第5話 告白
中学校での生活となんら変わりない。ひろきは、受験より遥か前の堕落した生活へと逆戻りしていた。授業も大して聞かず、窓側をただぼーっと眺めていたのだ。
高校に入学して、すぐに友人はできた。ひろきのキャラクターは、やはり受け入れられやすいようで、他クラスの人ともすぐに打ち解けた。まあ、キャラクターのおかげ、だけではないのだが。
「いてっ!」
授業の中休み、ひろきが机に伏せて寝ていると、誰かが脳天を引っ叩いた。
「おい、起きろ!」
ひろきが頭を掻きながら、渋々顔を上げると、そこには倉田の姿があった。明暗差で焦点が合わず、目を細めて睨みつけるひろきの表情に、倉田はイラっとしたのだろう、ひろきの頬を軽くペチペチ叩きながら強い口調で問いかけた。
「おいおい、部活は決めたのかって!」
「うるせぇな・・・まだだよ。てか多分入らない」
「なんでよ?」
「なんか中学で燃え尽きて疲れちゃった」
「ああそう。ウチは合唱部にする」
「そうかい、良かったね」
「何その適当な感じ、ムカつく!」
「お前がどの部活入るかなんて知らねぇよ!全く、何でこいつと同じ高校でしかも同じクラスなんだよ。制服が可愛い高校行くんじゃなかったのかよ・・・」
「え?何か言った?」
倉田はひろきと同じく青川高校に入学した。冬の模擬試験の結果を受け、ひろき、大吾、工藤の意見を聞いた上で、青川高校への進学を決断したのだった。そして、入学式で答辞を読む程の成績を叩き出し、一瞬にして倉田は青川高校の有名人となった。
そんな倉田と同郷というか、同じ中学校出身ということが学校中に広まり、ひろきもすぐに青川高校に馴染むことができた。
大変鬱陶しく思えるのだが、重要な局面で倉田の助力に救われてきたひろきは、倉田にぞんざいな態度を取ってしまうことに多少の抵抗を感じるようになっていた。
「ねえ、なつから黄里での生活のこと聞いた?」
「ああ、聞いたよ。部活は入らないで、生徒会に入るとかなんとか」
「え、何それ!?初耳なんですけど!ウチが聞いたのは、入学早々テストがあって、その結果が最悪だったって」
「入学当初の話なんてとっくに聞いてるよ。まめに連絡くれるからさ」
「・・・ふーん、そう」
倉田は唐突に妙な落ち着きを見せ、ひろきの机の前に座り、顔をじっと覗き込んだ。
「あんた良かったの?何も言わず卒業しちゃったけど。てっきり卒業式の日に告るのかと思ってた」
「またその話かよ。何度も言ってるけど、そんなんじゃないってば」
「ほんっとに何もないわけ?」
「ほんっとに何もない」
「あっそ」
倉田はため息混じりにそう言って立ち上がり、授業開始のチャイムで席へ戻ろうとした。
「でも多分、なつはそんなことないと思うよ」
「・・・え、何て?」
倉田は、聞こえなかったのか無視をしたのか分からないが、ひろきの問いに答えることはなかった。
ひろきは、急にどぎまぎし始めた。倉田の言葉で、何故か卒業式の日の工藤の不可解な態度が頭を過り、その時の光景を回顧していた。
唐突に秘密の有無を確認してきたのは何故だろう。すれ違いざまの笑顔は何だったのだろう。
ひろきは、夢とは関係なく、何だか工藤のことが気になり始めていた。
いや、冷静になって思い返してみると、以前から工藤のことが気になっていたのかもしれない。
陸上部を辞めようと決断できたのも、褒められて嬉しいからと勉強に精を出せたのも、工藤のおかげだ。導かれて上手くここまで来れたような、工藤が特別な存在のように思えてきたのだ。
まあ、流石にそれは考えすぎかとも思ったのだが、少なくとも、夢で「工藤なつ」の名前を聞いた頃と比較すると、工藤に対して特別な感情を抱いていることは間違いなかった。
恋愛とは無縁だったひろきという男に、倉田が春を運んできたのかもしれない。
中学生という、最も多感であらゆる出来事に敏感な思春期の盛りを超えると、刺激に慣れるからだろうか、時の流れというものが大変早く感じるのが人生というもので、時は8月末、約1ヶ月後に控えた文化祭に意識を向け始める時期となっていた。
工藤が黄里での成績が芳しくないのと同様に、ひろきも散々なテスト結果に頭を抱えながらも、何とか1年の後半に差し掛かることができた。
勉強会は消滅したものの、ひろきは工藤と連絡を定期的に取り合い、その際にメッセージで勉強を教えてもらったりしていた。
しかし、工藤を意識するようになってから、頭が真っ白になり、勉強なんて全く頭に入ってこなかった。
そしてひろきは思い出したのだ。これは大吾が横田に告白された時に話していた、あの感覚のことではないのかと。ひろきは告白をされたわけではないが、恐らくこれは恋愛の渦中であり、その渦中にいる身という点では大吾と同じだ。ひろきはあの時嘲笑したが、今は大吾の気持ちに共感でき、小馬鹿にしたことを後悔し、心がキュウッと締め付けられるようだった。
