第7話 生かし愛
この感覚、久しぶりだ。夢を夢として認識している不思議な感覚。
「おーい」
「何だよ」
「そんな言い方ないでしょう、調子はどう?」
「おれもなつも27になって、結婚したよ。なつは大手コンサル会社に就職して、毎日忙しそうだ」
「そうか、工藤なつは生きてるんだね」
「ああ。就職の時期は少しドキドキしたけど、有名大学だから教授かなんかの推薦でぬるっと決まったよ」
夢の中で、その子と当たり前のように会話をする。もう出会ってから13年経つと考えると感慨深いものがある。
しかし、会うのはいつも唐突で一方的で、まだ10回も会っていない。そんな都合の良い彼女的な扱いには慣れてきたが、やはり未だその子の目的は分からない。
「ひろき、山場が来る。気をつけて」
その子は端的に言った。その声には少し緊迫感があった。
「山場って何だよ。人生のってことか?」
「工藤なつのお腹の中に子どもがいる」
「・・・ええぇっ!?」
ひろきは頭の中で復唱するように一語一句ゆっくりとなぞり、そして驚いて甲高い奇声を発した。
「嘘だろ!?」
「嘘じゃない。来週、生理が来ないからって病院へ行って発覚する。ちなみに性別は・・・」
「ちょ、ちょっと待った!本当におれの子だよな?間違いないよな?」
「・・・どういう意味?工藤なつに不倫相手がいるとでも?こんな吉報を受けて、まず出てくる言葉がそれか?ひろきはデリカシーがないね」
ひろきは言葉に詰まった。その子の言う通り、まず純粋に喜ぶべきだった。
しかし、吉報に対し懐疑心を抱いてしまうのは人間の性というか、反射なのだろう。本当にそんな幸せなことが自分に起こるのか、起こって良いのだろうかと。
「マジかよ・・・」
呟いたひろきの声は、不安と喜びが入り混じっており、芯はあったが震えていた。表情も、口元は緩んでいたが、全体的に強張っていた。
「とにかく工藤なつのことを優先するんだ。後ろから支えてあげるように。ひろき、頼むね」
「頼むって、一体何をだよ。詳細は教えてくれないのか?また倉田とのゴタゴタみたいな、面倒なことは嫌なんだけど」
「・・・ごめん」
その子のその言葉を最後に、ひろきはハッと目を覚ました。時刻は毎度同じ、二度寝をすると、起きなければいけない時間に怠さと眠気が残ってしまう嫌な時間だ。
「何だよ山場って・・・。子育てのことか?まさか、出産と同時に離婚、そして慰謝料地獄か?離婚の原因は?おれか?それとも流産とか・・・」
ひろきは考え得る最悪な未来を列挙した。
心を落ち着かせようと、台所でコップ1杯の水道水をゴクゴクと飲み干して部屋へと戻り、窓をガラリと開けた。
1月の空気は、毛穴1つ1つを針でチクチクと刺されるような細かな痛みを感じさせる。その空気に向けて、はぁっと白い息を吐き、そしてブルっと震えた。
ここから見える向かいのマンションの部屋の灯りは昨晩よりも少なく、夜更けよりも更に暗く落ち着いた時間ということもあって、まさに凶兆のような空気だった。
ひろきはもう1度、ブルっと震えた。
しばらくすると、リビングから物音が聞こえた。なつが起きてきたようだ。時刻は5時を少し回ったくらい、いつもより早起きだ。
もう10年近く住んでいる部屋ということもあり、足音と扉の音で、なつがどこへ向かったか分かるようになっていた。洗面台で顔を洗い、歯を磨き、そしてトイレへと向かったようだ。今日は休日だが、どうしたというのだろう。
ひろきは、なつがリビングへと戻ってくるタイミングで、部屋の引き戸をそっと開けた。
なつも長年の経験で、ひろきと同じ感覚を身に付けていたようだ。引き戸の僅かなズズッという音に気が付き、即座にひろきの部屋の方に目をやり、そしてひろきと目があった。
