八
蛇珀は突如目を見開くと、いろりの肩を強く掴んだ。
心を読まずとも、彼女が何を言おうとしているか理解したからだ。
「やめろ、いろり! 俺を本気で想うなら俺から離れようとするな。俺はもう……お前なしじゃ、生きられねえ……!!」
翡翠色の瞳は濡れたように煌めき、縋るようにいろりを見つめる。
いつも強気で決して弱音を吐かない蛇珀にこのように懇願されては、少女になす術はなかった。
「……蛇珀様、帰りましょう。一緒に」
その返事を聞き、蛇珀は安心したようにいろりを腕の中に閉じ込めた。
――蛇珀様、本当にこれでいいんでしょうか? 私たちは何か、大事なことから目を逸らしている気がします。でも……あなたの願いに逆らえるはずがありません。私は、何があっても、蛇珀様の味方です……。
――あれから一週間。
もうじき三月が終わる。いろりは高校の入学式を数日後に控えていた。
あの後、狐雲たちからはなんの音沙汰もない。
使者が来るわけでもなく、仙界に訪れたことが嘘のように、穏やかな日が続いていた。
しかし、いろりは微かな胸騒ぎを拭い去れずにいた。
今のこの暮らしが、まるで嵐の前の静けさのように思えたからである。
いろりはお風呂を上がると、誰もいないリビングの冷蔵庫から清涼水を出し少し口にした。
母は仕事が忙しく、夜中にならないと帰らない。生活のため仕方ないとは理解しつつも、自宅で一人きりで過ごす多くの時間が寂しくなかったといえば嘘になる。
その孤独を埋めてくれたのも蛇珀である。
もはやいろりにとって蛇珀のいない暮らしなど想像もできなかった。
いろりが階段を上がり自室に戻ると、桃色のカーテンが風に揺れ、蛇珀がバルコニーに出ていることがわかった。
少し開いた窓の隙間に指を滑り込ませ、横にずらすと、いろりはバルコニー用の軽いサンダルに足を通した。
蛇珀は物憂げに星空を見上げていた。
「蛇珀様……」
「おお」
いろりを振り返った蛇珀は、一瞬言葉を忘れ彼女を見つめてしまう。
やや湿り気を帯びた髪、湯船に浸かりほんのり紅潮した柔らかな頬、シャンプーと混じり合ういろり本来の香り。
そのすべてがまるで蛇珀の理性を試すかのように誘う。
いつもこの時、直視しては耐えられぬと悟る蛇珀はよそよそしく視線を逸らすのである。
蛇珀が己と戦っているのも知らず、いろりは無邪気に手すりにもたれる蛇珀の隣に並んだ。
「……何を、考えていらっしゃったんですか?」
側に来るとますますいろりの匂いが鼻をくすぐり、蛇珀は先ほどまで思案していたことを忘れてしまいそうになる。
「……なんでもねえよ」
「……本当、ですか?」
傍らで蛇珀を見上げるいろりの顔には不安が滲んでいる。
それに気づいた蛇珀は咄嗟に事実を伝える。
「どうすりゃいろりといつまでも一緒にいられるか考えてただけだ」
照れが入りつつも素直に教えてくれた蛇珀に、いろりは温かい気持ちで満たされる。
「そうやって、言っていただけると嬉しいです。蛇珀様はずるいですから」
「ず、ずるい? 俺がか?」
「はい。だって蛇珀様は私の気持ちを読めますけど、私は蛇珀様の気持ちを読めませんから。いつもいいなぁ、でもちょっとずるいなぁって思っていたんです」
少し拗ねたようにふっくらとした唇を尖らせるいろりに、蛇珀は「ずるい」と言われているにも関わらず可愛いという感情しか湧いてこなかった。
「わ、悪いな。なんつうか、その……思ったことを口に出すのが苦手なんだよ……これからは気をつける」
「……ふ、ふふ」
「……いろり?」
「冗談です。蛇珀様が私が来たことにも気づかず考え事をされていたので、少し意地悪をしてしまいました」
普段穏やかないろりの悪戯っぽい笑みの破壊力は凄まじかった。
「蛇珀様はそのままでいいです。私が、口に出されなくても、蛇珀様の気持ちを汲めるようになればいいだけですから」
なぜこの娘はここまで受け止める器が広いのだろうと、蛇珀は未だ毎日のように驚かされていた。
「その……あるんでしょうか? 神様と人が、うまくいく方法が……?」
いろりの問いかけに、蛇珀は少し考え込んだ風に顎に手を当てた。
「狐雲の奴は大昔に人間の女と恋に落ちたことがあるらしい」
「えっ!? あ、あの狐雲様が……!?」
「他の神からちらっと聞いた噂だから事実かわからねえけどな。後は記憶に新しいのは、三百年前くらいに、戦神の
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