第6話 橋の崩壊
機械のスイッチを入れ、欠伸をひとつ。リュックを更衣室のロッカーへ押し込み、重い目蓋を閉じたまま無意識に作業着へと着替える。
「おはようございます。今日も1日、安全にお願いします」
「お願いします」
8時の朝礼を皮切りに、各々が作業に取り掛かる。ひろきはロールダイスの前に立ち、加工前の山積みのネジを1本拾い上げ、丁寧に螺子山を施した。
生来、細々とした作業が好きだったこともあり、この仕事はすぐに馴染んだ。
幼少期、プチプチの緩衝材を1日中潰して過ごしていた時のような、常軌を逸した集中力で作業できるひろきにとっては、単調な作業などという退屈さは微塵も感じなかった。給料はそれほどでもなかったが、貯金はできずとも何とか暮らしていける程度ではあった。
17時の就業のチャイムで、ひろきをはじめ従業員たちは機械のスイッチを切り、更衣室へと向かった。騒々しかった作業場は突如として静寂に包まれ、まるで熱した鉄のように即座に冷たくなった。
更衣室で挨拶を済ませ、裏口の半分錆びた鉄扉を開けたひろきは、深呼吸をしてから歩き出した。
ひろきの勤める小さな町工場から2駅のところに住まいはあった。駅から徒歩15分、築5年の2DKで、家賃は6万円程。駅の近くにスーパーがあり、特段不満もなく、慎ましい生活が送れている。
帰宅したひろきは、真っ先にテレビを点ける。そして、冷蔵庫の余り物でさっと野菜炒めを作り始めた。
「ただいま」
「おかえり。丁度できたけど、食う?」
「うん、ありがとう」
ひろきは2枚の皿に均等に盛り、茶碗によそった熱々のご飯と共にテレビ前のテーブルへと運んだ。2人は並んでクッションに座り、食事を始めた。
「うん、美味しい!」
「結局、焼肉のたれが1番美味い」
「だね。あ、ひろくん。明日は私の分いらないからね。バイトで遅くなるから」
「分かった。あ、そうだ。なつに頼まれてたアイス買ってきたから、後で食おう」
「お!やった!」
ひろきが高校を卒業してから2年が経過していた。ひろきは彼女と同棲している。彼女の名は工藤なつ、そう、あの工藤である。文化祭で告白し、見事付き合うこととなり、それからかれこれ5年近く付き合っている。
なつは、国立大学である白天大学の2年生である。大学生らしく、単位取得に追われ、相変わらず勉強とレポート作成に勤しんでいる。
ひろきはというと、高校を卒業した後、就職する道を選んだ。この過程には波乱曲折があったのだが、なつが死なず、一緒に生活できている現状が、そんな過去の蟠りを消しつつあった。
「そう言えば、聞いた話だけど。また離婚したみたい」
「ん、誰が?」
「ゆう・・・」
「はぁ・・・。もう忘れろって、あいつのことは」
「分かってる。中学の時同じ部活だった子のSNSでたまたま知ったの」
「そうか。あいつ子どもいるんだよな?育てられんのかな」
「分からない」
「・・・さ、アイス食おう」
ひろきは、不穏な沈黙を破ろうと立ち上がり、冷凍庫からソーダ棒のアイスを2本取り出した。
そうして2人は、その話題を葬り去るかの如く、ネットバラエティの話題へと切り替えたのだった。
ひろきは和室、なつは洋室が各々のプライベートルーム兼寝室となっている。夕食を終え、リビングでダラダラした後、なつが洗い物をしているうちに、ひろきはシャワーを浴びた。
2人がシャワーを浴びた後は、時期によってまちまちだが、リビングで過ごすか、各々の部屋で過ごす。
なつは明日提出のレポートがあるらしく、今日は各々の部屋で過ごすということに落ち着き、ひろきは和室に敷かれた布団に寝転がった。
寝転んでスマホを触る癖は、中学生の頃から変わっておらず、何とも人間というのはそう簡単に変わらないということを表してるようだった。そしてそのまま寝落ちするという癖も相変わらずで、ひろきはゆっくりと落ちていったのだった。
懐かしい感覚でひろきは目を覚ました。
むくりと起き上がると、視界は真っ白、そこはあの夢の世界だった。
「何でここに・・・」
「また会うと言ったはずだけども」
全身が包まれているかのように、その子の声は聞こえた。あの時と変わらない、口調は大人びているが、声は子どもだ。
「随分と久しぶりじゃないか?」
「そうだね」
「何の用だ?」
「色々と教えてよ」
「工藤のことか?ちゃんと生きてるよ。付き合ってて、一緒に住んでる」
「そうか。いい方向に進んでいるね」
「何がいい方向だ!?なつと仲良くやってるのはいいが、倉田との関係はめちゃくちゃになったんだぞ!それに・・・」
「そんなこと言われても知ったことじゃない。工藤なつを守ってほしいという話をしただけだし、それに揉めたのは自分の所為なんじゃないの?」
ひろきはムキになり、怒鳴りつけたものの、痛い所を突かれて黙り込んだ。そして子どもを怒鳴りつけたことを何だか恥ずかしく思ったのだった。
「まぁ、必要な出来事だったと思うといいさ。それはさておき、ここまで来られたことは褒めてあげる。道半ばだけどね」
「おい、いつま・・・ちっ、もういいや」
「分かっているね?」
「これだけは教えてくれ。なつは本当に死ぬのか?」
「死ぬよ。それは断言する。でも、そう言っても信じないんでしょ?なら、殺してみる?」
「できるわけねぇだろ!」
「だよね。それでいいよ。さぁ・・・もうお別れだ」
その子がそう言うと、ひろきの視界は暗くなっていった。
「ひろきにしかできないんだ。頼むね・・・」
徐々に小さくなっていったが、最後の言葉はひろきにはっきりと聞こえた。そして空に放り出されたような感覚になった。すごい勢いで落下し、ビクッとしながら目を開け、布団に着地した。
寝汗をかき、よれたTシャツに汗染みができていた。掛け時計に目をやると、やはり4時を少し回ったところだった。
ひろきはキッチンでコップ1杯の水道水をがぶ飲みし、再び寝床へと戻った。
「大丈夫、きっと」
そう呟き、束の間の睡眠を図るのだった。
遡ること4年前。文化祭を終え、朝から授業漬けの日常へと戻された。
倉田にしてみれば、真面目に聞いてノートを取り、理解を深めていればいつの間にか終わっている、授業なんてものはその程度だった。
それもそのはずだ。黄里を目指すほどの実力があり、青川にトップの成績で入学したのだから。
それに倉田にとって、授業に集中できることは幸いだった。
ひろきに振られてから、心の靄が晴れることはなく、ずっと居座っているのだ。その靄は、何かに集中、特に勉強に集中している時に晴らすことができた。晴らすといっても、晴れ間が見えるようなもので、基本は曇り空のような状態だったが。
その靄というものを完全に晴らす方法を倉田は知っていた。
なんてことはない、今まで通りひろきと会話をすれば良いだけなのだ。元の関係に戻りさえすれば良いだけなのに、自分から声をかけることに何だか気まずさを感じていた。