ひろきは、従順なよくできた後輩の如く「大吾先輩、その気持ちよく分かるっす!」と心の内で叫び、そしていつものひろきに戻って、冷静に考えた。
「告るか・・・」
そうしなければ、他のことに身が入らない。そんな窮屈な生活から解放されるためにも、工藤に告白することを決意した。
ひろきは工藤の生死を握る存在、だから距離が近ければ近いほど、死ぬ可能性を低めることができる。
当然、恋する盲目男子と化した今のひろきがそんなことを思いつくはずもなかったのだが、とりあえず告白の日取りだけは決めておきたいと、カレンダーをじっと眺めた。
「よし、まあここだろう」
そう言ってカレンダーを指差し、文化祭の日に工藤に告白する決意を固めたのだった。
「これから1組の文化祭実行委員と出し物を決めます!」
学級委員の遠藤と書記の山里が教壇に立ち、黒板にデカデカと「文化祭について」と書き出した。高校生活初のイベントということもあり、クラスは遠足の日の小学生くらい沸いていた。
「お化け屋敷とか?」
「演劇とかやってみたくない?」
「ライブとかいいじゃん!」
「巨大迷路つくろうよ!」
クラスのお調子者たちが口々に案を出す。
「ひろき、何か考えた?」
「んー、何だろう。でもとにかく準備が楽なやつがいいなぁ」
隣の席の中島と出し物についてあれこれ話していたひろきは、文化祭自体は楽しみにしていたものの、話し合いを含めた準備という面倒な部分には蓋をしたい性格なので、適当に決めてもらいたいと思っていた。
「出し物を決める前に、男女1人ずつ実行委員を決めて、その人たちにこの先の進行をお願いしたいのですが・・・。倉田さん、やってくれない?」
「え、ウチ!?」
「クラスのみんなと仲が良いし、しっかりまとめてくれそうだから。それに答辞を読んだ倉田さんの言うことなら、みんなしっかり聞きそうだしね」
「えぇ〜・・・」
肩を落としながら呟いた倉田だが、学級委員の遠藤に懇願され、渋々引き受けた。
ひろきは、とんだ野蛮な女帝が誕生したものだと嘲笑した。倉田に首根っこを掴まれ、せかせかと働く男子の姿が容易に想像できた。しかもあの女帝と実行委員を務めなければならない野郎がこの中にいるのだ。
倉田と対等に仕事ができる奴、それは一体、どれだけ肝が据わった屈強な大男なのだろうかと、想像するだけで吹き出しそうだった。
まあ、あの女帝は、自分の倍以上のデカさの男でも奴隷に仕立て上げてしまうのだろうが。
「あとは男子から1人。やりたい人いませんか?」
「ひろき、あんたもやりなさいよ」
遠藤の言葉に即座に続き、教壇に立った倉田は、民衆を導く女神のようにひろきを指差してそう言い放った。すると、クラスの全員がひろきの方を向き、それはまるで本当に導かれた民衆のようだった。
「・・・ん!?」
肩肘をついて黒板を眺めていたひろきは、慌てて居直り、周囲をキョロキョロと見回した。
「2人は中学からの友達だもんね。いいと思います」
「ひろき、よろしく!」
「頼んだよ!」
みんなは、ひろきに声援を送った。しかしそれは、ひろきが適任だからとかそういった理由ではなく、面倒事を押し付けたいからだということがハッキリと分かった。
女帝に真っ先に首根っこを掴まれたのは、ひろきだった。
ひろきは渋々立ち上がり、教壇に立った。横でニヤニヤする倉田を横目で睨みつけ、ため息を吐いた。
「じゃ、ここからは2人に任せるね」
そう言って遠藤と山里は各々の席へと戻った。民衆を前に、女帝と奴隷が立っている。しかし、これが異様な状況だと感じているのはひろきただ1人で、民衆は平然と2人に視線を向けていた。
「えっと・・・じゃあ出し物を決めまーす」
ひろきの声は、民衆を導くにしては、のっぺりとしすぎていた。
ホームルームの終了と共に、一斉に生徒たちは動き始めた。掃除当番が一様に机を後ろへと動かし始めると、ひろきは急いでバッグを抱え、追い出される形で廊下に出た。するとそこに、丁度倉田が立っており、ひろきの顔を見るなりニタニタと不敵な笑みを浮かべていた。
「はぁ・・・。お前の所為で面倒なことになった」
「何でよ!いいじゃん!どうせ暇でしょ?」
「そういう問題じゃねぇよ!」
「せっかくなら気心知れた人とが良かったんだもん」
その後も、ひろきと倉田は水掛け論的な陳腐な会話を展開しながら帰路を共にしたのだった。青川高校は、ひろきの住まいの最寄駅から5駅のところに位置している。当然倉田も同じなので、2人は自然な流れで一緒に帰ることになった。
「ところで、なつは誘った?」
「いや、まだ。大吾にも言ってないや」
