい、ひどい、なのに三百年も前から、ずっと、逃げられない、永遠にここを彷徨って、神に恋なんてしなければこんな目に遭わなかったのに、恨めしい、恨めしい、神と人との愛なんて成立するはずがない、ただ自分を不幸にするだけ……」
蛇珀は物事を深く考えない性格だが、これには思い当たる節があった。
三百年前、神と人の恋――。
悲恋となった当時の戦神の、想い人だったのであろう、と。
「……それはお前たちの話だろ、俺たちには関係ねえ」
「裏切るわよ、あなたを、人は弱いわ、神とは違う、いつ帰るかわからない相手をずっといい子で待つなんてできない、あなたたちも同じ道を歩むわ」
「何言ってるのかわかんねえな」
「頭の悪い神ね、綺麗事を言っていられるのは、今のうちだけということよ」
「なんだとコラ!? んなことはどうでもいいっつってるんだよ!」
魂が考えるように、僅かな間が流れた。
「俺はどんな結果になろうとあいつを恨まねえ。いろりの全部を受け止める。それができねえような半端な気持ちじゃねえ」
「……言えるわ、口ではなんとでも」
「そうだな、だから行動で示し――ってこんなところで道草食ってる場合じゃねえ! ここの時間ってどうなってんだ!? 体感が狂ってわかりゃしねえ!」
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