十四

 不意に、どこからか声がした。

 その場にいた三人すべてがハッと顔を上げる。

 数時間前まですぐ耳元にあったはずなのに、懐かしく感じさせるその声。

 いろりは必死に辺りに視線を巡らせた。

「水鏡である。あちらだ」

 狐雲に教えられ、いろりは呼吸を乱し走り着いた。

 以前蛇珀と訪れた、薄蒼く透き通る円形の泉。

 悲しみを讃えるような美しい水面には、少女の最愛の者が映っていた。

「竜の寝床から外に連絡などできるのか……」

「例にないことである」

 狐雲と鷹海は遠巻きにいろりの後ろ姿を眺めていた。

蛇珀、そなたはやはり並の神ではないな。否応なしにも期待してしまうではないか――。

「蛇珀様っ……!!」

 いろりは水際に縋りつくように胸をつけ、蛇珀が映る水面を覗き込む。

 その立ち姿は以前と変わらぬ端正なものであったが、若草色の狩衣が奪われたことで白一色の和装になっていた。死装束に似たその格好に、いろりの肝が冷えた。

「俺は大丈夫だ、心配するな」

「……ッ……ごめ、な、さい、蛇珀、様……私のせいで、蛇珀様だけ、こんな、辛い思いを……ッ」

 いろりの涙が泉に落ち、一つ、二つと波紋を作り、蛇珀の姿を揺らす。

 蛇珀は困ったように少し眉尻を下げ、労るような優しい笑みを浮かべていた。

「泣くな、いろり。お前の泣き顔はなんつうか、こう……胸に、くる」

 いろりは急ぎ両の手で涙を拭った。

 その左手首には蛇珀からもらった数珠が光っている。

「悪いな……少し、待たせちまうと思うが」

「いいえ、いいえ……謝らないでください! 私……ずっとお待ちしています。蛇珀様の帰りを、命尽きるまで」

「そこまで待たせねえよ。必ず帰る」

「はい、はいっ……!」

 二人は水面越しに、熱く見つめ合っていた。

「いろり…………お前に、触れたい」

「私もです……蛇珀様……!」

 互いが互いに向け、手を伸ばす。

 そしていろりの指先が水面に触れた時、波紋とともに蛇珀は姿を消した。

――蛇珀様――……。

 いろりは翡翠の数珠を握りしめると、意を決したように立ち上がり、狐雲と鷹海を振り返ると深々と頭を下げた。

「狐雲様、鷹海様、この度は私のせいでお手を煩わせてしまい、本当に申し訳ありませんでした」

「……礼儀正しい娘じゃの。蛇珀よりよほど神らしいわ」

「いろり、そなたは聡い故理解しておろうが、蛇珀を待つことがそなたの苦行となっておる。いかに過ごすか」

「はい。私……料理を覚えようと思います」

 料理? と、先ほどまでの辛辣だった雰囲気を覆す文字がいろりから述べられた。

「私、目が見えなかったので、料理をしたことがなかったんです。ですから、蛇珀様がいない間、母に色々教えてもらおうと思います。帰ってきた蛇珀様に喜んで食べていただけるように……」

 少し恥じらいながらも心弾ませるように語るいろりに、二人の神は複雑な心境であった。

「鷹海、いろりを下界に連れ戻してやってくれ」

「はっ。来い、娘……いろり」

「はい」

 鷹海の腕に手を添え、いろりは仙界を後にした。

 誰もいなくなったその場所に立ち止まったまま、狐雲は独り言を連ねた。

「また百恋には難儀な任務となろう……さて、あのおなごはいかなる反応を示すか。華麗に切り抜けることができるかな。私の華乃かののように……」

 いろりに課せられた精神の苦行と試練。

 それがただ想い人を待つだけではないことは、六百年前、当事者であった狐雲が最もよく知っていた――。




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