文化祭では、仕事だと割り切り、そして仕事であることを言い訳にすることで、ひろきと普通に話すことができた。しかし、文化祭を終えてからは、どう声をかけたら良いか分からなくなっている自分がいた。
これまでもそうだが、ひろきから声をかけてくることは稀有だ。中学2年生の時、夏祭りに誘ってくれた時は、滅多なこともあるものだと驚いたし、その驚きと同じくらい高揚した。だから、こちらから声をかけるしかなかった。
それに、なつへの告白はどうなったのだろう。倉田にとって、芸能人の結婚や株価の暴落など、世の中のどのトピックよりも興味関心があるのは、ひろきとなつの今である。
しかし、それを知ることで自分に何の得があるのだろうか、そう冷静に考えれば考えるほど、靄がさらに立ち込めるのだった。
もし、ひろきとなつが付き合っていたとしたら、素直に喜べず、余計にもやもやするに決まっている。仮に振られて付き合っていなかったとしても、自分にチャンスが舞い戻ってくるわけではない。
どちらにせよ、行き着く先は虚無であることが分かっていた。
にも関わらず、好奇心が湧いてしまうのが大変厄介で、それは勉強が得意であるが故の知への渇望なのか、人間の本能なのか定かではなかった。
「ゆう、お昼一緒に食べよ〜」
ある日の昼休み、倉田の席へ黄色い巾着タイプのランチバッグを持って現れたのは、同じクラスの桜井琴音だった。ショートヘアがよく似合う、倉田と似たタイプの天真爛漫女子だ。
そして2人の賑やかなランチタイムが始まった。
「はぁ、彼氏欲しいなぁ」
「どうしたの急に」
「文化祭にさ、どこかの高校のカップルが来てて、いいなぁって」
「あー確かに、結構いたね」
「ねぇ、あたしさ、どうやったらモテると思う?」
「知らないよそんなの!ウチだってモテたことないし!」
「ほんと、あたしらがモテない世界って何なの?」
「ふふっ・・・ほんとだよね!」
倉田と桜井は、高校生の昼休みらしい会話で盛り上がった。
桜井は、学年トップの倉田に次ぐ成績優秀者だった。しかも2人とも、誰に対しても態度を変えることなく、フラットに接するタイプで、本人たちは気が付いていないが、実はモテていた。それを妬み、八方美人などと揶揄する女子もいたが、2人は女子社会での1軍に属し、且つ青川のワンツーという圧倒的強者ポジションに君臨するが故に、苦虫を噛み潰したような顔をするのは、そんな陰口を言う女子の方だった。
「てかゆうはさ、好きな人とかいないわけ?」
「え・・・いないよ」
「高橋くんは?」
「はぁ!?」
倉田は思わず立ち上がり、大きな声を出した。桜井がニヤニヤしながら指を差している。その方向へ目を向けると、クラスの男子が固まって食事をしている中に、弁当を頬張るひろきの姿があった。
「中学から一緒だしさ、文化祭実行委員も息ぴったりだったし。身長も高くて、顔は・・・まぁあたしの好みではないけど、カッコいい方だしね。合うと思うけどなぁ・・・」
「別に何でもないって、あいつは友達」
「でもみんな言ってたよ。ゆうと高橋くんが付き合ったらいいカップルになりそうだって」
「や、やめてよ!」
倉田は顔を赤らめた。そして何だか嬉しく思っている自分がいた。周囲からそう思われていたことに対し、一定の充実感のようなものを得ていたのだ。
だが、一定に留まってしまった理由は、ひろきに振られてしまったからだ。カップルになれなかった事実は、倉田の心にしっかりと蓋をして満たさなかった。
他者の希望では実らないのが恋愛なのである。文化祭実行委員に推薦されたように、恋愛も周囲の推薦で実ることがあれば、今頃ひろきと付き合って、幸福感に満たされた自分がいたはずである。
何だか不条理だなと思えてしまった。
「あ、誰から聞いたか忘れたけど、文化祭の日、高橋くんと女子が待合室で話してるところ見たって」
「・・・」
「なんかすごくいい雰囲気ぽかったようだけど、誰なんだろ?ゆう知ってる?」
「・・・知らない」
恐らくなつだ。しかし、なつのことを知らない桜井と、その答え合わせをすることは不可能である。
結局ひろきとなつの関係について何も知ることなく、好奇心を更に掻き立てられただけだった。
何だか釣りサムネに引っ掛かり、内容のない動画を見せられたような、そんな失意のうちに昼休みを終えてしまい、休めた気がしなかった。
その日の放課後。部活が休みの倉田は、桜井や他のクラスメイトたちと挨拶を交わし、教室を出た。
青川から駅までは、大きく2つのルートがある。人と車通りの多い騒々しい道路沿い、もしくは、木の間を風が抜ける音しか聞こえない住宅街の閑静な道。倉田は後者を好んでいたが、今日は何だか道路沿いを歩いてみたくなり、正門を抜けて大勢の人が流れる方向に身を任せた。
歩を進めていた倉田は、あまりの雑踏に自分の選択を後悔した。
「こっちってこんなに混んでるんだ・・・」
帰路の学生とサラリーマン、買い物をする街の住人、雑音のオンパレードだった。学生は雑談に夢中になるあまり、鉄球の足枷が付いているのかと思うくらいの遅さだった。倉田は、そんな学生たちをすり抜けるようにして、足早に駅を目指した。
順調に駅へと向かっていた倉田だったが、駅の看板が微かに見えてきたあたりでその歩をピタリと止めた。
丁度10メートル先に見えたワイシャツ姿の集団、間違いない、ひろきたちだ。
倉田は意味もなく歩幅を狭め、周囲の鉄球を引き摺った学生たちに溶け込み、今の距離感をキープしながらひろきの背中を追いかけた。
ひろきは、笑顔でクラスメイトと別れ、1人ホームに続く階段を降りて行った。倉田は、そのタイミングで走ってひろきに追いつこうとした。
しかし、追いついてどうする?気まずい雰囲気を打開する手立てはあるのか?と自問を始めてしまい、走り出したスピードを急速に落とした。家までの道中、ひろきと会話を続ける自信は、今の倉田にあるはずもなかった。
そうして倉田は、3両分離れたホーム上からひろきを横目に見ていた。暢気にあくびをしたりスマホをいじったりしながら電車の到着を待っている。こちらに気が付く気配はない。
「何してんだろ、ウチ・・・」
がやがやとしているホームで、唐突にぽつんと虚しさを覚えた。別にそんなつもりはないのだが、何なんだこのストーカー紛いな行為は。罪を犯しているわけではないのに疾しいことをしている気分になった。
いや、そうは言っても致し方ないのも事実。振った相手と振られた相手が仲良く2人で歩くことなどできるはずもなく、偶然大吾と出会し、3人になるという奇跡でも起きない限り、ひろきに近づくことは不可能だ。
その奇跡が望めないのだから、これで良い、倉田はそう自分に言い聞かせた。
程なくして電車が到着し、冷房の効いたヒヤッとした車内に乗り込んだ。倉田は、座席端の仕切りを背もたれにして窓際に立ち、夕陽に照らされた見慣れた街並みと夕焼け色の川をぼーっと眺めていた。
しかし、そんな美しい景色でも、倉田の心を奪うことはできなかった。今ひろきは何をしているだろう、なつと連絡を取るために、スマホをズボンのポケットから取り出しただろうか。
