「よき名であるな。華乃……また馳せ参じよう。話し相手にしかならぬと思うが」

 狐雲の返答に、華乃は遠慮がちながらも、精一杯の微笑みを見せた。

「ありがとうございまする。わたくし……お待ちいたしております、狐雲様を」

 華乃のその花笑みは、鮮烈に狐雲の記憶に焼きついた。


 ――その日から狐雲は、足繁く華乃の元に通い続けた。

 人目を忍び、夜更けに華乃の部屋にて繰り返される逢瀬が日課となっていた。

 出会いから一月数えた頃、仙界の泉前で物思いに耽る狐雲を学法が目にした。

「狐雲、狐雲」

「……なんだ」

「声がけしてもなかなか気づかないとは、何を考えていたのです?」

「……関係ないであろう」

「あの気性の荒い狐神がこのところやけに大人しいと、神々の間でもっぱらの噂ですよ」

「どうでもよい……」

 心ここにあらずの狐雲を見て、鋭い学法は勘づいた。

「その遠くを眺め憂いる姿……まるで恋の病のようですね」

 “恋”という単語に、狐雲は動揺を示した。

 噂では聞いたことはあったが、自身には一生無縁だと思っていたからだ。

 学法は狐雲の様子に、確信を得た。

「……なぜ、そのように思う? 経験があるのか?」

「まさか。小生は学問の神ですよ。人の書物はすべて把握しておりますので。その中には恋の話も多くありますから」

 学法が語る“恋”とはこうだった。

 誰かのことが頭から離れず、夜も眠れない。胸が熱く、苦しくなる。常にともにいたいと感じ、逢瀬の時が待ち遠しくなる。大切に、自分だけのものにし、守りたくなる――。

 狐雲は驚きを禁じ得なかった。

 それはすべて、嘘のように自身の気持ちに当てはまったからだ。

「貴殿がまさか……ね。しかし、神と人の恋は、恐らく禁忌に近いですよ。生半可な想いでは、足元をすくわれましょう」

 狐雲は学法の忠告など、半分も聞いていなかった。

 己が心に気づいた今、狐雲は別の苦悩に暮れていたからである。

 それは華乃の縁談。 

 迫り来るその日を前に、狐雲はどう行動すべきかを思い悩んでいた。

 本心では華乃を奪い去ってしまいたい。

 しかし、そうすれば華乃の意思を手折ることになる。  

 華乃の意向を尊重すべきか、自身の想いを貫くか――。

華乃……どうすれば、私はそなたと同じ時を過ごせるのだ……。

 しかし、狐雲が葛藤して数日後、突如、転機が訪れる。


 その日も狐雲は約束した時刻に華乃の部屋に空間移動した。

 しかし、そこに華乃の姿はなかった。

 いつもなら少し落ち着かない様子で湯上がりの白い浴衣に身を包み、蒸気させた頬で狐雲を見つけると柔らかく微笑むのだが。

 狐雲は嫌な予感がした。

 部屋の明かりは消え、夜中であるにも関わらず、なぜか襖越しに見える外の景色が煌々としていた。

 紅に近い、橙色に揺らめく光。焦げつくような異臭に、狐雲は勢いよく襖を開け放った。

 ――するとそこは、火の海と化していた。

 庭園の見事な枯山水も、植え込みや木々もすべて飲み込まれ、焼け落ちていく。

 絶句し辺りを必死に見回せば、木や家屋に刺された矢の切れ端が認められる。

 華乃のお家の敵集が、夜闇に紛れ火の矢を射り、奇襲をかけたのだと狐雲は気がついた。

「――華乃、華乃!!!」

 狐雲は我を忘れ、必死に華乃の名を呼んだ。

 この時の狐雲は神ではなく、ただの恋する一人の男であった。

 狐雲は神眼を使い、華乃の姿を探す。

 琥珀色の瞳が激しく色を変え、愛しい者の居場所を捕らえる。

 そこには、薄暗い離れに押し込められ、数名の男により浴衣を乱されている華乃がいた。

「たす、け……こう、う、さま……」

 神眼を通して伝わる華乃の声、悲痛な姿。

 ――――狐雲は理性を飛ばした。