「ひろくん、おはよ。ごめん、起こしちゃった?」
「おはよう。いや、だいぶ前から起きてた。なつこそ早起きじゃないか?今日休みでしょ?」
「あれ、言ってなかったっけ?今日、英語のテストを受けに行くの」
「あ、思い出した。トーなんとかってやつね」
「そうそう。早めに起きて勉強してから行こうと思って」
なつの職場は秋に査定がある。それは成績や保有資格などが判断材料となるため、なつは忙しい仕事の合間を縫って勉強し、こうして資格取得に勤しんでいるのだ。入社して3年程になるが、その間にいくつもの資格を取得していた。今回も、半年ほど先の査定に向けて、コツコツと頑張っているのだ。
ひろきは、なつのその姿を見る度に、自分の無力さをひしひしと感じていた。
なつの収入は、ひろきの倍以上あり、2人の生活を支えているのは紛れもなくなつだった。朝から晩までみっちり働き、退勤後と休日は勉強、その成果を着々と生活に反映させてきた。
一方ひろきは、もう何年も何かに勤しんだことなどなかった。思い返せば、中学校を卒業して以降何もない、だから当然生活など何も変わりはしなかった。
それは自分の責任であるということは分かっている。それに学歴の差も考慮すると、どうしたってなつよりも収入を増やすことは難しい。だから仕方のないことだと受け入れているのだが、嫌悪感が心を覆い尽くしたままだった。
今や女性も社会進出し、社会の荒波の中で戦うことが当たり前となった。だから女性が男性の収入を上回るなど、当然なことなのだが、それを心の底から許容できないというか、男のプライドが許さないのは、遺伝子レベルで刷り込まれてしまったヒトの価値観の所為なのだろう。
山場の話ではないが、もしなつと離婚するとしたら、理由はやはりひろき自身にあるのだろう。ひろきが、この価値観に押しつぶされてなつとの生活に耐えられなくなるか、なつの職場にいるひろきなんかよりも数倍、数十倍も優れた男に盗られるか。
ひろきは気持ちの良い夜明けに立ち会えなかった。
「帰りに買い物してくるね。お米がもうなくなりそうだよね」
おにぎりと味噌汁、淹れたてのコーヒーを目の前に、なつが言う。ひろきはおにぎりを口にしながら、あぁと流すように返事をした。
そして夢を思い出す、なつは妊娠している。
「いや待て!買い物はおれがするから、終わったら真っ直ぐ帰ってこい」
「いいよ、態々駅まで行くの面倒でしょ?」
「そんなことない!たまには走ろうかなと思ってたところなんだ。だから運動ついでに買い物はおれがする」
「そう?ありがとう」
「それと水曜の夜、会社の同僚と飲み会って言ってたろ?あれ、やめとけ」
「え、どうしたの急に?」
「いや、別に・・・。なんかその・・・せっかくなら家でゆっくり休んだ方がいいじゃん!毎日夜遅いし、次の日も仕事なわけだしさ。そうだ!おれと飲もうよ!」
「ひろくんお酒飲まないじゃん」
「まぁ、だからノンアルかなんかで・・・」
急に饒舌になりだしたひろきに、なつは些か不信感を抱いたような表情を浮かべたが、試験前ということで一旦は受け流した。
なつに対し、お前は妊娠している、と何度か喉上まで出かかったのだが、ひろきは何とか耐えた。
結婚しているとはいえ、全てを打ち明けられる関係というわけではない。
ひろきは、何が何でも夢のことは冥土の土産にすると決めていたのだった。
何故なら、ひろきにとってなつは、夢とは完全に関係のない存在となったからだ。
初めて夢を見た中学生の頃は、その子に従い、とにかく殺さないようにする対象という、無関心を関心で包んでいるかのような、どちらかといえば粗末な存在として認識していたが、今は殺さないどころか、愛すべき存在となった。
