十一

 この時――嘘のように、いろりの世界は色を失った。

「…………それは……蛇珀、様を、あきらめた方が、いい、という意味ですか? ……その方が……蛇珀様のためになる……ということ、でしょうか…………?」

 いろりは震えながら、階段の肌に爪を立てた。

「……それなら」

 次のいろりの表情、言葉は、狐雲にさえ驚愕の刹那を与えた。

「私の目を……もう一度見えなくしてください。蛇珀様のいない世界なんて……見る意味がありませんから」

 涙を堪え、懸命に微笑みを作って言ってのけたいろりの姿に、狐雲はこの少女――否、一人の人間の覚悟を見た。

「……そなたの堅固たる意思、確かに聞き受けた。案ずるでない、蛇珀は仙界におる。天獄様のところである」

「天、国……?」

「そなたが今想像したのとは違う。天に、地獄の獄で、天獄様という。名の由来は……来ればわかろう。私について来るがいい」

「は、はいっ! どこへでも行きます!!」

「私の尻尾につかまれ」

「失礼いたします!」

蛇珀といい、このおなごといい、一体どこからこの力がみなぎってくるのか。……実に懐かしい。

 蛇珀の無事を知った途端、色を取り戻したいろりに、狐雲は若干の懐かしさを覚え仙界へと移動した。


 十に分かれた狐雲の尻尾を持ち、再び訪れた仙界。

 そこは以前と変わらず、頬を刺すほどの冷えた空気が流れ、無音の静寂を保っていた。

 いろりが狐雲の尻尾を離すと、金の狐は琥珀色の光を纏う人型へと姿を変えた。

 いろりはしばらく狐雲の後をついて歩き、やがてその背中が止まると、その先に鷹海を見つけた。

 鷹海は凛とした姿勢で立ち、藍玉色の瞳でいろりを眺めていた。どうやら狐雲が彼女を連れやって来るのを待っていたようである。

「来たか、娘。……えらい有様じゃな。何があったか大体予測はつくが。……こちらに並べ」

「は、はい!」

 鷹海はいろりの汚れた服装を見て一瞬眉を潜め、自身の隣に来るよう促した。

 左に鷹海、中央にいろり、右に狐雲という形で三人は横並びになる。

「あの……天獄様、とおっしゃる方も、上流の神様、なのですか?」

「天獄様は人型をしておらん。正式名称は“天神羅獄山てんじんらごくざん”といってわしらは天獄様とお呼びしておる」

「……山、ですか?」

「天獄様はこの国の創設者であり、始まりのお方である。はるか昔、天獄様から神が生まれ、その神が罪を犯し下界に堕ちたことから人間が生まれたと言われておる」

 狐雲の言葉に、いろりは目から鱗が落ちる気持ちであった。

「だから、神様は人のような形をされているんですね……!」

「厳密に申せば人が神に似た形をしておる、ということよ。だが始祖が同じというだけで、神と人は今やまったく別の存在である故……わきまえが必要であるぞ。よいな、いろり……?」

 狐雲の真剣な目に、いろりは息を呑み、どんなことも受け入れる決意を固めた。

「そろそろお呼びしましょうか、狐雲様」

「うむ。……天獄様……例のおなごをお連れいたしました。どうかお姿をお見せください」

 狐雲が三人の前に広がる、何もない地平の彼方に語りかける。

 するとしばしの沈黙が訪れた後、天が澱み出す。

 仙界には太陽や月もなければ朝や夜もなく、季節や天候もない。故に下界での天災の干渉を受けない。

 見上げた先にはただ白と水が混ざり合ったような透き通った空間が広がっている。

 しかし狐雲の声により、その澄んだ天は嵐の夜のようにどす黒い濁りを見せた。

 やがてその濁りは仙界全土を覆うように侵食し、地響きが起こる。

 揺れを体感するわけではない。しかし、まるで大地そのものが泣いているような地鳴りであった。

 やがてその声がやむと、いろりたちの前方には壁のようなものが現れた。

 ――否、壁の如く巨大な山である。

 腐敗した皮膚のように鈍い紫と黒が入り混じったような色味。やや三角を模した形はしているが、その果ては視界に認められず、先端は禍々しい天を貫いていた。

 想像を絶する迫力に、いろりは思わず足がすくむ。

 気づいた時には、すでに狐雲と鷹海は右膝と右手を地につけていた。

 いろりは焦り二人に続くと、自身は正座をし、頭を低く下げた。

「怯えるのも無理はない。この状態の天獄様にお目にかかるのはわしでも二度目じゃ」

「二度目……?」

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