何でなつなのだろう。倉田はギュッとボストンバッグのハンドルを握り込んだ。
電車を降りると、改札までの長い階段を登るひろきの背中が見えた。倉田はやはり、ひろきと20メートル程の距離を空け、背中を追いかけるようにして歩いた。
寄り道せず、家を目指す。陸上も、勉強も、真っ直ぐに取り組む。ずっとそうだった、小学生の時から。そういう真っ直ぐなところが好きなのだ。
帰宅した倉田は、宿題をしていたものの、集中力を切らし、自分の部屋からベランダへと出た。薄暗い紺の空にグレーの雲が攻め入る様子が見えた。
何だか雨が降りそうだ。風も強まり、倉田家の庭の草木がザワザワとし始め、そしてその風は、団子ヘアを解いた細く柔らかい倉田の黒髪を掻き上げるようにブワッと吹き抜けていった。
倉田はそんな空気に、物思いに耽る様な表情で触れていた。湿気だらけの風も、強く吹けば大変心地の良いもので、失恋直後の倉田の鬱屈した気分を吹き飛ばしてくれるようだった。
「ポーン♪」
部屋から通知音が聞こえた。倉田は、徐に部屋へと戻り、スマホを手に取った。
「なつ・・・!」
倉田は、なつからの突然のメッセージに一瞬戸惑ってしまった。最近全く連絡を取り合っていなかった上に、今、ひろきの次に気まずい相手だからだ。
倉田はゆっくり机に向かって座り、メッセージに目を通した。
「文化祭お疲れ様!あの日、帰りに挨拶できなくてごめんね!」
「お疲れ!いいよ全然。来てくれてありがとうね!」
「なんか久しぶりに会ったら、すごく落ち着いてて、大人びててビックリした!」
「そんなことないよ!何も変わってない」
久しぶりのやり取りで嬉しいのか、なつは饒舌だった。倉田の方から話題を振るか、一方的に話して聞き手に回ってもらうかのどちらかだったが、立場が逆転していた。
そしてとうとうなつは、倉田が触れてほしいような、そうでないような、敏感なところに触れてきた。
「もしかして、好きな人できた?文化祭の日に、ひろきくんにゆうの恋愛事情聞いたけど、教えてくれなかったから知りたいな!ちなみに私はね、ひろきくんと付き合うことになった!」
倉田の鼓動は速くなる。予想はしていたはずなのに、受け止めきれない自分がいた。高橋くんからひろきくんと、呼び方が変わっていることに気が付いた瞬間、さらに鼓動は増したのだった。
倉田は、なつのそのメッセージに返信せず、スマホを閉じた。
「ちょっと待ってよ。黄里に受かってさらにひろきと付き合うなんて、人生上手くいきすぎじゃない?何でよ・・・、ウチの方がひろきのことよく知ってるのに、何でなつなわけ・・・?あぁ、ほんとに鬱陶しい・・・」
倉田は机に伏せたまま、シャーペンを折れんばかりに握り込んだのだった。
大吾は、野球部の部室で着替えを済ませ、グラウンドに飛び出た。そして、2年生の先輩たちの指示に従い、グラウンド整備、用具の準備をいそいそと始めたのだった。
翡翠ヶ丘高校に入学した大吾は、やはり野球に明け暮れていた。今年の甲子園は2、3年生のメンバーで構成され、大吾は応援に全身全霊を注ぎ、来年こそは選抜メンバーにと意気込んでいた。更に久しく会っていなかった中学の同級生と青川の文化祭で再会し、それぞれの近況を知ったことで、より士気が高まっていたのだった。
「1年集合!!!!!」
部長の進藤が体育会系特有の咆哮をあげると、今し方取り組んでいた自分の行為を忘れるかの如く勢いで、進藤の前に整列した。
「今年の夏で3年の先輩たちが引退した。だから次の秋季大会は1年も選抜メンバーとして活躍してもらうことになる。知っての通り、この大会を勝ち抜けば、年末に全国大会へ行く。より一層、練習に励むように!」
「はいっ!!!!!」
グラウンド中に響き渡る1年生の声は、闘志そのもののようで、校舎をたじろがせる様な勢いだった。
翡翠ヶ丘高校の野球部は、大吾と同じくスポーツ推薦で入学した者ばかりで、中学時代を野球に捧げてきた、まさに猛者の集いだ。試合に出たくてうずうずしている、血に飢えた獣たちばかり。勿論、大吾もその1人。丸めた頭が、闘争本能むき出しのギラつく目を、より際立たせていた。
選抜メンバーになる方法は至ってシンプル。ダッシュとランニングで好タイムを叩き出すこと、練習意欲が高いこと、他校との模擬戦で活躍すること、勉学の成績が良好なこと。
つまりは、何事にも真面目に取り組み、それ相応の結果を出せということだ。
大吾は既に周囲の1年生と比較し、頭ひとつ抜きん出ているところがあった。それは勉学の成績だ。中学時代の勉強会の甲斐あって、大吾は翡翠ヶ丘で成績優秀者に名を連ねていた。当然、ひろき、倉田、工藤とは雲泥の差であるが、偏差値がそこまで高くない翡翠ヶ丘では充分すぎるくらいだった。
だから大吾は、ひろきたちに感謝すると共に、その感謝を表すために、何としてでも選抜メンバーにならなければと思っていた。
しかし、その心を折りにかかるような厳しい練習の日々だった。体感、糸山中学校野球部の練習の倍程だ。当然疲労感も倍、食う飯の量も倍、その結果大吾は、ひろきたちが見違えるほどの体付きになっていたのだ。
ただ残酷なのがスポーツの世界。練習も疲労も食う量も倍にはなったが、実力が倍になるということはなく、周囲との差は開く一方だった。
それもそのはず、野球部出身なら誰もが知る有名中学で、輝かしい成績を残してきた猛者たちばかりなのだから。潜ってきた修羅場が違うというか、まさに井の中の蛙大海を知るという言葉が相応しい、そんな歴然の差を大吾は知らしめられた気がした。
「クッソ・・・・」
ダッシュとランニングの順位は下から3番目、模擬戦では内野フライを量産し、嘘でも期待の新人とは呼べない成績だった。
ただ、大吾というのは諦めるということを知らない男だ。
部活でどんなにキツイ練習をしようとも、帰宅して一息つくことなく、夜な夜な団地前の小さな広場でバットを振るった。
22時頃、大吾は広場での自主練を終え、中学時代から使っている所々凹凸のある年季の入った金属バットを片手に団地の階段を上がった。まだ肩で息をしており、誰が見ても疲弊していることが分かるような重い目をしていた。
食事と風呂を済ませ、眠りにつこうとした時、瑠花からメッセージがあったことを思い出した。
「大ちゃん、お疲れ様!今週末会える?」
厳しい練習に明け暮れる大吾にとって瑠花の存在、やり取りというのは砂漠のオアシスの様だった。忙しさから日中は返信ができず、いつもこの時間になってしまうので、大吾にとってこの時間というのは、最も心休まる瞬間だった。
しかし、瑠花はまめに連絡をくれるため、いつ返信があるかと悶々とした時間を過ごさせてしまっていることに、大吾は申し訳ない気持ちになるのだった。今日もかれこれ7時間程待たせている。
「遅くなった!ごめん!今週末も部活なんだ」
「そっか、残念。ちゃんと休めてる?」
「微妙かも。でも選抜に入るために頑張らないと!」