愛しているから守りたい。そう思うが故に、夢でその子に守るように言われたから一緒にいるなどという、照れ隠しのための戯言のようなものを、本人に伝えたくなかった。
それに、なつがそれを聞いて、気分が良いはずもない。
1週間後、やはり夢で言われた通りになった。
「ひろくん、私、妊娠した」
正午前、なつは妊娠検査薬を手に、寝そべってスマホゲームに齧り付いていたひろきにそっと声をかけた。
ひろきは冷静に、そうかと呟き、即座にそれが大間違いな反応だと気が付いて飛び起きた。
「マジで!?」
ひろきは演技をした。夢でその子からネタバレを食らった時に、驚愕の反応を出し切ってしまっていた所為で、変に冷静になってしまった。更に中学生の頃から予知夢を認識しているひろきにとって、こういう時、大根役者になってしまうことは仕方のないことだった。
「病院行かなきゃ」
「ああ、おれも行くよ」
こうして2人は、ネットで受診時期を調べて近所の病院を訪れた。
妊娠5週目、10月頃が出産予定日と医師から告げられ、2人は喜びと不安を抱えて帰路についた。
「男の子、女の子、どっちかな?」
「ああ・・・」
「出産って痛いんだよね、大丈夫かな」
「ああ・・・」
「何、さっきから適当に返事してさ」
「ああ・・・あ、ごめん」
なつは膨れっ面をマフラーに埋めてぼそっと言った。
ひろきは無機質な返事をしていたが、なつの不貞腐れた言葉で我に返り、声の温かみを取り戻した。
「いや、おれが父親になるのかって思ったら急に緊張してきてさ。おれで大丈夫かなって・・・」
「ふふっ、何言ってるの。しっかりしてよ!」
笑みを浮かべながらそう言ったなつは、手袋をした柔らかい手でひろきの背中をボスっと殴った。
「ひろくん1人で育てるわけじゃないんだから。私もいるし、ちゃんと支え合っていこうよ。ほら・・・昔の4人みたいに・・・」
そう言ってなつは再び顔をマフラーに埋めた。少し寂しそうな表情をしていた。
「そうだな」
横目でなつを見下ろし、その表情に気が付いたひろきは、支えるようにそっと背中に触れた。
その時は刻々と迫っていた。なつのお腹は徐々に膨らみを増しており、先日の検査で「女の子」であることが発覚した。
なつは、妊婦としての生活と仕事を上手く両立し、ひろきはおろか、会社からもそろそろ安静にしろと言われてしまう始末だった。
一方ひろきは、いつまで一緒に風呂に入ってもらえるかとか、嫌われたらどうしようとか、彼氏を連れて来たらどうしようとか、結婚したらどうしようとか、気の早い心配事をだらだらと溢し、なつの呆れ笑いを誘っていた。
6月末の不快な蒸し暑さから始まり、あっという間に真夏の酷暑へと移ろいだしたが、生命の誕生を待ち焦がれる2人にとって、今年の夏は焼ける程の暑さには感じられなかった。
「大丈夫そう?」
「大丈夫でしょ!山場って子育てのことだろ?平気平気、なつと一緒だし!」
「そうか」
「最近よく現れるな。何だよ、お前も楽しみなのか?娘が生まれるの」
「お礼でもしとこうかと思ってね。今までありがとうって」
「・・・何だよ急に」
「特に意味はないよ、ただこんなこと言う機会もそうないからね。めでたいようだし、丁度いいかなって」
「そうか。こちらこそありがとうな。最初は戸惑ったけど、結果的にはお前と会えて良かったよ。なつと幸せな家庭を築く未来なんて想像もできなかったし、お前がいなければこの未来はなかったと思う」
「・・・ありがとう」
ひろきはパッと目を覚ました。その子が照れ隠しで夢を終わらせたような、唐突な醒め方だった。相変わらず会いに来るのは一方的だが、命令ばかりでこちらの話など聞かなかった出会ったばかりの頃を考えると、まともに会話ができる今のその子が愛おしく思えた。