 穏やかだった空はたちまち世界の終わりのようにどす黒い雲雲に覆われ、滝のような雨と稲光りを降らせた。

「なんだ、突然……嵐か?」

「――ひっ……!?」

 美しい姫君である華乃を嬲ろうとしていた三人の男たちは、突如、何もなかったはずの空間に現れた狐雲に言葉を失った。

 狐雲の端麗な顔は猛悪な夜叉のように変貌を遂げ、髪は逆立ち、高圧な神力を放っていた。

 狐雲の黄金色の目に睨みつけられ、愚弄者たちは立ちどころに気を失い倒れていった。

「こう、うん、さ、ま……」

 国を破滅させかねない狐雲の憤怒は、華乃の無事を確かめるとかろうじて理性に傾いた。

 この時華乃が純潔を奪われていたなら、日本は滅びていたかもしれない。

 狐雲は幾分か自我を取り戻したものの、落ち着いてなどいられず急ぎ華乃を胸に抱きかかえた。

「こ、狐雲様! お待ちください! わたくしだけ逃げるわけにはいきませぬ! いけません、狐雲様……!」

 華乃が呼び止めるのも聞かず、狐雲は彼女を抱いたまま、惨状になりゆく現場から姿を消した。

 瞬く間に移動したその先は、連なる紅い鳥居を背景に建つやしろの御前であった。

 そこに着くや否や、華乃は狐雲を見つめながら微かに身を震わせ、次第に涙を滲ませた。

 灰色の砂利に片膝をつける狐雲の腕に抱かれたまま、華乃はしゃくり上げながら懸命に瞼を擦っていた。

「……私は、いらぬことをしたか」

「……ち、違います、違うのです! あなた様が悪いのではありませぬ。すべてはわたくしのせいでございます……!」

「華乃……?」

「わたくしは、口ではあのような……お家のために、この身を捧げようと告げましたが、本当は……本当は、嫌でならなかったのです……! あなた様に出逢う前なら耐えられたのです、身も心も凍らせてしまえばよいと……ですがっ……狐雲様に出逢ってから、あなた様のことばかり……っ、あなた様以外の殿方に触れられると考えただけで怖気おぞけが止まらず、いつかわたくしを攫ってくだらないかと願ってしまったのです……!」

 涙とともに堰を切ったように溢れ出る華乃の想い。

「申し訳ごまいませぬ、申し訳ございませぬ……! 一塊の人間が神様であるあなた様をお慕いするなど、あってはならぬこと……どうか、どうかこの身の程知らずなわたくしに罰を与えてください、狐雲さ――……」

 自身を責め立てる華乃の口を封じるように、狐雲は強引にその顎を引き寄せ、唇を重ねていた。

「そのようなこと私にできるはずがない! 神であることを忘れ、そなたの虜になっておるこの男に……!」

 声を荒げ、熱を込めた目で告げる狐雲。

 あまりの驚きと歓喜の衝撃で、華乃はしばし言葉を失った。

 互いの瞳の中に映る自身を見つめながら、狐雲はついに、決断を下した。

「……華乃、私はそなたにこの魂までも、余すところなくすべて奪われておる。そなたがお家に背き、人の理に背いたと自身を責めるのなら、その罪を私にも背負わせてくれぬか。……分け合いたいのだ。ともに生涯、寄り添って暮らしたい」

 狐雲の愛の告白は、月明かりの欠片のように華乃に降り注ぎ、その胸に染み渡った。

「……だが、そなたと出逢う前の私は、決してよい神とは言えなかった。加えて人間のおなごを伴侶に迎えたいなど、天の逆鱗に触れよう。恐らくは過去現在に至るまでの罪の制裁、苦行が課せられるであろう。そなたにも……せずともよい苦労をさせるやもしれぬ。それでも……この狐雲について来てくれるか?」

 華乃の深く神秘的な瞳から再び雫が溢れ出る。

 今度は、悲しみではなく、ただひたすらに、幸福な――。

「はい、はいっ……! 狐雲様、狐雲様……あなた様となら、どこまでも……!」

 花開くように美しく笑った華乃を、狐雲は強く抱きしめた。

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