「そうだね!高橋くんたちとは連絡取ってるの?」
「少し前に文化祭で久しぶりに会ったけど、そこから取ってないよ」
「そうなんだ。遅くまでごめんね!野球頑張って!頑張る大ちゃんがわたしは好きだから。でも無理せずね!」
「分かった!俺も瑠花が大好きだ!」
大吾は、瑠花とのやり取りを通して束の間の休息の貴重さを噛み締めた。
そして一通り惚気ると、今度は身体の疲れを取ろうと沈む様に眠りにつき、目蓋の裏の真っ白な世界に呑み込まれていった。
青川の文化祭から約1週間後、その日はやってきた。
「今から選抜メンバーを発表する!」
監督の前にずらっと並んだ1、2年生は、闘争心と不安が入り混じったような顔をしていた。入学当初とは明らかに顔つきも体つきも違う。まさに翡翠ヶ丘の兵士という感じだ。
その中で大吾は神妙な面持ちだった。
監督から次々とメンバーが発表され、名前を呼ばれた者が、びゅうっと吹いた心地良い秋風を押し返すような大きな返事をする。
「以上だ!今回、選抜メンバーにならなかった者も練習は怠るな!では、練習に戻れ!」
「はいっ!!!!!」
全員が監督に深々と頭を下げ、振り返ると、グラウンドに向けて一斉に走り出した。
大吾の名は呼ばれなかった。ベンチ入りもできず、落ち込むに値する結果にもならなかった。
「やっぱりそうか・・・」
大吾は妙に納得していた。
日々の練習で、あからさまに開いていく差、これはもうどうしようもないことなのだと。自身が行ってきた血の滲むような努力というのは、この環境では全く意味をなさないのだと。
何故なら、周りの奴らもその努力をしているのだから、もともと開いている差は等間隔、もしくは徐々に大きく広げられていくことは当然だった。どうしたってその差は埋まらない。そのことに気が付いてしまった大吾には、努力というものが無意味なものであると思えた。
そんな精神状態だった大吾だが、いつものように厳しい練習をこなし、疲労困憊で帰宅した。
そんな鬱屈した気分になっても未だ前向きでいられたのは、ある存在があったからだ。
「大ちゃん、お疲れ様」
いつもと変わらない瑠花からのメッセージ。選抜メンバーという明確な目標を失った大吾にとって、瑠花という存在が唯一の原動力だった。
「お疲れ!ごめん、遅くなって!」
「いいの。でも今日は伝えたいことがあって」
「うん!どうしたの?」
「別れよう」
「・・・え?」
突然切り出された別れに大吾は驚愕した。数秒間、ただその文字とにらめっこをしていた。瑠花は、そんな大吾を気にも留めず、言いたいことを淡々と並べていた。
「同じクラスの野球部の子から告白されて、彼氏いるって伝えたんだけど、それでも考えて欲しいって」
大吾はじっと、瑠花のメッセージを見つめていた。反論の余地があるのなら、割って入りたい。その機会を伺うように、一語一句じっくりと。
「すごい気さくで優しくて。うちの野球部は翡翠ヶ丘ほど強くはないから、休みも多くて頻繁に連絡を返してくれるの。大ちゃんが野球強くて一生懸命なのは勿論分かっているんだけど、高校生になってから、わたしとの時間が蔑ろになっている気がして」
「蔑ろになんか!」と割って入ろうとしたが、冷静になってみると、確かに瑠花のことを考えて今まで連絡を取っていただろうかと思う自分もいた。
練習の疲れを癒してもらう、そんな自分本位なやり取りをしていた、そんな気がしてきたのだ。
野球に集中するあまり、瑠花のことを片手間な存在に仕立て上げてしまっていた。大吾にそんなつもりはなかったが、瑠花のメッセージから、少なくとも瑠花はそう感じていたようだ。
確かにそうだ、野球に熱中することが、どうして瑠花のためになるだろうか。
ぐうの音も出ず、大吾は瑠花のメッセージを読み終えると、謝罪のメッセージを添え、瑠花の要求に応えた。
「ふっ・・・何やってんだよ俺」
野球と恋愛の両方とも上手くいかず、自然と呆れ笑いが溢れた。
幼少期から打ち込んできた野球。暇さえあればグローブとバットに触れ、中学では部長として部を統率し、そして都大会に出場するまでの実力を身に付けた。その経験と血の滲むような努力も虚しく、いとも簡単に他校の奴らに選抜メンバーの席を奪われ、終いにはお遊びで野球をやっているような何の実績もない奴に瑠花を盗られた。
「ポーン♪」
ひろきからメッセージだ。
「お疲れ。秋の大会に向けての練習でめっちゃ忙しいのに文化祭に来てくれてありがとな。練習頑張って!」
ひろきのメッセージは励みになる、はずだった。まだ何も知らないストレートなひろきの言葉は、大吾の胸の前でガクッと落ちた。見事なフォークボールだ。
選抜メンバーになれず、横田にも振られてしまった大吾は、珍しく意気消沈していた。
しかし、ひろきにこんな弱々しい自分を知られたくはない、そう強がりたい気持ちがあった。
ふと、中学生の頃を思い出す。ひろきが陸上の練習で怪我をして大会を欠場することが決まった時、素直に話してくれたことを。本当は話したくなかったに違いない、でも素直に話してくれた。それは恐らく、ひろきにとって大吾が親友だからだ。
親友であるひろきに隠し事はしない、たとえそれがどんなに屈辱的なことでも、大吾はそう思えてきた。
ひろきのことだ、背中を押してくれるに違いない。
「選抜メンバーになれなかった」
大吾のこのメッセージに対するひろきの返信は早かった。
「そっか。次、頑張れよ!」
何だろう、この虚無感は。
何も響かないこの無力な言葉に、大吾は肩を落とした。
いや、これがひろきの精一杯のメッセージなのかもしれない。単にセンシティブな大吾には響かなかった、ただそれだけのことなのかもしれない。
でも、何だかひろきにも見捨てられたような、そんな気がしてしまった。
全てが馬鹿馬鹿しくなった。大吾は、何だか一種の開放感のようなものを味わった気もした。
大吾の視界に、練習で使っていた赤い縫い目とロゴが擦り切れた茶褐色の古びた硬球が映った。幼少期には父とキャッチボール、小中学生の時には自主練で使い、練習を終えると、拭いて机の上の最も見やすい位置に飾り、今まで大切にしてきたものだ。
今の大吾には、その思い出が空虚に思え、それどころか憤怒の情を沸々と込み上がらせた。
大吾はその硬球を掴み取り、野球部とは思えないほどの粗暴なフォームで、部屋の薄い壁に向けて投げつけたのだった。
青川の文化祭の日から2ヶ月程経った。なつは黄里の期末テストを無事に終え、正午前に帰路についていた。
「ふぅ、終わった」
共働きで誰もいないリビングで、ドラマの再放送を見ながら昼食を食べ、程よく眠気が襲ってくると、2階の自分の部屋へと入り、ベッドにどさっと横になった。
部屋は白を基調としたとても明るい部屋だ。整理整頓され、必要最低限な物しか置いていない。衣類はクローゼットに、机にはボールペン1つも転がっておらず、勿論脱ぎたての靴下が床に転がっていることもない。