ひろきにとって、もうその子が何者であるかなんてことはどうでも良かったのかもしれない。とにかく娘が生まれたら、また会いに来てほしい、嬉しい報告をさせてほしい、そんな良き話し相手、形のない友人のように思っていた。
9月末、22時を少し回った頃だった。眠りについていたひろきだったが、ドンッという鈍い音で目を覚ました。
むくりと起き上がると、ひろきの部屋の引き戸がすーっと開いた。
「ひろくん、陣痛きた」
なつが大きなお腹を抱えて立っていた。
ひろきは慌てて部屋の電気を点け、寝巻きを脱ぎながら言った。
「よし、今すぐ病院行くか!?」
「いや、まだ」
ひろきの手は、上裸になったところでピタリと止まった。
「お腹減ったからご飯食べてから・・・」
「そ、そんな悠長なこと言ってる場合かよ!」
「私、お腹減ったら戦えない人だから。とりあえず何か食べる」
そわそわするひろきを前に、なつは冷静に答え、キッチンの方へゆっくりと歩いていった。目を丸くしてその姿を見ていた数秒後、ひろきは駆け足でキッチンへと向かった。
「座ってて!おれがやる!」
ひろきの語気は強かった。当然怒っているわけではないのだが、切迫した状況に直面した結果そうなってしまった。
なつはいつも通りの笑顔でありがとうと言い、リビングのソファに腰掛けた。
ひろきは、時限爆弾を解除するかのような真剣な表情で具なしのおにぎりを2個握り、コップ1杯の常温の水と共に、なつの目の前に出した。
なつは、味わうようにゆっくりとおにぎりを食べ始めた。
ひろきは、なつの横に座って貧乏ゆすりをしたり、部屋をうろちょろと歩き回ったり、大変落ち着きがなかった。
なつが、こんな美味しいおにぎりどうやって作るの?とか、このお皿どこで買ったっけ?など問いかけても、ひろきはプログラムの甘いチャットボットのように、はやく行こう、まだか?としか発しなかった。
程なくして、2人はタクシーに乗り込み、病院へと向かった。その車内でのなつは、痛みを我慢するように何度も深呼吸をしてはいたが、冷静だった。
あのファミレスこんな時間までやっているんだとか、あのケーキ屋さんのタルト美味しいよねとか、目に入るもの何でもかんでも話題にしていた。
ひろきは、話なんか全く聞いておらず、道路の混雑状況を確認するように、助手席の後ろからチラチラとフロントガラスを見ていた。
「なんだ、邪魔だな」
路地に入ったところで運転手が呟いた。違法駐車された車が目の前を塞いでいた。
「ここで大丈夫です」
運転手がバックギアに手を掛けた時、なつがそう言った。
「ここから歩くって言うのか?」
「だって病院すぐそこだもん。元の道戻って大回りするより早く着くよ」
病院はこの路地を抜けた先の交差点を渡ったところ、ここから50メートルもないくらいの距離だ。
「さ、降りて」
なつはそう言ってひろきとタクシーを降りた。ひろきは、なつの着替えやら何やら色々入った手提げバッグを両手に、なつを先導した。ゆっくり着いてくるなつをチラチラと振り返り、前のめりになっている心にブレーキを掛けながら、ゆっくり歩を進めた。
「先行ってて、すぐ行くから!」
なつはそう言って、大きなお腹を支えながら笑っていた。
ひろきは、不安そうな表情を浮かべながら、あぁと返事をした。
一瞬、ほんの一瞬だった。
ひろきはなつを支えてやるために、先に信号を渡り、その場に荷物を置いて横断歩道に戻ろうとした、その時だった。
「キュルルル、ゴンッ!ガシャアアァァン!」
ひろきの背後から、鳥の断末魔のような甲高い不快音、南瓜を叩きつけたような鈍い衝突音、空気を歪ませるような耳を擘く破裂音が連続で聞こえ、即座に振り返った。