「早く言わないと、予定入れられちゃうよ」
「ああ確かに。今連絡しとこ」
ひろきは、隣に座る倉田を他所に、工藤と大吾にメッセージを打ち始めた。倉田は、その邪魔をしないようにと気を遣っているのか、暫し黙っていた。そしてひろきが打ち終わる素振りを見せると、倉田はひそひそとひろきに話し始めた。
「ねぇ、なつのこと、ホントにいいの?もう9月だし、ラストチャンスかもよ?」
「ラストチャンスって何が?」
「これからクリスマスが来るわけだし、彼氏とか探し出しても不思議じゃないでしょ?そもそも、もう黄里に好きな人いたりして」
ひろきはドキドキし始めた。工藤と恋愛の話なんてものはしたことがなく、故に黄里でのそんな情報は1ミリも知らなかった。
倉田の言う通り、入学してから5ヶ月近く経っている今、仲の良い男子の1人や2人いてもおかしくはない。とっくに告白されて恋人ができているのではないか、先を越されてしまったのではないか。
ひろきは何とも言えぬ焦燥感に駆られた。
「い、いいことじゃん!工藤に彼氏か。もしいたら、今度写真見せてもらおうぜ!」
何度も倉田の質問を拒絶してきた手前、文化祭の日に告白する旨を今更打ち明けられるはずもなく、ただただ強がることしかできなかった。
「本当にいいんだ・・・」
「当たり前じゃん!そんなんじゃないって。しつこいなお前は」
「分かった」
ひろきの強がりに対して倉田は何も触れず、その一言が終止符となった。
たかが5駅されど5駅、そう感じられるほど濃密な時間を過ごした。
単なる被害妄想というか、被害も何も、好きな人が誰かと付き合っていたなんてことは恋愛ではよくある話なのだが、ひろきにとっては死活問題であり、自ら濃密と思える程に粘度を増す形となっていた。
鉄道橋からいつも見える川の流れが遅く感じたのは、きっとその所為だろう。
最寄駅を降りた2人は、出し物の「焼きそば」について話しながら、歩き慣れた道を並んで歩いた。まだ夕日が沈む気配はなく、7日の命であることを気にも留めない勢いで蝉が鳴いている。
「あぁ、もう嫌になる」
この夏の空気に、倉田は不快感を覚えたようだった。
9月に入ると、文化祭実行委員の仕事はどっと増えた。準備日や当日の進行の注意点など、確認のための委員全体の集会に始まり、人員配置表と装飾品の作成、ひろきは常に倉田と共に行動する時間が増えていった。
昨日も今日も、ひろきと倉田と数人のクラスメイトは、放課後の空き教室で屋台の看板を作成していた。
切りの良いところで中断すると、2人はやはり同じ電車で帰宅した。
ひろきも倉田も、幼馴染として長年の付き合いの所以だろうが、仕事においては、互いに一切の不満もなく、むしろ相棒がこいつで良かったと思えるほどだった。
他クラスでは、実行委員の2人が揉め、手伝いが面倒だのクラスから不満も漏れ、ぎくしゃくしているようだったが、1組は他クラスが羨むほどスムーズだった。
倉田という女帝に逆らえない民衆だからというのは勿論そうなのだろうが、みんな楽しそうにしており、不満があるような感じではなかった。
そんな女神のような女帝として、上手く立ち回っている倉田の人間力とバイタリティに、ひろきは脱帽した。
倉田も倉田で、気だるそうにしながらも出店場所決めや予算の会議に参加するなど、まめに動くひろきに支えられていた。
「面倒だなぁ」を口癖のように吐きながらも「あれやっといた、これやっといた」と率先するひろきは、倉田にとって奴隷ではなく、右腕、いや鞄持ちくらいの身分ではあったはずだ。少なくとも、ひろき自身はそう思っていた。
実は倉田がひろきを指名したのは、昔から知るひろきのその人間性を買ってのことだということは、本人は勿論知らないままである。
文化祭前日。この日は授業がなく、終日準備日に充てられていた。ひろきと倉田は、買い出し班、設営班にそれぞれ指示を出し、設営場所へと向かった。
1組は校舎裏手、駐車場への道中に出店することになっている。
この時期の日差しは、9月末なのにも関わらず、高校生と言えど命の危険を感じるほどの暑さで、正門が近い表側というのは終日焼けるような温度となり、花壇の花ですら首を垂れる始末だった。
火器を扱う食品系の出し物をする1組が、地獄の業火に曝されるような状況は容易に想像でき、それを考慮したひろきは、正門からは程遠く、立地は良くないが、早朝と夕暮れ時にしか日が当たらない校舎裏を選んだのだ。
夕暮れ時も、植え込みの大木で影になる場所をあらかじめ計算して選んだと聞いた倉田は、思わずひろきに拍手を送った。
2人の指示とクラスの団結の甲斐あって、準備は5限の授業が終わる14時頃には落ち着いていた。この日は、準備が終わり次第、帰宅して良いことになっており、1組は早々に解散した。