なつの辞書にやりかけという言葉は存在しない、それを体現したような部屋だ。枕元のクマとネコのぬいぐるみが、唯一女子高生らしさを演出していたが、そんな部屋だからだろうが、何ともアンバランス感があった。
「ん、ひろきくんからだ・・・」
なつはメッセージの通知を確認すると、寝転んだままスマホを開いた。
「こっちも明日でテスト終わるけど、何とか補講は免れそう」
「良かった。じゃあ冬休みは会えそうだね!」
「うん。補講になったら勉強教えてね。特に数学」
「いいよ!でも数学はゆうも得意だよ!多分ゆうに聞いたほうがいいかも」
「分かった」
恐らく帰宅途中の電車内なのだろう。ひろきの返信は早かった。何故か最後の「分かった」だけは、ワンテンポ遅れた心地悪さを感じたが、電車を降りるか、改札を抜けるタイミングだったのだろうと納得した。
「あ、ゆうからも連絡きた!」
文化祭の後、ゆうにメッセージを送ってから、定期的にやり取りをするようになっていた。やはり、中学からの仲ということもあって、心地良く気兼ねないやり取りができた。
「テストお疲れ様。いいなぁ、ウチは後1日残ってる」
「頑張って!手応えはどう?」
「まあ、余裕かな」
「さすがだね!」
そんな何気ないやり取りを、ひろきとゆうとしていると、血糖値も下がり、いつの間にか眠気は吹き飛んでいた。
「ゆう、それであの話はどうなったの?」
「好きな人にどうするかって話?どうもしないよ」
「なんで告白しないの?ゆうって案外奥手なんだね」
「そうじゃなくて、その人彼女いるって話しなかった?」
「え?初耳!そうだったの?」
「この話はウチがテスト終わったら会って話そう。相談に乗ってもらいたいし」
「うん、分かった!」
そうしてなつは、ゆうとテスト明けの週末に会う予定を立てた。文化祭ではほとんど話せなかったこともあり、会えることがとても楽しみだった。
しかも高校生らしく恋バナに花を咲かせる。ゆうの恋愛事情を知らないなつは、どんな甘酸っぱい話が聞けるのか、また、自分とひろきの惚気話を聞いてもらえることに胸を躍らせていた。
心地の良い冬晴れだ。青い空に雲が少々、空気はカラッとしてまさにお出かけ日和、なつは純真な少女のような顔をして電車に乗っていた。赤チェックのロングスカートに白いニット、その上に黒のダッフルコートを羽織り、財布とスマホを入れた小さな茶色のショルダーポーチを掛けて、窓際に立っていた。
せっかく高校生になったのだからと、地元から電車で1時間程の都会で待ち合わせることにした。
ゆうに、家が近いのだから一緒に行こうと言ったのだが、午前の予定の関係で家に居ないから現地集合でと断られてしまった。
人の波に呑まれながら改札を飛び出たなつは、周囲をキョロキョロと見渡しながら、とりあえず、改札から少し離れた。
駅周辺は高層ビルが立ち並び、地下ロータリーには大量のタクシーと大型バスが停車していた。
そのロータリーをエスカレーターで上がると、他の路線の改札に直結した百貨店があり、人が出入りするたび、中から暖かい風がブワッと吹いてきた。
「すっごい人の数。しかもうるさいなぁ」
初めて都会に足を踏み入れたなつの感想はそれだった。あまり好みではない、というのが第一印象で、頻繁に来たい場所とは思わなかった。
「えっと・・・どこだっけ?」
なつはスマホの地図機能で集合場所を確認した。
どうやらゆうの知っている店があるらしく、そこでランチをしながら話そうということになり、その近くで待ち合わせることになっていた。
「こっちかな」
なつはスマホを片手に、人混みをスイスイ抜けながら目的地を目指した。
数分歩いていると、人の数は減り、雑居ビルに挟まれた物静かな場所に着いた。
「ここだ!」
そこは待ち合わせスポットなのだろう。数人の女性がスマホをいじりながら誰かを待っていた。なつはそこに同じく立ち、ゆうを待った。
「よっ!」
なつは、笑顔で振り返った。そしてすぐに顔を曇らせた。
そこに立っていたのは、茶髪のマッシュヘアと黒髪ショートヘアの中肉中背の20代の男2人だった。2人ともひろきと同じくらいの身長で、なつは2人を見上げるような形となった。
「な、何ですか?私、待ち合わせしてるんです・・・」
「うんうん、分かってる。君でしょ?なつちゃんって」
「え?」
そう言ってマッシュヘアの男がスマホで写真を見せてきた。そこに写っていたのは、紛れもなく制服を着てピースをしている自分だった。
「そうですけど・・・それ中学の時の写真・・・何で・・・」
「何でって、君がこの出会い系アプリ登録したんでしょ?んで、オレと待ち合わせするってことになったじゃん!隣のこいつは・・・まあ気にしないで」
「私、そんなの登録してません!それ私じゃないです!中学の同級生と待ち合わせしてるんです!」
なつは、人目も気にせず声を荒げて言った。
「いやいや、どう見たって君でしょ?黄里高校の子で、糸山中学校出身の工藤なつって。あ、もしかしてオレの顔、写真と違うから冷めちゃった?ごめんよ、ちょっと盛っちゃったんだよぉ。それとも隣のこいつの所為?分かった分かった、こいつは帰らせるから」
「違います!とにかく私は帰ります!」
なつはそう言い放ち、その場から早歩きで立ち去ろうとした。
すると、男たちが宥めながら追いかけてきた。
「ただお茶しようってだけなんだからさぁ。その後のことは、まあゆっくり話すとして」
「やめてください!付いてこないで!」
なつは恐怖で足が竦みながらも、何とか足を動かした。一刻も早く大通りに出たい、人の多いところへ行きたい。そう心の中で叫びながら、男たちを無視し続けた。
都会へ足を踏み入れた時は、人混みを嫌ったが、今はその居心地の悪い場所が天国のように思えていた。
男たちが未だ執拗に追いかけてくる。
土地勘がなく、さらに恐怖の最中にいるなつは、どっちが駅だったかを思い出せず、キョロキョロとしながらとにかく歩みを止めないようにしていた。
「まあまあ一旦落ち着こうよ」
ショートヘアの男がそう言って、後ろからなつにガバッと抱きついた。それがなつの恐怖を増幅させた。
「やめてくださいっ!」
なつはショルダーポーチで男の顔を殴り、脇目も振らず走り出した。
「いってぇなぁ・・・クソが!」
なつの殴打で、男たちは本性を露にした。男たちは、鬼のような形相でなつを全力で追いかけた。
運動経験の乏しい、更に女性であるなつは、男たちのスピードに敵うはずもなく、すぐに追いつかれてしまった。男の手は、なつの肩まで数センチというところまで迫っていた。
「いってっ!」
T字路を下から真っ直ぐ走ってきたなつたちは、交差点に差し掛かった。
すると、横道から歩いてきた男と、なつを追いかけていた男の1人がぶつかった。なつはポーチを胸に抱え、息を切らしながら、横道から歩いてきた男の背中を見ていた。
屈強な体格で上下黒のスウェットを着た男が立っていた。キャップから、金の坊主頭を覗かせ、いかにも極悪な風貌だった。