信じられない光景が広がっていた。
横断歩道の白線上を歩いていたはずのなつが、車の進行方向側およそ5メートル先で仰向けに倒れていた。その視線を更に右手に移すと、エメラルドグリーンらしき軽自動車が、白い煙を上げながら反対車線側のガードレールをひん曲げた状態で停まっていた。
「なつ!!」
ひろきは、つんのめりそうになりながらなつに駆け寄った。
なつが着ていた白と黒の千鳥格子柄のマタニティワンピースと、羽織っていた黒いカーディガンは所々破れ、膝や脛、肘の辺り、そして額の左側に大きな擦り傷ができ、流血が酷かった。意識がはっきりしていないのか、目は虚ろで、呼吸はかなり浅い。
「大丈夫ですか!」
「救急車呼びます!」
「おい、妊婦さんだ。子どもは大丈夫なんだろうか・・・」
近所の住人や、車から降りて駆け寄ってきた人たちが、取り乱しているひろきに代わって諸々の対応をしていた。
「なつ!おい、なつ!!」
ひろきの懸命な問いかけに、なつはぴくりと反応し、黒目をすーっとひろきのいる左側に移した。
「この子を・・・」
なつの声はとてもか細い。口元に耳を寄せてやっと聞こえる程度だった。
「お願い・・・」
「ああ、救急車呼んでもらった!すぐ来るからな!お前も赤ちゃんも大丈夫だ!」
「ひろくん・・・」
「何だ?」
「私・・・昔から夢を見るの・・・真っ白い夢・・・」
ひろきは目を見開いた。唐突に何を言い出すのだろう。なつの言う夢とは、自分の知っているあの夢のことだろうか。
ひろきの頭の中で、なつが何故その夢のことを知っているのかという疑問、詳しく聞かせてほしいという好奇心、身体に響くから今は喋らないでほしいという心配が三つ巴になって鬩ぎ合い始めた。
「中学生の頃から・・・。最初は変だと思ったんだけど『あの子』が言うこと全て本当になって・・・。ひろくんがテスト拾ってくれたり、声をかけてくれたり、夏祭り行けるようになったり、陸上部を辞めたり・・・」
ひろきは絶句した。自分と同じあの夢、見始めたタイミングも同時期だ。
ということは、なつも未来のことを知りつつ生きてきたということなのだろうか。どこまで聞いていたのだろう。2人が付き合うことも、結婚することも、何もかも知っていたのだろうか。
あらゆる疑問は尽きないが、はっきりしていることは、2人してあの夢に導かれて今まで生きてきたということだ。
しかし、誰が何のためにそんなことをしているのか、さっぱり分からない。
そもそも人の夢の中に現れるなんていう不可思議なこと、できるはずがない。
「何だか不思議だったけど『あの子』の言うこと、信じて良かった・・・。ゆうには嫌われちゃったけど・・・それでもひろくんを守ってあげてって・・・死な・・・くて・・・」
後半は、空気しか出ていないかのような声の細さで聞き取れなかったが、ひろきは確信した。
「その子」と「あの子」は、やはり同一人物だ。
真っ白な世界で姿形を見たことがないから、人物かどうかは定かではないが、同じ声に導かれて、ひろきとなつは、生かし合ってきたようだ。
「ひろくんが支えてくれて幸せだった・・・」
「なつ!おれも・・・」
「救急隊です!ご主人ですか?少し離れていてください、担架で運びますので」
ひろきが言いかけたところで、救急隊が到着した。水色のジャケットにヘルメット姿の隊員たちが、なつを囲むようにわらわらと集まってきた。
「なつとお腹の子をお願いします!」
叫ぶようにそう言って、救急車に乗り込んでからの記憶は、ほとんどない。
ただなつの手をぎゅっと握り、目を閉じて豊かな表情をしているなつを見つめていた。
