双方の吐息が触れる。

 ああ、もう少しで、唇が重なる。

 そう感じた時だった。

 ――不意に、蛇珀の気配が消える。

 待てども触れない温もりに、いろりはゆっくりと目を開けた。

 そこにあったはずの蛇珀の姿は、跡形もなく消え去っていた。

「…………じゃ、はく……さま……?」

 以前にも一度、こんなことがあった。

 二人が出逢ってすぐ、蛇珀がいろりの願いを叶えるまでは人間界に居座ると、その許可を狐雲に取りに行った時だった。

「蛇珀様……? 冗談ですよね? また仙界に少し行かれているだけですよね?」

 あの時と同じように、すぐに蛇珀は帰ってくると信じたかった。

――だが、いつまで経っても蛇珀は、いろりの前に姿を見せなかった。


 何が起きたか理解できず、いろりはしばし茫然とその場に立ち尽くしていた。

 先刻まであったはずの蛇珀の温もり。

 それが消え、一人きりの体温の冷たさに目を覚ましたいろりは、何かに弾かれたように部屋に戻った。

 バルコニーで履いていたサンダルを脱ぐのも忘れ、学校指定の黒い鞄に入った薄い財布を乱暴に取り出すと、階段を駆け降りた。

 就寝用の、桃色に淡い草色の水玉模様が入ったワンピース姿で、夜の帳を必死に走る。

 道端で見つけた二十四時間開いている小さな店に立ち寄ってはあるものを買い、また前に進む、を繰り返す。

 切羽詰まった様子の少女に、店員や稀にすれ違う人々は驚き、当惑の視線を彼女に向けたが、そんなことはどうでもよかった。

 三月最後、まだ夜はずいぶん冷えるにも関わらず、いろりの額には汗が吹き出す。

 どれだけ走ったかわからない。

 ようやく目的の地が視界に認められると、いろりはいったん立ち止まり、こうべを垂れて激しい呼吸を整えた。

 数多の真紅の鳥居が、堂々たる立ち姿でいろりを見下ろしている。

 夜闇を照らす灯籠の明かり。

 鳥居を彩るように咲き誇る桃色の花は見事であったが、今のいろりは目もくれない。

 浅い呼吸を繰り返したまま顔を上げ、いろりは再び足を忙しなく動かし始めた。

 その腕には、溢れ落ちそうなほどのいなり寿司が抱えられていた。

 永遠とわに続くのではと思われるほどの細く、長い、歴史を匂わせる階段。

 それを上りながら、左右に見える数多のほこらに、いなり寿司を供えていく。

「狐雲様……鷹海様……」

 何かに取り憑かれたかのように、ぶつぶつと神の名を呟き続ける。

「百恋様……学法様……、誰でも、いいです……誰か…………誰か、出てきてください……お願いします、お願いします、神様……!!」

 僅かな光しかない暗がりの中、いろりは数えきれないほど階段に躓いた。その腕や足は擦りむき、傷つき、衣服に紅い紋を滲ませていた。

 いなり寿司が尽き、鳥居の中央に崩れ落ちるようにして倒れ込んだ時だった。

 いろりの上空から、黄金色こがねいろの明かりが照りつける。

 狭くなった視野にそれを認めると、いろりは即座に頭を上げた。

 十段ほど先の階段から、座り込んだいろりを見下ろすように凛とした姿勢で立っている……四足歩行の生き物。

 琥珀色に輝く狐が、そこにはいた。

 その豊かな尻尾の数と、神々しさを尽くした光に、いろりはすぐ誰であるか検討がついた。

「狐雲様……ですよね……?」

「いかにも」

 問いに応じたその声は、間違いなく狐雲のものであった。

 いろりは急ぎ体勢を立て直し、階段の上で膝と手を揃えた。

「こ、狐雲様、あの、じゃ、蛇珀様が、蛇珀様が、突然、き、消えられて、それで、あの……」

 動揺のあまりひどくどもる少女を、狐雲は冷静は眼差しで見ていた。

 汗に濡れ振り乱した髪、土埃に汚れた一枚の衣類に滲む血液。

 いろりがどれほど必死にここまでたどり着いたのかは、一目瞭然であった。

「若いおなごが夜更けにこのような人気ひとけのない場所に来るでない」

「あの、蛇珀様は、蛇珀様は、どちらに……どちらにいらっしゃるんですか? ご無事なんでしょうか? なぜ、どうして、突然……何か、何か悪いことをしたのでしょうか? もし、もしも罪があるというなら私の方です、私が悪いのです、なんでもします、私にできることならなんでも……ですから、ですから……どうか、どうか、蛇珀様を連れて行かないでください……! お願いいたします……!!」

 いろりには蛇珀しか見えていない。

 自身の危険など省みるはずもなく、涙ながらに狐雲に頭を下げ、訴え続けた。

 そんないろりに、狐雲は最後の選択を言い渡す。

「いろりよ。蛇珀のことはもう忘れてはどうだ」

 頭上から降ってきた信じ難い言葉に、いろりは耳を疑い金の狐を見つめた。

「私たち神とそなたたち人間との歴然とした差は仙界に来てよくわかったであろう。蛇珀とのことはよい思い出として胸にしまい、人間の男との恋を望んではどうだ。そなたはまだ若い。今後蛇珀よりよい男に出逢う可能性も十分にあろう。何もあえていばらの道を選ぶことはない。そなたは蛇珀により目が見えるようになった。それだけでよかったではないか」

 狐雲の声は、どこか遠くに響いて聞こえた。

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