「いてぇな!ぶっ殺すぞテメェら!!」
屈強な男は、転んで尻餅をついていたマッシュヘアの男を見下ろす形でガンを飛ばしていた。ショートヘアの男は、その場でわなわなとしていた。
「す、すいません・・・気をつけます・・・」
男たちは弱々しい声でそう言った。屈強な男は、2人を再度睨みつけて舌打ちをすると、スタスタと歩き出した。男たちは憔悴したように、そのままふらふらとどこかへ行ってしまった。
「あ、あの・・・ありがとうございました!」
なつは小さくなる大きな背中に声をかけた。しかし、その男はピクリともせずに行ってしまった。
駅に着いたなつは、ゆうへ電話をかけた。何度かけても一向に出ない。なつは胸騒ぎがしていた。
あの男たちが見せてきた中学生のなつの写真、あれはゆうが撮ったものだ。そしてあの場所にゆうは現れず、今も連絡はない。
なつは、帰りの電車でゆうにメッセージを送りまくった。
「ゆう、何で来ないの?」
「待ち合わせ場所に来た男の人たちは誰?」
「何で出会い系アプリに私を登録なんかしたの?」
反応はない。
「倉田がなつを出会い系アプリに登録してたって?」
帰宅して、なつはひろきに電話をかけた。
「うん。男の人たちに追いかけられて、死ぬかと思った」
なつは声を震わせて言った。思い出すと、また恐怖が湧き上がってきた。
「・・・大丈夫か?」
「うん。ゆうからも連絡がないし、何でこんなことするんだろう」
「とりあえず、月曜日に倉田に直接聞いてみる。なつはとにかく休んで。また明日電話する」
「分かった。ありがとう」
なつは電話を切ると、ばたりとうつ伏せにベッドに倒れ込んだ。
ゆうがこんなことをするなんて未だに信じられず、鼓動が速くなった。
今からゆうの家に行き、問い詰めようか。そう思うと、やっぱり何かの間違いかもしれない、親友のゆうが、そんなことするはずないと対抗する自分が現れ、結局足が動かなかった。
「ひろきくんに任せよう・・・」
そうしてなつは、この件をひろきに託したのだった。
ひろきの足取りは重たかった。学校に近づけば近づくほど、キリキリと胃が痛む。
なつと倉田の件で、ひろきは様々な感情に押し潰されそうだった。
まず、なつが死ななくて良かったという安堵。今、最も失いたくない人がなつだ、心の底からそう思っている。数年前なら、あの夢のその子との約束だから、などと吐かしていただろうが、もう今となっては夢などどうでも良い。好きだから失いたくないという強い想いがあった。
それと、なつに人道外れたことをした倉田へ対する嫌悪と怒り。倉田にとって親友であるはずのなつ、ひろきにとって恋人であるなつに、このような非道な行いをしたことが単純に許せなかった。
最後は、倉田に対する心配。なつの話では、今でも連絡が取れないらしく、何か事件に巻き込まれた可能性がある。もしかすると、学校へ来ず、朝のホームルームで担任から倉田の失踪などという不穏なニュースを聞かされる可能性がなきにしもあらずだった。
いずれにせよ、学校に着けば全てはっきりする。倉田が居なければ、間違いなく何かしらの事件であるし、居るのなら心配の必要はなくなり、問い質すまでだ。
しかし、どちらの結果に転んでも、良い未来でないことは確かだった。
朝のホームルームが始まる15分前、ひろきは教室に着いた。もう既にクラスはガヤガヤとしていてほぼ全員が揃っているようだった。
ひろきは窓際1番前の倉田の席を見た。倉田は居なかった。
ひろきの鼓動は速くなった。やはり何か事件に巻き込まれたのだろうか。
そこへ、隣のクラスの子と喋り終えた桜井が教室に入ってきた。
「じゃ、あとでね〜。お、高橋くん、おはよー」
「あぁ、おはよう・・・。なぁ、倉田知らない?」
「ん?今女子トイレで会ったよ。後少しで来ると思う」
「・・・おっけ、サンキュー」
ひろきは、ふぅっと息を吐いた。とりあえず倉田は無事のようだ。しかし、それはそれでひろきの鼓動を速くした。
さて、倉田とどう話そうか。無事ということは、倉田はほぼ確実になつを嵌めた犯人だ。あんなことをしたのは何故か。約束をすっぽかし、なつの連絡を意図的に無視しているのは何故か。
ひろきはバッグを机に置き、立ち尽くしていた。
すると倉田が教室に入ってきた。寝不足なのか何なのか、冷たい目をしており、表情は全体的に暗かった。
ホームルームと授業の間の中休みは、あまり時間がなく、聞くなら今しかない。
ひろきに考えている暇はなく、倉田が席に着くや否や、問い詰めた。
「なぁ倉田」
「ん、何?」
倉田の声は、吐息混じりでとても冷めていた。ひろきは、その声にいつもの倉田ではない異常さを感じたものの、止まることなく続けた。
「土曜、なつと約束があっただろ?何ですっぽかした?」
「・・・」
「しかも、なつを出会い系アプリなんかに登録して、何が目的なんだ?」
「・・・」
「答えろよ」
ひろきは、倉田と周囲に気を遣い、諭すような口調で問い詰めた。倉田はひろきに目を合わせることなく、窓の外をぼーっと眺めて黙っていた。
「おい、倉田」
ひろきのその言葉を聞いた後、倉田は目を閉じてため息を吐き、不敵な笑みを浮かべた。
「ふっ・・・ほんと馬鹿みたい」
「・・・は?」
「あの場所、援交とか売春で使われる有名な待ち合わせ場所だよ?そんなのも知らないでノコノコ行くなんて、ほんっと世間知らずだよね」
「・・・!」
「そんな世間知らずな奴と付き合って、その尻拭いさせられて、あんた可哀想だね。1人で何もできないのかよ」
倉田は周囲に聞こえない程度の声で淡々と話し出した。口元は笑っているが目は全く笑っていない。ひろきは愕然として何も言葉が出てこなかった。
「まあ、どうせあんたに泣き付くんだろうなとは思ってたけど」
「お前、何でこんなことすんだよ」
「別に大した理由なんかないよ。ただイラッとしたから、それだけ」
「ふざけんなよ!」
ひろきは周囲に聞こえるか聞こえないかくらいの、できる限り抑えた声で怒りをぶつけた。倉田は、そんなひろきの態度を鼻で笑った。
「なつに謝れよ。あいつ怖い思いしたんだぞ」
「謝る必要なくない?多分もうなつとは会わないよ」
「そういう問題じゃねぇよ!」
倉田の態度はひろきの怒りを助長した。ひろきは怒りで周囲が見えなくなってしまっていたのだろう。抑えていた声が徐々に大きくなり、内容は聞かれなかったものの、側にいた桜井に気付かれてしまった。
「え、何?2人とも喧嘩してんの?」
「いや・・・そんなんじゃないけど・・・」
ひろきは都合が悪そうに答えた。
「ちょっと〜高橋くん、幼馴染だからってゆうのこといじめないでよねぇ?」
桜井は教室中に響き渡る声でそう言った。
当然、クラスのみんなに聞こえたようで、中島が寄ってきた。
「おい、何だよ。朝っぱらから喧嘩してんの?仲良いなぁ!」
中島はそう揶揄い、笑っていた。
「だから違うって!どっか行けよ!」
