やがて我に返った狐雲は、何をしているのかと自身を叱咤し、踵を返そうとしたが。

あのおなご。このような夜更けに一人で……無事に帰路に着けるのであろうか。

 そんな考えが脳内を巡る。

 ――私は何を考えているのだ。どうせあのおなごも、自己中心で穢らわしい心を持つ人間に違いない。

 そう心中で言い聞かせてみても、足が進まない狐雲は、ついに観念したように女の前に姿を見せた。

「……おい、おなご」

 狐雲の声に、話しかけられた人物は驚きのまま顔を向けた。

「あ、ああ……も、申し訳ございませぬ。お目汚しを……」

 女は一度向けた顔を背け、急ぎ涙を拭っていた。

「……いや。このような夜更けに、おなご一人では危なかろう」

「お、お気遣い感謝いたします。ですが、家はすぐ側ですので」

 神力を抑えているとはいえ、自身を前にしても特段変わった様子を見せない彼女に、狐雲は興味を持った。

「送ってやろう。そなたがよければであるが」

「……え……?」

 改めて女は狐雲を振り返った。

 髪も結わず、化粧もしていない。

 しかしそのつぶらな瞳と、控えめに添えられた鼻、やや捲れたようにふっくらとした椿色の唇は、狐雲の視線を捕らえて離さなかった。

「よ、よろしいのですか?」

「……そなたのようなおなごが夜道を歩くのはあまりに危うい」

「何かおっしゃられましたか?」

「……こちらの話よ」

 凛とした立ち姿に、丁寧な言葉遣い。

 椿の花が模様された上等な着物は彼女によく似合っており、身分の高い者であろうことが窺えた。

 ――私は一体何を言っているのだ? 何を考えているのだ? なんなのだ。この、言い表すことのできぬ、初めての感情は…………。

 二人は横並びになり、歩いて行く。

 その間も、狐雲は華乃の横顔を盗み見ていた。

「……なぜ、泣いておった? 言いたくないならかまわぬが」

「…………縁談が」

 しばしの沈黙の後、華乃は消え入りそうな声で打ち明けた。

「縁談が決まったのです。一月ほど先に……名前も顔も知らぬ方の元に、嫁ぎます」

 その話に、狐雲は衝撃を受けた。

 なぜそんな反応をしたのか、もちろんこの時の狐雲にはわからなかったが。

 当惑し、言葉を選んだ。

「……他に、想い人が?」

「いいえ、恋など知りませぬ」

 この可憐な少女が、恋すら知らず生き絶えて行くのかもしれない現実を知った時、狐雲はまるで美しい花の蕾が咲くことなく散るような物悲しさを感じた。

「こちらがわたくしの住処にございます」

 かける言葉を思いつかないまま立ち止まったそこは、敷地の端が見えない大御殿であった。

 やはり身分が高い者なのだ、それ故家の事情で見知らぬ男に縁談という名目で売られようとしている。ならば、と狐雲は考えた。

 神力を解放し、華乃に自身が人ではないことを示す。

「私は仙界から来た狐神の狐雲である。そなたの寿命と引き換えに、なんでも一つだけ願いを叶えてやることができる。好いてもいない男に嫁がずに済むぞ」

 琥珀色の空気に包まれた狐雲を見て、華乃は一瞬驚いたように目と口を丸く開いた。

 しかしすぐに落ち着きを取り戻して言う。

「……いいえ、やめておきます」

「なぜだ? 寿命を気にしておるなら僅か一日でもかまわぬ」

「姉も……母も皆、その道を歩んでおります故、わたくしだけ逃げるわけにはいきませぬ。特にわたくしは四女でありまして、望まれて生を受けたわけではなく……微力ながらおいえの役に立ちたいのです」

 華乃は意志の強い瞳で真摯に狐雲を見つめ答えた。

「……そうか。それはそうと、そなたはなぜ、私を見ても驚かなかった? 人でないことは一目瞭然であろう。さらに今しがた神力を解放しても、反応が薄かった」

「え? そ、そうでしたか? これでもずいぶん驚いていた方なのですが……。わたくしは幼き頃から無愛想だとよく言われましたので……感じたことが顔に出にくいようです。気分を害されたなら申し訳ありませぬ」

「いや……謝らずともよい」

 恐らく周りの顔色を窺ううちに気持ちを隠す癖がついたのだろうと、狐雲は推測した。

「あの……」

「なんだ?」

「……また、お逢いできますでしょうか?」

 長い髪を耳にかけながら、恥じらうように控えめに尋ねる華乃。

「……名は、なんと申す」

「申し遅れました。華乃でございます」

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