ひろきは、暫く休憩してから帰ろうと、完成した屋台の中で涼んでいた。日陰ということもあり、時折心地良い風が吹き抜け、地面に落ちた装飾の欠けたゴミをどこかへと連れ去っていった。
その風は、ひろきの頭の中を埋め尽くしていた文化祭をも連れ去っていき、代わりに工藤を置いていった。
「そういや、明日告白するんだっけ・・・」
ひろきは我に帰り、思い出したように焦り始めた。どのタイミングで、どの場所で、どんな言葉で、あらゆる重要事項が未確定のまま前日を迎えてしまい、段取りよく文化祭の準備を進めてこられたひろきという優秀な男の姿は見る影もなかった。
ひろきが試合に負けたボクサーのように項垂れていると、目の前のテーブルに、黒い合皮のボストンバッグがドサッと置かれた。
ひろきが顔を上げると、そこには先生への報告を済ませてきた倉田の姿があった。
「お疲れ、あんた大丈夫?熱中症じゃないの?」
「いや、大丈夫」
「なんか飲む?ちょうど喉乾いたし」
「ああ、そうしようか」
ひろきは購買の自動販売機で清涼飲料水を買い、取り出して倉田に手渡し、同じものをもう1本買った。そうして2人は屋台へと戻り、汗と疲れを洗い流すかのように流し込んだ。
「あ〜、疲れたね」
「まあね。明日が本番なんだけどな」
「こういうのって準備が1番疲れるもんでしょ。まあ、ウチら上手くやったと思わない?」
「そうだな。2組の上田と土井が羨ましがってた。上手く役割分担できてるなって」
「そりゃ、付き合い長いからね」
そう言って倉田は、また一口ゴクっと飲んだ。
一頻り話し込み、充分に休めたと感じたひろきは、そろそろ帰ろうかとバッグを肩に掛けて立ち上がった。
「ねぇ、あのさ」
「ん?」
ひろきを制すように倉田は口を開いた。ひろきはピタッと止まり、ちょこんと座る倉田を見下ろした。
「付き合ってくれない?ウチ、ひろきのことが好きなんだ」
「え・・・」
倉田の言葉は、はっきりとひろきに聞こえた。
あまりにも唐突で、なんとも倉田らしくない態度と言葉に、ひろきは動揺して数秒言葉が出なかった。
女帝の乙女な側面を見るのは初めてだった。
「そ、そっか・・・その・・・」
「驚いた?」
「え、まあ、そりゃ・・・」
「変だと思ったでしょ?恋愛とかそういうの縁がなさそうなタイプじゃんね、ウチ」
「いや、別にそんなことはないけど。意外ではあったかな。倉田から恋愛の話とか聞いたことなかったし」
「それはお互い様。あんただってそういう話全然しないし」
ひろきが動揺することを予見していたのだろう。倉田は、ひろきが口を開きやすいように、質問を交えながら会話を進めてくれた。
ひろきは、いつも通り平然と倉田と会話を続けていたが、内心は今すぐここから消えてしまいたい、気まずい空気が流れる状況から離れたいと思っていた。
しかし、それには倉田の告白に何かしらの答えとなる終止符を打たなければならず、会話をしながら、どう答えを出すべきかを考えるという脳トレのようなことを行い、ひろきの心と頭は爆発しそうだった。
「断る」ということは決まっているのだが、どう断るべきか。倉田のことは恋愛の対象としてはいないものの、幼馴染で接しやすい友人、いや大吾と同じく親友と呼ぶに相応しい存在である。その関係を崩すような結果を招くことだけは避けたい。
とはいえ、明日工藤に告白する以上、嘘を吐くわけにはいかない。
倉田を振った後、もし、こっそり工藤と付き合うようなことがあれば、今まで倉田を騙してきたこととなり、バレた時に確実に信用を失うだろう。
もう正直に話すしかない。工藤が好きで、明日告白するのだと。
「ウチ、ずっと好きだった、中1くらいから。アピールはしてたつもりなんだけど、あんたに全然気付いてもらえなくて。一緒に文化祭実行委員やったら、ますます好きになっちゃってさ。あんたが気付いてくれないから、こっちからいくしかないかなぁって」
やはり、そこにいるのはひろきの知るいつもの倉田ではなかった。何というか、いつもの尖ったような声はとても丸く、やはり何もかもが小さく感じた。
「いいよ、今答えなくても・・・」
明らかに戸惑っているひろきに、倉田はそう声をかけた。
いや、今日答えを出さなければ、ひろきに明日はない。もう倉田に嘘偽りのない本音を伝えるしかなかった。正直、それで倉田がどんな反応を示すのか、恋愛初心者であるひろきには見当もつかなかったが、それでも今ここで伝える以外の選択肢はなかった。
「ごめん。実はさ、明日工藤に告ろうと思ってたんだ」
「え?」
「高校入学したばかりの時、工藤の話したろ?お前と話してたらさ、やっぱ工藤のことが好きなのかもって・・・。だから告るなら文化祭の日しかないって思い始めてさ。しかも帰りに、もう彼氏いるかもって言われて急に焦ってきちゃって・・・」