ひろきはそう言いながら、中島の背中を押した。すぐに何事もなかったかのように、ひろきたちからクラスの視線は外れ、再びざわつきを取り戻した。
ひろきは一呼吸置き、倉田との会話に戻った。
「謝れよ」
「し〜らない」
「アプリも消せ」
「ふっ・・・。じゃあ、今度待ち合わせして謝るよ。また別の場所でも指定しようかなぁ」
「てめぇ・・・!」
そう言った直後、ひろきは倉田に平手打ちを食らわした。いや、厳密には食らわしていた。
ひろきは怒りのあまり、この時の記憶が飛んでいた。
「いったぁ・・・」
気が付くと、倉田が左頬を押さえ、驚いた表情でひろきの目を見ていた。パッと周囲を見ると、桜井をはじめ、クラスの全員がひろきを見ていた。
「ちょっと、高橋くん、やりすぎ・・・」
「倉田さん、大丈夫?」
「ひろき、お前何やってんの?」
「ちょっとやりすぎじゃねか?」
桜井と数人が倉田に駆け寄って肩を抱き、中島と数人がひろきに駆け寄って口々に責めた。
「わ、悪い・・・」
ひろきは倉田にボソッと謝った。
未だ倉田は左頬を押さえ、ひろきの目をじっと見ていた。数秒前と異なるのは、その目から大粒の涙が溢れている点だ。
無意識ではあったが、幸い怪我をさせることはなく、軽くパチンと弾いた程度だったようだ。倉田の頬は、赤くなることも腫れることもなかった。
「はーい、みんな席着いて。おい、どうした?」
最悪のタイミングで担任が入ってきた。
ひろきと倉田のやり取りを見ていた桜井が事情を説明し、2人は職員室に来るように言われたのだった。
ひろきと倉田は、担任の尋問を受け、お互いが事情を説明した。
しかし、ひろきの言葉が伝わるはずもなかった。
何故なら、学校側が問題視したのは、ひろきが倉田に手を上げたことであり、その根幹の倉田がなつをいじめたことではないからだ。
学校は当然、青川の生徒ではないなつのことなど我関せずで、いじめがあったことなど、どうでも良いという態度だった。
いや、学外での揉めごととなると、警察の世話になる大ごとに発展する。そうなることを恐れた学校が、何が何でもここで火を消したいと思うことは当然なのだろう。
だから、担任が部外者のなつのことに触れることはなく、ひろきが手を上げたことについてひたすら説教を垂れるだけだった。
それに倉田は、なつという人物を知らないと言い張り、更には出会い系アプリの情報を既に消していて、なんの証拠も出てこなかった。
どうせ出てきたところで学校は何もしないのだろうが。
どういう事情であれ、手を上げた方が悪い。その結果、ひろきは2週間の謹慎処分を受けたのだった。生活指導の先生は退学をちらつかせたが、それはあまりにも不憫だと思ったのか、倉田が情けをかけるように、謹慎で良いとか言い放ちやがったのだ。
倉田が教室へ戻った後、ひろきは遅れて教室へ戻された。心配するように倉田の席に集まっていた女子たちは、ひろきが戻ってくると、それはそれは冷ややかな視線を向けた。倉田の周囲だけではない、クラス全体がひろきに軽蔑の眼差しを向けている。
それもそうだ。男子が女子に手を上げる、そんな小学生みたいなことをした男子高校生に向ける視線としては正解だろう。
「なぁ、ひろき。どうだった?めちゃくちゃ怒られたろ?何て言われた?反省文か?なぁ、教えてくれよ」
隣の席の中島が、面白がるように質問してきた。ひろきはそれを無視し、荷物をまとめて教室を出たのだった。
倉田は架け橋だった。しかし、こうして倉田という架け橋は崩れ去った。ひろきとなつを引き合わせた橋が、2人を奈落へと落とすように。
ただ厳密に言えば、倉田という架け橋に亀裂を入れたのは、間違いなくひろきだった。ひろきは、先ほどの倉田の態度でそれを察していた。
もしかしたら、なつに告白するということを倉田に言わなければ良かったのではないか、告白する時期をずらせば良かったのではないか。いや、そもそも告白をしなければ良かったのかもしれない。そんなことをぐるぐると考えながら、電車の窓から外を眺めていた。
その日の晩、帰宅した両親から一頻り説教を受けた後、ひろきは部屋へと戻った。
幼馴染の倉田のことは両親も勿論知っている。女子に手を上げる、ましてや教養があり、品行方正なイメージのある幼馴染の倉田がその相手とは何事かと、両親は凄い剣幕だった。
手を上げたことに対する反論は飲み込みざるを得なかったが、ひろきも思うことはあった。
しかし、親にとってひろきは「オオカミ少年」だった。日頃の行いから成績から、何もかもが倉田より劣っているひろきに、両親が同情するはずもなく、当然のように倉田だけをかばった。
その後、倉田の両親に電話で謝罪をしていたようで、言葉と声質で、こんなにも上手く土下座というものを表現できるのかと、両親に感心と阿呆らしさの両極な念をひろきは抱いた。
倉田の両親は、そんな2人を責め立てることなく、温和な態度で対応していたようだ。
倉田自身、こんな大ごとになってしまったことに動揺したのだろう。恐らく両親に、ただの喧嘩だとか自分にも非があったとか適当な理由を述べて、火消しを済ませておいたのだと思う。実に倉田らしい。
部屋へ戻ると、ベッドの上でスマホが慌てていた。なつからの着信だった。
ひろきは落ち着いてスマホを取り上げたが、通話ボタンを押すことを躊躇った。
恐らく倉田の件だろう、この大ごとをどう説明すべきか。
ありのままを話せば、自分のせいでひろきが謹慎処分を受けたと思うかもしれない。その結果、自分を責めてなつが死んだとあれば、ひろきにとって謹慎処分が霞むほどの大ごとになりかねない。
一旦考える時間が必要だと、なつからの着信を無視したのだった。
すると、1分後くらいにメッセージが届いた。
「忙しいところごめんね。大丈夫?今日どうだった?」
ひろきはそのメッセージを見つめながら固まっていた。なんて返事をしようか、考えた末、質素なメッセージを送った。
「もう大丈夫」
恐らく、何が大丈夫なのか、犯人は本当に倉田だったのか、湯水のように疑問の湧く実に不親切なメッセージだとなつは思ったはずだ。
このメッセージに対するなつの反応は、神のみぞ知る。なつほど聡明な人物であれば、この文言から全てを察するだろう。少なくとも倉田が意図的にやったことだと理解するはずだ。
そうなると、親友である倉田に酷いことをされたショックで死んでしまうかもしれない。
ひろきは、何かしらのメッセージが返ってくることを、目をギュッと瞑り、スマホを握り締めて待っていた。
「頼む・・・」
この間に、やっぱり倉田だったとはっきり言うべきだったか、それとも倉田じゃなかったと嘘を吐くべきだったか。いや、嘘を吐いたら、安心して倉田に連絡をしてしまう、それは問題だなどと、あれこれ思考を巡らせていた。
「ブブッ・・・」
ひろきの掌の中でスマホが震えた。ひろきがメッセージを打ってから約5分後くらいだった。
「分かった。ありがとう」