それが最後の記憶だった。
「お前は何者なの?」
「・・・」
「何が目的なんだ?」
「・・・」
「そっちから呼んでおいてダンマリかよ。やっとお前と仲良くなれそうだったのに」
気が付くと、ひろきは夢の中にいた。
その子は、ひろきの問いかけに無反応だった。真っ白で無音な空間で、ひろきはひとり、喋り続けていた。
「なつは助かるのか?」
「・・・」
「そうか。なつをこんな目に合わせたから、怒ってるんだな」
ひろきはその場に座り込んだ。
「おれも自分を怒りたいよ。お前は分かっていたんだろ?こうなるってこと。思い出したよ。お前言ってたもんな?なつを優先しろ、後ろから支えてあげるようにって。あの時、おれが先に横断歩道を渡るなんてことをせずに、なつの後ろについて一緒に渡ってやれば良かったんだ。そうすりゃ、多分おれが事故に遭ってた。少なくともなつではなかったはずだ」
ひろきは真っ白な床を見つめながら、ボソボソとそう言った。やはり、その子は何も言わない。
「おれは今までずっと、選択を間違えてきた気がするよ。お前に言われた通り、なつを守ってきた。でも、もっといいやり方があったんじゃねぇかって。もっと上手くできれば、倉田と大吾とも、今も仲良くやってたかもしれない」
真っ白な夢の世界。寒暖はないが、ひろきは震えていた。
「頼むからよぉ、なつを助けてくれよ!なつまで失ったら、どうやって生きてけばいいか分からねぇよ!」
ひろきは涙をぼろぼろ溢した。その涙は、地に着くことなく、真っ白な世界を永遠に落ち続けていた。
しばらくの間、ひろきの嗚咽が響き渡っていた。しかし、何かの音が微かに聞こえることに気が付いた。
「何だ・・・お前か・・・?」
ビリビリと細かな周期で耳を刺すような高音が、徐々に圧を増していく。ひろきは立ち上がり、ぐるっと周囲を見渡した。
何も、誰もいない。しかし、確実にその音は大きくなっていた。
すると次の瞬間、いつものように視界は暗くなり、空へ放り出されたような感覚に陥った。
夢が終わる、しかしその音だけはずっと響き続けていた。
「高橋さん!」
ビクッとしてひろきは目を見開いた。
目の前に、白衣を着たマスク姿の中年男性と、白に近い水色の制服を着た若い女性が立っていた。
「大丈夫ですか?」
ひろきはキョロキョロと周囲を見渡した。
そうだ、ここは病院。そして目の前の2人は医者と看護師。そしてひろきは、手術室に程近い待合スペースに座っていた。
どうやらひろきは、そこに座り、疲れ果てて寝ていたようだ。
「大丈夫です・・・」
ひろきはポツリと呟いた。
「高橋さん、赤ちゃんは無事です」
そう言って医者が、ひろきの目の前に、タオルに包まった赤子をそっと差し出した。眩しそうに目を閉じ、小さな口を開け、大きな泣き声を上げていた。
ひろきはハッとした。夢の中で聞こえていた音と同じだった。あの音の正体は、この子の泣き声だったのだ。赤子の泣き声が、ひろきを夢から醒まさせたようだ。
ひろきは赤子をそっと抱いた。
赤子は落ち着いたのか、すぐに泣き止み、口をもごもごさせながら眠りについた。
その様子で、ひろきの表情は少し和らいだ。
「な、なつは!?」
ひろきは、思い出したように医者の方へと視線を向けた。ひろきの表情は再び強張った。
医者は目を閉じ、首を左右に振った。
「娘さんが生まれてすぐに、息を引き取りました」
それを聞いたひろきは、言葉を失った。言葉通り、本当に何も出てこなかった。声が出ない、出したくないのではなく、言葉が見つからないのだ。
肩にのしかかる得体の知れない重みに身を委ね、座ったまま、身体を丸めるようにしながら赤子をぎゅっと抱いた。
視線を自分の足元に向けたまま、全く動けなかった。