「・・・そっか。なんだ、やっぱり好きだったんじゃん」
倉田は笑顔でそう言い、ひろきの胸をパシッと軽く押した。その笑顔は、今できる精一杯の笑顔だったのだろう、少しばかり引き攣っており、ひろきのいつも見ている天真爛漫な笑顔ではなかった。それが悲しさなのか怒りからくるものなのかは定かではないが、どちらにせよ、その表情を目の当たりにしたひろきは、取り返しのつかない大罪を犯してしまったような罪悪感で心がギュウッと締め付けられたのだった。
「まあ、そうだよね。振られるだろうなとは思ってたんだ。小学校からの仲なんだもん、なのに今まで何もないってことは、そういうことだもんね。まぁでも、まさか明日なつに告るなんてね」
まさか自分がひろきの背中を押していたなんて思わなかっただろう。
「とにかく明日、まずは文化祭頑張ろう!それじゃ、ウチそろそろ帰るね、また明日!」
倉田はそう言って、ひろきのちゃんとした返事も聞かず、正門の方へと足早に歩き始めた。
小さくなる倉田の背中を見つめたまま、ただ茫然と立ち尽くすひろきに、この時期特有の湿度の乗ったぬるい風が吹いた。
駅で倉田と鉢合わせるわけにはいかず、ただ刻々と時が経つのを屋台の中で待っていた。
今のひろきに、工藤への告白の言葉を考える余裕などなく、かといって靄を晴らすような愉快なことを考えるでもなく、倉田と今後も上手くやっていけるのか、そのことだけが気掛かりで、そしてそれが心を痛めつけていた。
こういうことは、時間が解決するとは言うものの、数時間程度では到底解決するはずもなく、ひろきは日が暮れてやっと立ち上がり、駅へと歩き出した。
ひろきの目に映った街灯のみに照らされた薄暗い文化祭会場は、まるでひろきの心を表したような哀愁があった。
祭り日和という言葉が存在してもおかしくはないほどの晴天に恵まれた文化祭当日。倉田はクラスの誰よりも早く学校に到着し、ガスボンベの使用方法やヘラの本数を確認するなど、細々とした調整を行なっていた。
他のクラスの生徒もちらほら見られたが、未だ閑散とした空気が流れており、嵐の前、ではなく宴の前の静けさが何とも情緒的だった。
「よし・・・」
倉田は、スケジュールや配置図などが記載された、右上をホチキス留めした進行表を片手に、屋台内外をぐるぐると歩き回り、最終確認を終えた。
生徒の集合まで約1時間程の時間があり、それまで冷房の効いた教室で休むことにした。
1組の引き戸を開けると、昨日から籠ったままの熱気が、久しぶりの再会を果たしたかのように倉田に纏わりついた。
冷房のスイッチを押し、英気を養うため暫しの仮眠をとろうと、自分の机に座って顔を伏せた。
多忙な1日の束の間の平穏、これほどに生を感じる瞬間はないだろう。昨日から一仕事も二仕事も終えた倉田にとっては、特にそう感じられた。人間にはこの時間が必要なのだ。そう思いながら覗いた目蓋の奥は、真っ白な世界が広がっていた。
そして倉田は、伏せたまま静かに泣いていたのだった。
「おっすー」
ひろきは重たそうな目蓋をやっと開きながら、屋台に集まるクラスメイトと挨拶を交わした。バッグを地べたに投げ置き、昨日やり忘れていた鉄板の掃除とヘラの本数の確認をしようと、そちらの方に目をやった。
すると、整頓されたヘラが、綺麗に磨かれた鉄板上に並べられており、ひろきは眉を顰めた。
「あれ、鉄板とヘラの準備誰かやってくれた?」
「いや、やってない」
ひろきは首を傾げ、まあ良いかと別の作業に移ろうとした。
「あ、ゆうちゃん、おはよっ!」
丸めた進行表を持った倉田がクラスメイトと挨拶を交わしていた。パッと倉田と目が合ったひろきは、何だか心がどぎまぎした。
「おはよー」
「お、おっす・・・」
いつも通りだった倉田のテンションを、それはそれで不思議に思ったが、ひろきも慌てていつも通りを装い、気だるそうに挨拶をしたのだった。
「あ、ひろき。ヘラと鉄板、朝来たときに拭いておいたから」
「あ、ああ・・・。サンキュー」
倉田はいつも通り、淡々と用件をひろきに伝え、テキパキとクラスメイトに指示を出していた。その倉田の態度で、ひろきは自分が気まずい雰囲気を出してしまっていることに対して反省をしたのだった。
倉田が平然とした態度でいる以上、ひろきが変に意識した態度を取らなければ何も問題はないのだ。それに、そんな態度では、友人としての関係に戻っているとは言えない。
「倉田、先生のとこ行くけど、他に報告あったっけ?」
「いや、なかったはず。あ、さっき江島さんから連絡あって、体調不良で来られないみたいなんだけど、江島さんのシフトも入れる人いるかな?」
「そうなんだ。あとで確認しとく」
