突如、空気を切り裂くかのような鋭い声がいろりを遮った。

 シャラン……と、蛇珀よりもやや重みのある鈴の音が鳴り、二人はその方向を振り返った。

 蛇珀は自身を制止したその声の主が、誰なのか理解していた。

「呑気なものじゃな。未熟者の小童めが!」

 二人の前には黒髪に褐色の肌をした、体格のいい青年らしき者が立っていた。

 絹のように滑らかな漆黒の長い髪。高い位置で結われたそれは腰まであり、下ろせば腿まではあるかと思われた。

 その髪や肌に反し、色素の薄い藍玉色あいぎょくいろの瞳が実に神秘的である。

「……鷹海おうがい

 いろりは蛇珀と鷹海と呼ばれた者に、交互に視線を巡らせた。

 海色の狩衣に白い袴姿、蒼白い輝きを纏う、その出立ちに間違いなく人ではないと悟った。

「なぜわしが迎えに来たか、心当たりはあるじゃろ」

 にじり寄る鷹海に、蛇珀はいろりを庇うように前に出ていた。

「その娘にも来てもらうぞ――仙界に。狐雲様がお待ちじゃ」

 有無を言わさぬ鷹海の強い口調に、不安気な表情を見せるいろり。蛇珀はそんな彼女を安心させようと手を握った。

「大丈夫だ。俺がついてる」

「蛇珀様……」

「一緒に来てくれるか? 神々の住処……俺が生まれた場所に」

 いろりは恐怖は感じなかったが、自分のような一介の人間が赴いていいものかと戸惑った。

「私なんかが、お伺いしてもよろしければ……」

「いろりなら大丈夫だ」

 蛇珀は自身の左手首にした翡翠色の数珠を、いろりのそこにつけた。

「俺の神力が込められてる。これがあればある程度の神圧じんあつには耐えられるはずだ」

「じん、あつ……?」

「仙界に流れてる空気のことだ。行くぞ。手を離すな」

「は、はいっ!」

 姿を消した鷹海を追い、蛇珀といろりもそこから消え去った。

 次の瞬間、いろりが立っていたのは白と灰色のまだら模様をした砂利道の上であった。

 視界一面を覆うように漂う乳白色の霧。

 顔を上げると、そこにはまるで天に続くかのように、紅い鳥居が果てなく並んでいた。

「仙界と人間界を繋ぐ出入り口だ」

「こ、ここは、もしかして狐神社の……?」

「ああ、人間だけじゃここまでは来られねえけどな。お、そうだ。こいつを持ってくか」

 蛇珀は何かを思いついた風に狐の像の前に置かれたお供物を手にし、懐に忍ばせると、先を進む鷹海の後を歩いた。

 いろりは忙しなく辺りを見回し、蛇珀に手を引かれるままついて行く。

 先に進むごとに霧は濃くなり、やがて煙のように立ち込め、いろりの視界を埋め尽くした。

 ――突如、霧をかき消すかのような激しい光が射し込む。

 あまりの眩しさにいろりはとても目を開けていられなくなる。強く瞼を閉じ、どうにか光を遮ろうと蛇珀と繋いでいない方の手を目に当てた。

「――おい、狐雲! 神力を抑えやがれ!!」

 蛇珀の叫び声がこだますと、それに応じるように輝きが鎮まっていく。

「いろり、もう目を開けてもいいぜ」

 蛇珀に促され、いろりは遮っていた手を下ろすと恐る恐る瞼を持ち上げたのだが――。

 前方に座る人物を視界が捉えるや否や、いろりは派手な音を立て土下座の形で地面に張りつき、動けなくなってしまった。

「んぐ、んぐぐぐぐぐ……!」

「もうちょっと抑えろ! このバカ狐雲――痛ッ!!」

「バカはお前じゃ! 狐雲様とお呼びしろと何度言えばわかるんじゃ!!」

「騒ぎ立てるでない」

 蛇珀の頭上に鷹海の鉄拳が炸裂したが、言われた当人は実に冷静に言葉を述べた。

 存在だけで容易く人を殺めてしまえる。それがこの狐神、狐雲の力であった。

「近年下界に降りておらぬ故、神力の調整を怠っておった。驚かせてすまなかったな」

 光が弱まり、蛇珀に支え起こされたいろりは、ようやくその声の主を目にすることができた。

 正面のやや高い岩肌に胡座をかいた狐雲はいろりをまっすぐに見据えていた。

 力を控えていても尚、白と金が混じったような輝きが狐雲の身体から漏れる。

 言葉では表現し得ない神々しさの限りを尽くしたような存在に、いろりは無意識のうちに手を合わせていた。

「蛇珀様……私、今浄化されていませんか?」

「落ち着け。浄化されるような汚れた人間ならそもそも仙界に入れねえから」

「まあ、そう固くなるでない。何も取って食おうとは思っておらぬ故」

 出っ張った岩は手すりのような形をしており、狐雲はそこに肩肘を乗せながらいろりに語りかけていた。

 悟すような優しい口調、秀麗な容姿に、余裕ある笑み。

 説明などされなくとも、いろりは狐雲がいかに偉大な神であるか本能で理解していた。

「は、はい。ありがとうございます」

 狐雲を前に感激している様子のいろりを見ると、蛇珀は顔をしかめてそっぽを向いた。仕方ないこととは知りつつも、想い人が他の男神おがみに目を奪われていることが気に食わなかった。

「膝をついて座れ、狐雲様の御前じゃ」

「は、はい!」

「チッ……」

 鷹海に指示され、いろりは柔らかな緑の苔が生えた地面に正座する。

 蛇珀は不満気な顔で胡座をかき、鷹海は片膝をつき跪く形で頭を下げた。

「東城いろり、蛇珀が世話になっておるな」

「あ、い、いいえ、そんな、お世話だなんて滅相もございません!」

「隠し立てせずとも神眼や水鏡みずかがみで知っておるぞ。そなたたちの様子はすべて……な」

「え……?」

 すべて知っていると言われたいろりは、蛇珀との仲睦まじい様子も見られていたのかと思い当たり、顔を赤くしたり青くしたりを繰り返し焦った。

 そんないろりの反応を楽しむように、狐雲は狐らしく目を細め笑った。

「あっ、え、えぇと、あの」

「狐雲! いろりで遊ぶんじゃねえ!!」

「これはすまぬ。反応が愛らしゅうて、ついな。……さて、蛇珀」

 狐雲の細く切れ長の目が蛇珀を捕まえる。

「確かに人間界に滞在する許可は出したが……丸一月音沙汰なしとは、いただけぬな」

「うっ……、ま、まあまあそう言うなよ。ほら、土産持って来てやったからさ!」

 そう言って立ち上がった蛇珀が懐から出したのは、いなり寿司であった。

 仙界に入る前、蛇珀が仕舞い込んだのは狐の像の前に供えられたこれだった。

 いなり寿司は狐雲の大好物のため、問題児……ならぬ問題神である蛇珀は多少機嫌を取りたい時に利用しているのだ。

 しかし、その蛇珀のまるで童に餌付けするかのような振る舞いに、再び鷹海の罵声が上がった。

「蛇珀! 貴様は狐雲様をなんだと思っとるんじゃこのうつけ者!!」

「……」

「狐雲様も無言でいなりを受け取らないでいただきたい!」

 そっといなり寿司を懐に忍ばせる狐雲に注意をする鷹海。

「まったく、狐雲様はいささか蛇珀を甘やかしすぎですぞ!」

「うるせえな、鳥頭」

「だぁぁれが鳥頭じゃこの蛇頭! 貴様は自分の状況をわかっとらんようじゃな!!」

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