実にシンプルな返信だった。だがそれは、やはり全てを察したが故なのだろう。倉田のことをどう消化したのか定かではないが、とりあえずなつは生きている。ひろきはそれに安堵し、膝から崩れ落ちた。
「良かった・・・」
これ以上、この件に触れるのは止めよう。そう思ったひろきは、昨日観た動画の話や、なつの今日の出来事を聞くなど、日常に戻したのだった。
正直、謹慎処分を受けたばかりの身でそんな心の余裕はなかったが、なつに打ち分けるわけにはいかず、平静を装ったのだった。
謹慎から1週間が経った。実に退屈だ。
ひろきは毎日毎日、午前中はベッドでゴロゴロし、夕方頃、グレーのスウェットパーカーのセットアップに着替えて近所をぶらぶらとする生活を送っていた。
自宅謹慎を命じられていたが、近所に青川の生徒と先生の目はなく、当然守らなかった。強いて言えば倉田がいるが、出会したとしても態々ちくってやろうとは倉田も思うまい。
ひろきもひろきで、謹慎を食らった身ともなれば、もう怖いものなしというか、守る体裁もないのだから堂々としようという心持ちでいた。
ある日の夕暮れ時、いつも通り近所をぶらぶらしようと、部屋を出て玄関へとやってきた。
すると、仕事から帰宅した母と鉢合わせた。母は、食材が大量に入った白いビニール袋を玄関ホールにどさりと置き、鍵を閉めていた。ひろきは、何か小言を言われるだろうと、うんざりした表情を浮かべながら、母を無視するように靴を履いた。
「ひろき、宮下くんと連絡取ってる?」
「・・・いや、取ってない」
玄関ドアのハンドルに手を掛けたひろきに、母はそう尋ねた。ひろきはハンドルを見つめたまま、無愛想に答えた。
「今、スーパーで宮下くんのお母さんに会ったんだけど、どうやら野球部を辞めっちゃったらしいのよ。高校も行かなくなったみたい」
「・・・大吾が?」
それを聞いて、ひろきは驚き、やっと母の目を見た。
「何があったのか分からないけど、突然グレちゃったみたいなのよね。都会の方の高校だから、そういう友達が多いのかしら」
ひろきにとって、俄には信じがたい話だった。
野球少年という言葉は、大吾のためにある言葉なのではないか、そう思える程野球に打ち込んでいた大吾が、突然野球部を辞めるなんて。それにグレた大吾の姿も想像ができなかった。
「まぁ、連絡取ってみるよ」
ひろきはそう言って玄関の扉を開けた。
12月初旬の空気というのはやはり冷たく、細かな針のような風がひろきの頬を突き刺した。
公園のベンチに腰掛け、何をするでもなくただ茜空を眺めていたひろきが、欠伸をひとつ。
すると、小学生くらいの男の子が2人、誰もいない街灯が点き始めた物悲しい空間でキャッチボールをし始めた。
何気なく、ひろきはその2人をぼーっと眺めていた。自分と大吾を見ているような懐かしさを感じた。
ここ2ヶ月程連絡を取っていない間に、大吾に一体何があったというのか。ひろきは徐にポケットからスマホを取り出し、大吾へのメッセージを打った。
「久しぶり、元気か?」
「うん、元気。ひろきは?」
大吾からの返信は割と早かった。その上、文面上は今までの大吾と変わらない印象だ。
やはり大吾がグレているなど、何かの間違いなのではないかと、そう思った。
「今、あの近所の公園にいるんだけど、少し話せるか?」
ひろきがそのメッセージを送ってから、5分程して返信があった。
「1時間くらいかかるけど」
「いいよ、待ってる」
ひろきは、最近覚えた激甘缶コーヒーを啜りながら、ベンチに座っていた。
すっかり日も暮れ、街灯のジーッという音がよく聞こえるほど公園は静かになっていた。
「よう・・・」
ひろきの左後ろから、力強さのある低く冷たい声が聞こえた。ひろきはベンチに腰掛けたまま振り返った。するとそこには、ひろきの知らない大吾がいた。
迷彩の軍パンに黒のスウェットパーカーを着た坊主頭の男が、ポケットに手を突っ込んでどっしりと構えていた。耳にはいくつかピアスが付いていて、街灯の明るさではよく分からなかったが、何やら明るめの髪色だった。
「よう・・・。まあ座れよ」
「ああ。遅れて悪かったな」
ひろきがそう言ってベンチの左端にずれると、大吾はゆっくり右側に座った。
「野球辞めたらしいな」
「ああ」
「学校もあまり行ってないとか」
「ああ」
ひろきの問いに大吾は、伸ばしたつま先の一点を見つめたまま、ぶっきらぼうに返事をした。
「どうしちゃったんだよ!」
ひろきは少し声を荒げて大吾の前に立った。大吾はひろきのその態度に表情ひとつ変えず、ため息を吐いた。
「別に、どうもしちゃいねぇよ」
「なんで野球辞めちゃったんだよ!あんなに頑張ってたのに!おれ、大吾の試合観に行くの楽しみにしてたんだぞ!」
「お前だって陸上辞めただろうがよ!」
大吾は立ち上がり、ひろきと大吾は顔を突き合わせた。
「野球辞めたこと、お前にとやかく言われる筋合いはねぇよ」
大吾はひろきをギロっと睨み、熱り立った。
大吾の目は、いつも見ていたキラキラとした野球少年のような目ではなく、残虐非道に獲物を捕らえる獣のような目だった。
ひろきは、そんな大吾の鋭い睨みにたじろいだ。
大吾と取っ組み合いの喧嘩など今まで1度もしたことなかったが、こうしてみると、しなくて良かったなと思った。
こんな屈強な男に勝てるはずがない。
ひろきはベンチに座り直した。
「横田さんはどうした?」
「とっくに別れた。振られたんだよ」
「そうか・・・」
しばらくの沈黙の後、大吾はひろきに背を向けて歩き出した。
「他にないならもう行くぞ、じゃあな」
公園を出た大吾は、ポツリと呟いた。
「おせぇんだよ・・・」
そうして大吾は、薄暗い住宅街へと入っていった。
ひろきは、大吾にかける言葉を必死に探したが、何も出てこなかった。
野球を辞めた理由も現在の容姿の理由も、何となく察せてしまったからだ。ひろきは、のしのしと遠ざかる大吾の背中を、ベンチに座ったまま、ただ見ているしかなかった。
「はぁ・・・」
月が良く見える薄暗い公園、ため息は白く、年の暮れの寂寞を吐いた気がした。
ここからのひろきの高校生活はあっという間だった。謹慎が明け、ぬるっと今まで通りの生活に復帰した。
やはりクラスの視線は冷たく、多少の居心地の悪さは感じたものの、2年生、3年生と進級すると、倉田とも別のクラスとなり、ひろきは可もなく不可もない、ごく普通の学生生活を送れるようになっていた。
なつはあっさりと白天大学という名門大学に合格した。
散々な目に遭い、学校という馴れ合いの集団社会で生きることに疲れたひろきは、卒業後の進路として就職を選んだ。
同学年で謹慎処分を受けたのは、ひろきたった1人だったこともあり、学校から問題児レッテルを貼られていたひろきの進路に、教師陣は誰も口を出さなかった。
その結果、やむを得ない事情を除き、ほぼ全員が大学進学を選択した中で、ひとり先に殺伐とした社会の荒波に身を投じたのだった。
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