ひろきは、昨日の夕暮れ時以前の調子に徐々に戻っていた。まさか告白した女子と振った男子という関係だなんて、誰も思わないだろう。
そう見せないようにする、それが互いにできる精一杯の強がりだったのだ。
しかし、ひろきという男は憎いものだ。友人関係に戻れるというのは、振った側の意見なのであって、好意を寄せて告白した側の倉田にとって、ひろきは以前から友人などではなく、そしてもう友人になどなり得ないということを全く理解していないのだから。
学外にまで響き渡るワイヤレスアンプのハウリング。その不快音を気にも留めない幾千の人々が、青川高校を埋め尽くし、屋台、演劇、ライブ、巨大迷路、お化け屋敷、あらゆるチープなエンタメに胸を弾ませていた。
むんむんとした空気の中、ひろきは2本のヘラを大きく振りかぶるようにして肉野菜を炒めていた。濃いめの甘辛いソースの絡んだ肉野菜と少し太めの中華麺は、程よい褐色で照りがあり、いかにも不健康そうだが、夏で枯れ切った体には打って付けな最高の状態だと言わんばかりに鉄板の上で踊っていた。
エプロン、軍手、クラTの裾、首に巻いたタオル、至る所に跳ねた油とソース、そして汗にまみれながら、ひろきは一心に鉄板に向き合っていた。
「ひろき、もうストックがない。いつできそう?」
「もう焼ける。これで20食くらいはできるはず」
レジ係を務めていた倉田に急かされたひろきは、倉田の方へ視線をやることなく、首に巻いたタオルで額の汗を拭いながら単調な声でそう答えた。喋ることすら惜しいと思うほどに忙しく、ひろきはほぼ寡黙な職人と化していた。
午前中は、欠席の江島のシフト分もあり、ひろきは働き詰めだった。頃合いを見て麦茶を一口飲む以外の休憩はなく、ブラック労働さながらの厳しさだった。
「ひろき、交代!」
「うん、よろしく」
正午を少し過ぎると、次のシフトのクラスメイトと交代することができた。油とソースが血飛沫のように飛び散ったエプロンと軍手を、洗濯かごとして置いておいたポリバケツの中に投げ入れ、ペットボトルの麦茶を体に流し込んだ。
「ぶはぁっ!死ぬかと思った」
滞留した空気の中に居たからだろう。屋台の外へ出ると、30℃越えの気温にも関わらず、まるで冷房の効いた部屋へ帰ってきたかのような涼しい風に包まれたのだった。
「ありがとうございました!」
倉田は長蛇の列と対峙していた。捌けど捌けど変わらない景色。そして同じ言葉を反射的に繰り返していると、今自分が発しているものは言語なのだろうかという錯覚に陥る、そんな不思議な気分になっていた。
「ありがとうございました!こんにちは、いらっしゃいま・・・あれ?」
「よっ!」
「大吾!」
大吾が満面の笑みを浮かべて立っていた。翡翠ヶ丘高校の紋章の刺繍が胸ポケットに刻まれたワイシャツに、黒のスラックスという何とも学生らしい姿だった。筋骨隆々な胸筋と浅黒い肌は相変わらずだったが、坊主頭を初めてみた倉田は、多少の新鮮みを感じていた。
「久しぶり!」
「ホントだな!とりあえず、焼きそばひとつ!」
「了解!あ、菊池さん。ごめん、ちょっと席外すね!」
焼きそばがはみ出るほどパンパンに詰まった熱々のパックを大吾に手渡し、倉田は屋台の外へ出た。そして倉田は、積もる話に花を咲かせようと、焼きそばのパックとペッドボトルの麦茶を抱え、大吾と共に待合室となっている空き教室に入った。
「ふぅ〜涼しい〜」
「翡翠ヶ丘はどう?」
「楽しいよ。でも見てくれよこの頭。野球部は全員坊主とか突然言われてさ、聞いてないっての!」
「いいじゃん!あんた似合ってるよ。てか横田さん一緒じゃないの?」
「うん。緋谷高校さ、今日授業あるらしくてね。土曜なのに可哀想だよな。工藤と一緒に来る予定だったんだけど、電車遅延してるみたいだから先に来た。工藤と連絡取ってるか?」
「そっか。いや取ってないなぁ」
「何だよ、あんなに仲良かったのによ。たまには連絡してやれよ」
「うん、そうだね・・・」
「そんでこの焼きそば味濃いな!じいちゃんばあちゃんが食べたら頭の血管切れちまうよ!」
「ウチもそれは言ったよ。でもひろきがこれでいいってどんどん焼くもんだから。それもこれもひろき作だよ」
「まぁ、夏だから許される濃さかもな。ところでひろきは?さっき連絡したんだけど返事なくて」
「ああ、休憩入ったから着替えてるんじゃないかな」
「ん、噂をすれば何とやらってやつだ。ひろきと工藤から連絡だ。一旦正門で集ろうって。よし行くか!」
大吾は立ち上がり、ゴミ箱にパックを投げ入れて教室を出ようとした。倉田はそんな大吾を、制すように気弱な声で答えた。
「あ、ごめん。ウチはいけない・・・」
「ん、なんで?」
「あの・・・仕事抜けてきちゃったし」