そこへ警察官が数人、ひろきの元へと近寄ってきた。
交通量が落ち着いてきた時間だった。60代の男が運転する軽乗用車に、なつは撥ねられた。その男は飲酒した帰りだったようで、事故直前は居眠りをしていたそうだ。我に帰った時には、すでに数メートル先になつがおり、ブレーキを踏んでも間に合わない状況だったらしい。
その男が憎い。今すぐ殺してやると、その場で叫んでいてもおかしくはない、ひろきはそんな壊れかけの精神状態だった。
ひろきの目は血走り、人間とは呼べない程の悍ましい表情で院内の床を睨んでいた。
そんなひろきの纏った異様な空気に嫌悪感を抱いたのだろう。腕の中の赤子が、もぞもぞと動き出し、今にも泣き出しそうなくしゃくしゃな表情をタオルから覗かせた。
ひろきはハッとして人間の表情を取り戻し、揺り籠のようにして赤子を抱いた。
「憎悪に支配されている場合ではないよ。しっかりしてよ、父親なんだから」
何だか赤子に、そしてなつにも、そう言われたような気がした。
そしてふと、ひろきは先程の夢を思い出した。自分以外の誰も知り得ない落ち度があったことを。自分がなつを殺してしまったのかもしれない、そう思う自分もいた。
命令に従えなかった自分に対し、その子はどう思っているのだろう。夢の中で何も答えてくれなかったということは、きっと怒っている、許してはもらえないのだろう。
ならば、許される生き方をするしかない。
その子が生かそうとしたなつに、生かされた命なのだから。
ひろきは腕の中の赤子を見つめ、そして抱き寄せた。
今回も選択を間違えるところだった。
しかし、もう間違えない「この子」のためにも。
あれこれ考えているうちに、この子と一緒に支え合って生きていくしかないのだという結論に落ち着いたのだった。
ひろきは深呼吸をした。
警察官たちは、この度はご愁傷様でございます的なことを言ってその場を離れていった。
それに続くように、医者は何も言わずひろきに一礼してその場を後にした。
「お顔、見られますか?」
看護師の優しい声が、ひろきの頭頂に降り注いだ。
「・・・はい」
ひろきは、看護師に聞こえるかどうか程度の、力のない声で返事をした。
看護師が先導し、部屋の扉を開けてくれた。
この時期にはあり得ない程、冷房でキンキンになったオフホワイトの部屋、その中央に、白いシーツを被った医療用ベッドらしきものがあった。
看護師は、部屋に入ったひろきに一礼して扉を閉めた。
ひろきは娘を片腕で抱え、ゆっくりとシーツを捲った。
なつの表情は朗らかに見えた。娘に会うこともなく、3人の幸せな生活を目前にして亡くなったのにも関わらず、どうしてそんな表情なのだろう。
ひろきはキュッと下唇を噛み締めた。
しばらく寝ていた娘が、ひろきの腕の中で、再びもぞもぞとし始めた。そしてパンパンに腫れた目を更に腫れさせながら泣き始めた。
「おー、よしよし。ほら見ろ、お前のお母ちゃんだぞ。元気なところを見せてやれ。見てみろよなつ、お前そっくりだぞ。優秀な娘になりそうだな・・・」
喋れば喋るほど、ひろきの胸に閊えた何かが込み上げた。それはあっという間に涙腺に到達し、大粒の涙となって溢れ出た。
オフホワイトの空間は、何だかあの夢の中を思わせたが、今度は床が涙をしっかりと受け止めていた。
それでやっと、これが現実なのだと受け入れたのだった。
ゴーッという冷房の轟音が響き渡るオフホワイトの空間、3人の間をその風がびゅっと吹き抜けた。
そして啼泣と哀哭の不協和音が、横たわるなつを包み込んだのだった。
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