第4話


 講義が終わると、真っ黒マンがまた私のもとへとやってきて、私の手が届く場所にそっと三つのものを置いた。

 貸したシャープペンと、消しゴム。そして、チョコチップクッキーだった。

「ありがとう。助かった」

「えっと……」

「お礼。おやつにどうぞ。……って、アレルギーとかあった?」

「いや、ない」

「じゃあ、食べて」

「ああ、ありがとう」

「あ、あと」

「な、なに?」

「もう気づいてくれてると思うけど。俺、いつもこの格好してるから」

「……ん?」

「須賀さん、顔で人を判断するの、苦手でしょ? でも、服は見えてるんでしょ? いつも同じ格好していたら、俺ってわかってもらえると思って、こだわっていつも同じ服着てるんだ」

 ぶわっと血が逆流していくような感覚がした。血管という血管がぶるぶると震えた気がした。

「何か困ったこととかあったら、この服を探して声かけて。ああ、メッセージ送るでもいいけどさ。それじゃ! またね!」

 真っ黒マン――いいや、佐藤くんが、ひらひらと手を振りながら、私のもとから去っていく。後ろの席で講義を聞いていた人と合流すると、部屋から出て、どこかへ消えた。

 次の講義を受ける人が、ぱらぱらと入室してくる。

 早く荷物をまとめて、この部屋から出ていかないといけない。

 そう、わかっているのに頭も体もスムーズには動いてくれない。

 強引に、カバンを掴んだ。

 教科書とノート、タブレットをカバンに突っ込む。ペンケースにボールペンをしまい、シャープペンに手を伸ばす。手がぴくっと止まった。ごくんとあふれた唾液を飲む。盗むようにシャープペンを掴むと、ぐっとペンケースに押し込んだ。消しゴムもまた、同じように突っ込む。ラスボスのチョコチップクッキーは、大口を開けたカバンに払うように入れた。


 その日を境に、私は佐藤くんによく話しかけられるようになった。

 それは、天気のこととから、課題のこととか、他愛のないことばかりだった。佐藤くんがひたすらしゃべる。私は「うん」とか「そう」とか、相槌をうつ。そうして三分くらいすると、「じゃあ、そろそろ行くわ」と、佐藤くんは去っていく。その繰り返し、繰り返し。

 だんだんと、話しかけられるのに慣れだすと、佐藤くんの顔を見る時間が増えた、気がする。

 佐藤くんは、笑うと目じりにくっきり三本のしわができる。えくぼはできない。

 鼻筋がスーッと通っていてきれいで、頬っぺたにはほくろがあって、唇は薄い。

「ねぇ、嫌だったら答えなくていいんだけどさ」

「ん?」

「高校って、どうだった? ほら、制服生活って、辛くなかったかな、って、思って」

 忘れ去る、というよりも消し去った過去が、制服という言葉一つを鍵にして、ひょこりと顔を出した。

 辛かった。そういう感情には蓋をしてごまかしてきたけれど、心の中には〝みんな同じに見えて辛い〟って思いがずっとあった。

 すごくがりがりとか、すごくふくよかとか、すごくちいさいとか、すごく大きいとか、そういう極端な特徴無しに人を区別することが、顔がよくわからない私には難しかった。

 そう。だから私は、ずっと、空気として生きてきたんだ。

 ぶわっと涙が出てきた。

 自分にすら、どうしてそれが流れ出てきたのかわからない。困惑した。困惑したら、いっそうに涙があふれる。脳みそが、たぶんショートした。涙を止めたい、と思っているのに、涙は止まろうとしない。よりたくさん、瞼の堤防を越えていこうとする。

「あ! ケイゴが女の子泣かせてる!」

「こら、ケイゴ!」

 後ろから、聞きなじみはあるけれど、その主が誰だかわからない声がする。

「待って、誤解!」

「なにゆえ⁉ えっと、誰さんだかわかんないけど……ごめんね。ケイゴのやろうが」

「なに言われた? チョコあげるから教えて」

「なんじゃそりゃ! こういう時はハンカチとかタオルとかティッシュでしょ?」

「んなもんイケメンが持ってると思うか?」

「ブサメンなんだから持っておけ!」

「くぅ~!」

 突然、私は明るい声の中心になった。

 誰かわからない人たちが、私が泣いていることを、心配してくれている。

 私に関心を持って、そして、案じてくれている。

 私は、同じように誰かを見たことがあるだろうか。

 ずっと、盲目に、空気であれと生きてきただけじゃないか。

 自分を守ろうと殻に閉じこもるばかりで、誰かに心を割いたことがあるだろうか。

 ない。

 そんな記憶は、少しもない。

「えっと、とりあえず、名前訊いてもいい? あたしはエリナ。で、こっちはブサメン」

「おーい。ちゃんと名前あるぞー。池田だぞー」

「あ、ごめん。イケてない池ちゃん」

「なんか一言余計だぞー」

 沈黙が広がる。私が名乗らないからだ。

 待ってくれている。私の言葉を、待ってくれている。

「須賀、です」

「須賀、なに?」

 佐藤くんの顔を見る。なんだか、目じりに三本のしわがあるように見える。

「エ、エリカ」

「……マジ? 一文字違い! エリ仲間!」

「よし。じゃあ、エリマを探しがてら学食行こう」

「なにいってんの? 池ちゃん」

「通じなかったか。じゃあ、いいや。メシ、メシ~」

 すっと差し出された手を見る。腕を見る。肩を、首を、顔を見る。

 そこに、佐藤くんの笑顔がある。

「昼ごはん。一緒にどう?」

「う、うん。お邪魔じゃ、ないなら」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る