「ああそっか。じゃ、また後で合流しよう!」
大吾はそう言って行ってしまった。
そんな倉田に今し方メッセージが届いた。
「ゆうちゃんお疲れ!今戻ったから、そのまま休憩入っちゃっていいよ〜!」
次のシフトのクラスメイトからだった。
待合室には倉田ひとり、冷房のゴーッという音が、いつもよりも騒々しく、鮮明に聞こえるような気がした。
「行けるわけないじゃん。はぁ、いいのかなぁ、これで」
そうして倉田は、年季の入った白でもグレーでもない無機質な天井を見上げたのだった。
程なくして、制服へと着替えを済ませたひろきは、正門に向かおうとしていた。大勢の人の出入りが激しく、さすがに靴箱から数歩外へ出た位置からでは大吾も工藤も確認できなかった。
ひろきが駆け足で正門へと向かう、すると見覚えのあるような、ないような、スマホをいじっている屈強な男の姿を確認した。
「大吾か?」
「おう、ひろき!」
「久しぶり!何だその頭!?」
「連絡取ってたから久しぶりって感じでもないだろ。えっと・・・頼むからこれには触れないでくれ」
「いや、触れない奴なんかいないだろ!?何で坊主のこと言わなかったんだよ」
「恥ずかしくて言えなかったんだよ!」
ひろきと大吾は中学生に戻っていた。
しかし、卒業してからも連絡を取り合っていた2人に、懐かしむ話題はなく、そして高校生活に関する新鮮な情報もあまりなく、話題はすぐに工藤のことに移った。
「工藤に会うの久しぶりだな」
「俺もだ。ギャルになってたらどうする?」
「そんなわけねぇだろ」
「いや、わかんないよ。黄里だよ?自由な校風で有名なんだから、頭のいいギャルの1人や2人いてもおかしくないでしょ。影響されてる可能性はある」
「・・・まぁ。でも連絡取ってたけど、そんな感じしなかったけどなぁ」
「ん、連絡取ってたのか?」
そんな話をしていると、大勢の人の波に乗って工藤はやってきた。少し息を切らし、着くや否や、すぐにお辞儀をして大吾に謝っていた。
半袖のセーラー服を彩る赤いセーラータイが風で静かに揺れていた。
「いいって!遅延なんだしさ!てかほんと久しぶりだな!」
「ほんと2人とも久しぶり!というか宮下くん、その頭どうしたの?」
「やっぱり工藤までこれをイジるか」
「だからおれ言ったろ?イジらないほうがおかしいって」
3人が揃い、大吾の話に花を咲かせていたが、4方位の世界で生きている以上、残りの方角が見えないということに違和感を覚えるのは当然のことで、話題はそちらへ向くのだった。
「あれ、ゆうは?」
「俺さっき会ったよ。仕事があって抜けられないって言ってた。屋台に行けば会えると思う」
大吾と工藤の会話を聞いたひろきは、本能的にその方角を向くことを拒もうとした。
工藤と倉田を引き合わせることは、決して良いことだとは思えない。その感覚がひろきの心にストップをかけたのだ。
他にもその要因はあった。ひろきはスマホで時計を確認した。この時間は倉田のシフトではなかったはずで、休憩時間であるにも関わらず、仕事だと言い、門へ来ないということは、4人で集まることを拒んでいるのかもしれない。
いや、大吾は会っていたのだから、ひろきか工藤、もしくはその2人を避けたいと思っているのだろう。
だとするならば、その理由は昨日のことしかない。
しかし当然ながら、工藤に倉田と会ってはいけない理由などあるはずもなく、そして倉田に告白されたことと、今日これから告白することを本人に言えるはずもなく、ひろきは黙って大吾と工藤の選択に従う他なかった。
「行ってみよ!ちょうどお腹も空いたし」
「さっき1パック食ったんだけど、足りないからもう1パック食べる!」
「さすが野球部だね!」
「まあね!でも味濃いから食った後汗かかないとな。おい、ひろき。あれ味濃すぎるぞ!」
「あ、ああ・・・そうだな・・・」
ひろきに2人の話を聞く余裕なんてあるはずもなく、上の空だった。
倉田と工藤の感動の再会と果たしてなるのだろうか、そのことで頭がいっぱいだった。ひろきは気まずい雰囲気になる方にベットしていた。だから、正門から屋台までの30メートルの道中、ひろきの足は鋼鉄のように重かった。
「あ、ゆう!」
屋台の奥で金庫のお金を確認している倉田の姿を確認した工藤は、勢いよく手を振った。
それに気が付いた倉田は、笑顔で工藤へと駆け寄った。
「なつ、久しぶり!」
ひろきと大吾は、2人の会話を近くで聞いていた。いや、ひろきはあまりの緊張で、ただ眺めていることしかできず、会話の内容は少しも入ってこなかった。
だが、2人の雰囲気が和やかに映り、安堵の表情をつくる程度のことは何とかできた。
倉田と工藤の会話が一段落すると、大吾が明朗快活な声と表情を見せた。
「なあなあ!4人で回ろうぜ!お化け屋敷とかあったぜ!」
