二
しかし蛇珀はその先を聞かずともいろりの言いたいことを理解していた。
「俺は別に、お前ならなんでも……」
蛇珀の思わぬ言葉に、いろりは顔を火照らせた。
「そ、そうですか。……あの、蛇珀様、それはそうと」
「なんだ?」
「そろそろ着替えなくていけない時間なので……」
「――おおおう! そ、そうだったな、了解!」
蛇珀はわかりやすく狼狽えると、急ぎ押し入れの襖を開け中に隠れた。
もちろん襖を隔てていようとも神眼を使えば外の様子など簡単に見える。
さらに言えば、普段から見ようと思えばいろりの衣類を消した姿なども見れてしまうわけだが、さすがは神なのでそのような
以前いろりと身体を交換した際も、一瞬にして衣類を替えるという技で制服姿になったので彼女の肌に触れてもいなければ見てもいなかった。
いろりが着替えを終えると、襖が少し開かれる。
その隙間から顔を覗かせたいろりが蛇珀に「行ってまいります」と小さく挨拶をすると、押し入れの中で胡座をかき背中を向けていた蛇珀が振り返り、「おう、気をつけろよ」と言って見送る。
まるでずいぶん前から共に暮らしていたかのような自然な日々。
蛇珀もそれを穏やかな気持ちで過ごしていたが、満足しているか、と言われればそれはまた違う話である。
蛇珀はあれ以来――、いろりが蛇珀のずっと側にいたいと言った際、抱きしめて以来彼女に指一本触れていなかったのだ。
しかし何分初めての恋故、蛇珀は自身が何を求めているのか、どうすれば小さなこの隙間を埋められるのか、その術をよくわかっていなかった。
いろりが登校すると、蛇珀は周辺を散歩する。
空間移動ができるため、行動範囲は広く、例え全国の端から端でもすぐに行くことができる。
その見回りも神の仕事の一つではあったが、強制ではないため蛇珀は今までほとんどしたことがなかった。
しかしなぜかいろりに出逢ってからというもの、人間界に興味を持ち、その辺りを訳もなく散策する機会が増えた。
今日も目的もなく住宅地や田畑を眺めながらゆっくりと歩く蛇珀。
ちなみに姿は人に見られないよう消してあるが、見られたところで人の記憶を消すことも可能である。
蛇珀は田畑に囲まれた道端で、何かに気づき足を止めた。
――猫である。
人の目からすればかなり遠くであるが、蛇珀にはすぐ目の前にあるように見ることができる。
黒猫は身体中に切り傷が刻まれており、小さな身体を横たえ、震わせていた。
その傷口から恐らく烏などではなく、人間の仕業かと思われた。
「ひでえことする奴がいる」
蛇珀が眉を潜めながら子猫に近づこうとすると、反対側から来た五、六歳の男の幼児が先にそこに駆け寄った。
男児は傷だらけの子猫を悲しみの表情で見つめながら、その身体を撫でていた。
蛇珀が姿を見せると、男児は驚き、尻餅をついた。
「ひ、ひえ……よ、妖怪……?」
「チッ、失礼なガキだな」
力を発揮させるには姿を隠しておけないため、蛇珀は仕方なくその身を晒したのだ。
蛇珀はしゃがむと、男児のすぐそばに横たわった子猫に右手を翳した。
するといろりの目を治した時と同じ、白銀色の光が溢れ、子猫は瞬く間に元気を取り戻した。
それを見た男児は興奮して喜び、子猫を抱き上げた。
「すごい! お兄ちゃん魔法使い?」
「さあな、母ちゃんが呼んでるぜ」
遠くから「たっくん、どこにいるの?」と呼ぶ声がする。恐らく男児は親元を勝手に離れてここまで来てしまったのだろう。
たっくん、と呼ばれた少年は、子猫を抱えたまま蛇珀に手を振り走っていった。
「ありがとう、綺麗な妖怪のお兄ちゃん!」
「妖怪じゃねえっつうの」
幼いため記憶を消す必要もないだろうと、蛇珀はそのまま男児と猫を見送った。
――何もせず、見送ったのである。
本来なら小さな子供は残る寿命が長いため、願い聞きをするには最高の相手。にも関わらず、蛇珀はそれをしなかった。
「……らしくねえ」
そう呟きながらも、蛇珀は不思議とそんな自分が嫌いではなかった。
一通り見回りを終えると蛇珀は帰路に着き、いろりの家の屋根で仰向けに寝転んでいた。
その大きな瞳は万華鏡のように色を変えている。
あれからいろりの学校での様子を気にかけていた蛇珀は、いざとなれば自らの力で彼女を助けようと思っていた。
いろりに聞いたところで決して頼りにはしないため、こうして時折彼女の学校生活を覗いているのである。
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