第三章、仙界

 蛇珀がいろりの家に滞在するようになり、早一月が経過していた。

 三月後半、春休みに入ったいろりは、時折友人や母と出かけたりした。

 しかしいろりは生まれつき目が見えなかったせいか、今でもあまり外出を好まなかった。そのため一日のほとんどを蛇珀と共に部屋で過ごしていた。

 それは互いにとって至福の時ではあったが、蛇珀はいろりにもっと多くのものを見せたいと思っていた。

 その黒くも透明感のある瞳に相応しい、美しい景色を映してやりたいと感じていたのだ。

「これが青、黄に、緑……」

 そう言いながら、蛇珀は画用紙に筆で取った絵の具の色を滑らせていく。

 いろりに色を教えているのである。

 いろりはそんな蛇珀の声に真剣に耳を傾け、白い紙に広がっていく様々な色を目で追っていた。

「どの色が好きだ?」

「どれも綺麗ですが……蛇珀様のような色は、ないのでしょうか?」

「俺の色?」

「はい。髪や光の色もですが、私は蛇珀様の目の色がとても好きなんです」

 素直に気持ちを伝えるいろりに、蛇珀の鼓動が高鳴る。

 いろりと過ごすとこのようなことが頻繁に起こり、蛇珀は恋とはまるで病のようだと思っていた。もちろん神々に肉体的な病が宿ることはないため、想像の域ではあるが。

「俺の色はこの世では表現できねえ。この世のものじゃねえからな」

「そうですか……。でも緑が近いですから、緑が好きです」

 蛇珀は照れ隠しに一つ咳払いをした。

「お、俺のことじゃなくてだな。……じゃあ、俺のことを覗いて好きな色を教えろ」

「緑以外で、ですか?」

「ああ」

 いろりは改めて画用紙を見ると、一つ、目を惹く色があった。

「この色、好きです」

 いろりが指を差したのは、桃色であった。

「カーテンと同じ色だな」

「あ、そうですね。寝具もそうですし……きっと母が女の子らしいからと選んだんです」

「これは桃色だな。桜色とか、今なら西洋語でピンクとも言うだろ」

「桃に桜……なんだか風情があっていいですね」

「じゃあ見に行ってみるか」

「――え?」

 突然立ち上がった蛇珀を座ったまま見上げるいろり。

 本当に蛇珀はいつも唐突なのである。

「思い立ったが祭日だろ。ちょうど今いい時期だしな!」

「それを言うなら吉日ですよ蛇珀様!」

「いいから行こうぜ早く!」

「あ、ちょ、ちょっと待ってください、格好が部屋着なので、髪も」

「なんでもいいだろ、どうせ俺しか見ねえよ」

「だからですよ……」

 いろりの小さな呟きに蛇珀は首を傾げた。

 好きな相手と出かけるならどこであってもお洒落をしたいという乙女心だったが、いつも同じ装いである神にとっては身なりを着飾ること自体が不思議であるため、理解不能であった。

 しかしそれは裏を返せば、好きな相手であればどんな格好でもよいということである。

 いろりが急ぎワンピースと春用の上着を羽織り髪を結ぶと、蛇珀の腕に捕まり一瞬にして空間を移動した。

 蛇珀と空間移動をするのは初めてではないが、いろりはまだ慣れないため思わず目を閉じてしまう。

「もう着いたぜ。目を開けろ」

 蛇珀に促され、いろりはゆっくりと瞼を持ち上げる。

 ――すると、視界が桃色一色に染まった。

「う……わあ……!」

 あまりの美しさに言語能力が乏しくなる。

 いろりは蛇珀の腕を離すと、一歩、二歩と、足を進めた。

 踏みしめているのは灰色に近い土肌。

 蛇珀といろりが立っているそこは、未だ人が踏み込んだことがないような秘境の地。

 かなりの高さがある山頂は、人間界とはいえ人が登るにはあまりに危険な場所のため辺りには誰もいない。

 目下に重なるように広がる桃の花が咲き誇った山々の数々。まさに絶景である。

「……す、すごい! すごいです蛇珀様、綺麗です! 綺麗、す、すごい、綺麗!!」

 年相応の少女らしく、飛び跳ねる勢いで喜びを表現するいろりを見て、蛇珀の顔も綻ぶ。

 蛇珀はいろりが好きだと言った色の花のところへ連れて行ってやろうと考えていたが、春である今、桃色はもってこいであった。

「よかったな」

「は、はい! あ、ありがとうございます。こんなところに連れて来ていただいて。蛇珀様はなんでもできるんですね」

「地の神だからな。山や草花なんかについては詳しい」

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