「えー、私怖いの苦手だよ」
「4人で入れば大丈夫だって!」
「ごめん、ウチ行けないや!思ったよりもお客さん多くて、人足りてなくて。だから3人で行って」
大吾と工藤の会話に倉田は割って入り、手を合わせて謝ると、そそくさと屋台の方へと駆け足で戻っていった。明るいトーンだったこともあり、暗い雰囲気にはならなかった。強いていうなら大吾と工藤が些か残念がっていたくらいだ。
ひろきは、やはり避けられている感じがした。確かに屋台の前は長蛇の列だが、午前ほどではない。午後担当のメンバーが1人欠けても問題ないレベルだろう。なのに倉田は嘘を吐いた。
「ゆう、忙しそう」
「頑張ってるんだな。同じ実行委員なのに暇そうな奴がここにいるけど」
「うるせぇ。・・・まぁ、3人で回るか!」
ひろきは、2人の気を切り替えるような明るめの声を出し、2人はそれに釣られるようにして笑顔になったのだった。
ひろきと工藤は、子どものようにはしゃぐ大吾に振り回され、校内を右往左往し、息を切らしていた。それでも、3人で遊ぶことが久しぶりだったひろきは、時間を忘れて楽しんでいた。時折、視界に入る工藤の笑顔がひろきにとって癒しとなり、何だか永遠に動き続けられるような気がしたのだった。
「ゆう、ちょっと変わったよね」
「え?」
「さっき話してて思ったんだけど、落ち着いたというか、大人になったっていうのかな。前みたいに天真爛漫な女の子っていう感じがしないな〜って思ったの」
「そう?変わってないよ、今でも口うるさいし」
大吾が用を足している間、ひろきと工藤は2人きりになった。こんな状況、今までのひろきなら何てことはなかったはずなのに、急に脇からじわっと汗をかき始めたことに気が付いた。
「もしかして、好きな人でもできたのかな」
工藤の一言で、滝のような汗が全身から溢れ出た。そしてひろきは思い出した。
この感覚は、工藤が泣いた夏祭りの日、そして秘密の有無を確認された卒業式の日、あの時と同じだ。滝のような汗をかき、頭が真っ白になり、言葉が何も出てこない。
「・・・まさか・・・ははっ!」
沈黙の5秒後、頭をフル稼働させてやっと出てきた3文字と作り笑いだった。
「ゆうって誰にでもフレンドリーでモテそうだけどね。そういう話ってしない?」
「・・・しないね。お、お互い昔から興味もないし・・・」
「そっかぁ・・・」
「く、工藤はどうなんだよ。黄里で彼氏できた?」
「ううん。まわりの子たちは出来始めてるけど」
「・・・」
話の流れを崩さぬよう、ひろきは工藤に話を振った。
しかし、気が付けばその話題は、ひろきの今後に関わる根幹そのものであり、もし彼氏ができたなどという望まぬ返答があった場合どうするつもりだったのか。
勿論、今のひろきにそんな計算ができるはずもなかったが、とりあえず運よく彼氏がいないという事実を確認できたことで、少し心に余裕が生まれた。
「お待たせ。いや〜、焼きそば2パックとフランクフルト5本は流石に食い過ぎたかな。クソが止まらなかったよ!ハハハ!」
しばらくして大吾が戻ってきた。下からだけでなく、上からも下品なものを吐き出した大吾だったが、気まずい空気も洗い流してくれたおかげで、ひろきは救われた。
「おかえり。ちょっと私もお手洗い行ってくる」
大吾は濡れた手をブンブンと振り、ポケットに手を突っ込んだ。
「工藤と何話してたんだ?」
ひろきは大吾の問いに一呼吸おいて話し始めた。
「おれさ、今日工藤に告るわ」
「・・・え?」
「でもさ、昨日倉田に告られたんだ。で、おれは工藤が好きって言って振った。だから多分、おれらと一緒に回ることを避けたんだよ」
「は?何だよ急に・・・いや待て、マジかよ。倉田が?それにこれから告るって、随分と急だな・・・」
大吾は、淡々と並べられたひろきの言葉に驚愕しながらも、耳から入ってきたその情報を丁寧に咀嚼し、吸収していった。
「と、とりあえず分かった・・・」
そうして、何も知らない工藤と再び合流したのだった。
陽が西に向かってぐんぐん進み、気が付くと文化祭1日目を終えようとしていた。
「俺、ちょっと飲み物買ってくる!」
そう言って大吾は立ち上がり、待合室の扉から出ていった。出て行く直前、大吾はひろきの肩をガシッと掴み、夢を抱いた少年のような純真で力強い眼差しをひろきへと向けた。
それに対し、ひろきは小さく頷いたのだった。
待合室には相変わらず誰もおらず、冷房の轟音だけが響き渡っていた。
「工藤、あのさ・・・」
「ん、なに?」
「おれ、工藤のことが好きだ」
2人の間を、冷房の風がびゅっと吹き抜けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます