十二
「三百年前に、一度、な」
鷹海の言葉に、いろりは蛇珀が言っていた三百年前の戦神の悲恋話を思い出していた。
『…………
地の底から響き渡るような強圧の声音。
いろりの前に立ち塞がる堂々たる巨山の姿は、神と人の越えられぬ境を現しているようであった。
「答えよ、いろり」
「あ! は、はい……! わ、私が東城いろりと申します。は、初めまして、天獄様」
狐雲に促され、我に返ったいろりは急ぎ返事をした。
『蛇珀は今、
――竜の、寝床……?
聞き慣れぬ単語に、いろりの悪い想像が膨らんでいく。
『今の我は羅獄の姿よ。この内には下界の罪人たちが穢れを拭うため魂のみとなり苦行しておる。蛇珀には肉体を与え、その者たち以上の苦行を強いておる。今は針道で巨岩を背負い歩んでいる頃であろう』
いろりの頭が真っ白になる。
その後、脳裏に浮かび上がる蛇珀の姿。
――なぜ、なぜ……?
ただ恋をしただけなのに、罪人以上の苦しみを味わわなければならないのかと――瞬間、いろりの思考が弾けた。
「どうしてっ……どうして蛇珀様だけ、そのような目に遭わなくてはならないのですか!? 蛇珀様の心を乱したというなら、悪いのは私です! それなら私に罰を――……ッ」
興奮のあまり立ち上がり、天獄に向け激しく主張するいろりが突如黙り込む。
『人間如きが。誰が許可なく発言してよいと言った』
いろりは天獄の力により喉が詰まったように息ができなくなる。まるで縄で首を絞められているような感覚に、いろりは両手で自身のそこに爪を立てた。
その事態に、狐雲は冷静かつ迅速に助け船を出す。
「天獄様、このおなごの戒めをお解きください。さもなくば、今後私の寿命の譲渡を一切お断りいたします」
『何……』
神々は人の寿命をもらい生きながらえている。天獄は、その神々の寿命を受けることで長きに渡り存在することができる。
天獄の力を前にし、逆らう神などいないことは言うまでもないが、この狐神は別である。
最も有能であり人の寿命に百倍の価値を与えることのできる狐雲は、天獄にとっても手放すには惜しい存在。それを踏まえた上で発言している強(したた)かな神である。
それを聞いた天獄は、いろりを解放した。
戒めが解かれたいろりは地に崩れるように座り込んだ。
『この我を脅すとは……誠、主は破天荒な神よ』
「恐れ入ります」
「こ、狐雲様、ありがとうございます」
「頭を垂れよ。二度目はないぞ」
「は、はい……! も、申し訳ありませんでした……!」
いろりは地に這いつくばるように深々と頭を下げた。
『急かすでない。主にも苦行がある故、心しておくのだな』
「……そ、そうなのですね! あ……ありがとうございます!」
いろりの反応に、一瞬天獄が考え込むように黙した。
『……なぜ、礼を申した? 苦行の意味を理解しておらぬわけではあるまい。表を上げ答えよ』
「は、はい……私は、蛇珀様を、あ、愛しておりますので……蛇珀様だけが苦しい思いをするのは耐えられません。ですので、私にも苦行を与えていただけるならば……蛇珀様の辛さを、少しは分けていただけるような気がし、お礼を申し上げました」
いろりは天獄の機嫌を損ねないよう、できる限り丁寧な言葉を選び話した。
そんないろりの様子に、隣にいた狐雲は満足気に小さく微笑んでいた。
『あの蛇珀が選ぶだけあり奇特な人の子のようであるな。案ずるな。これは罰のみにあらず。試練である。乗り越えれば光が射そうぞ』
「天獄様のおっしゃる通りである。そなたたちは神と人の越えてはならぬ一線を守っておった故、ここまで辿り着けた次第」
「越えてはいけない、一線……?」
「その様子では、まともな接吻もまだであろう……?」
狐雲の台詞に、いろりは急に意味を理解して顔から火が出そうになった。
「あ、え、ええと、その、こ、心を読まれたのですか……!?」
「読まずともわかる。蛇珀が煩悩に負け、天獄様の許しなく神の身体でそなたと睦み合おうものなら、たちまち神力でそなたは絶命し、神の聖域を侵した蛇珀は露となり消えるところであった。……あやつの鬼のような理性に感謝するのだな。そなたを大切に扱いたいという想いあっての忍耐である」
神は人間のように欲や刺激に慣れていない。そのため女に好意を抱こうものなら、人間の男の倍は強く誘惑を感じる。
いろりを想う故、肉体の快楽に身を投じなかった蛇珀の精神力は並大抵ではなかった。
いろりは何も考えずに蛇珀の側に寄り添っていた自身を恥じ、そして心から感謝した。
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