第二章、蛇珀といろり
一
蛇珀がいろりの願いを叶えるまで帰らない、と宣言してから一週間の時が流れていた。
蛇珀は就寝時は必ず白蛇の姿になり、いろりが眠っている布団の上で身体を丸め共寝していた。
神の朝は早い。
夜明けと共に起床すると、蛇珀はベッドを降りて人の姿に戻り一つ伸びをする。
桃色の生地に花柄のカーテンの隙間から差し込む朝日に照らされた蛇珀は、今日も清廉な光を纏っていた。
いろりの部屋で住まうようになってから毎朝、蛇珀は彼女の寝顔を見るのが日課となった。朝が弱いいろりを起こすまで、気持ちよさそうに寝息をたてて目を瞑る顔を堪能するのである。
「……ん……」
艶やかな膨らみのあるいろりの唇が僅かに動きを見せると、次第に瞼が持ち上がっていく。蛇珀はこの瞬間が毎朝待ち遠しく、そして惜しくもあると感じていた。
「よお、朝だぜ」
しばし、まどろんだ状態が続くが、ベッドの傍らで顔を覗き込んでいる蛇珀に気がつくと、いろりの半開きだった目が一気に開かれた。
「あっ、お、おはようございます蛇珀様! 朝からなんと神々しい……ありがたやあぁ」
「拝まなくていいっつうの」
勢いよくベッドから飛び降り、床にひれ伏しながら手を合わせるいろり。
蛇珀が何度やめろと言ってもつい拝んでしまう少女、この光景もまた日課になりつつあった。
いろりが布団を畳んでいると、一階から「朝ごはんができたわよ」という母の声が聞こえる。
いろりの部屋は戸建ての二階なため、二人は階段を下りてリビングに向かう。
二人……にはもちろん蛇珀も含まれているわけだが、神力で姿を隠しているためいろり以外には見えないようになっている。
そんな蛇珀がリビングに向かう足取りが軽いには、理由があった。
「今日は食パンか。レタス、トマトに……おお! 前食ってうまかったウインナーが!!」
蛇珀はいろりの母が作る食事を楽しみにしていたのだ。
神は空気さえあれば生きられるわけだが、食そうと思えばそれも可能である。
生まれて三百年、人間嫌いだった蛇珀は人間が口にしているようなものを決して欲しがらなかった。
しかし、いろりに好意を持つようになり、人の暮らしというものに興味が出てくると、食事を取る気になった。
そして一度食べてしまうと、こんなに美味しかったのか、と驚きすっかり夢中になってしまったのだ。
木造のダイニングテーブルの椅子に座ったいろり。その隣に姿は隠しているが確かに腰を据えた蛇珀が、いろりの朝食をあっという間に平らげてしまう。
「じゃ、蛇珀様、食べすぎでは……?」
「あら? いろり、もう食べちゃったの?」
「え!? あ、う、うん」
「最近よく食べるわね」
瞬く間に空になった白いお皿を見た母は、驚きながらも嬉しそうにしながら、パンやウインナーを追加する。
「食が細くて心配してたからね、たくさん食べなさい。目が見えるようになってから、とても元気で母さん嬉しいわ」
なんの前触れもなく盲目が治った時には母は当然驚愕したが、その奇跡を慎ましくも幸せに受け止めていた。
いろりの父は彼女が生まれてすぐに家を出ていった。彼女の目が不自由だったため、育てることに困難を感じ、逃げたのである。
しかし母は父の分まで……いや、それ以上の愛を持っていろりを育て、いろりもそんな母に心から感謝していた。
「うん。ありがとうお母さん、いっぱい食べるね」
「そうよ、いろりも年頃なんだからそろそろ気になる人の一人や二人、ねえ?」
「え?」
不意に、真横にいる蛇珀から視線を感じる。
「男の人はね、あまり痩せすぎているより、少しふくよかな女性が好きなんだから」
「ええ!? や、やめてよお母さん、恥ずかしいから!」
蛇珀を意識して思わず顔を赤くして慌てるいろりだったが、もちろん母にはなんのことかわからない。
「……いろり、あなた誰に恥ずかしがってるの?」
「あ、あはは! 誰にでしょう!?」
「おかしな子ねえ」
いろりは笑って誤魔化し母との食事を終えると、顔を洗い歯を磨いて身支度を整えに自室へ戻った。
その間も蛇珀はいろりの後ろをついて歩いている。
「……人間の男はそんなとこで女を判断してるのか」
「え? あ、どう……でしょうね? 人によるとは思いますが。……あの、蛇珀様は」
どんな女性がお好きですか? という言葉が喉まで出かかり、飲み込んだ。
神ともあろう存在に、そのような俗な質問はあまりに失礼な気がしたのだ。
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