第4話 受験

 時は刻々と流れ、ひろきたちは3年生になった。ひろきが陸上部を辞めてから、何事もなく今に至る。

 いや、大吾と倉田は、辞める必要はないのではないかと公園でひろきを詰めた。その時、工藤だけは、静かにひろきを見つめていた。その表情は、どこか穏やかだった。

 ひろき自身は、自分でも恐ろしいと感じるくらい、その選択を後悔してはいなかった。


 3年生ともなると、やはり周囲の空気は変わっていた。そう、受験を控えている。変わらないのは、大吾と倉田と工藤とまた同じクラスということくらいだ。

 ゴールデンウィーク直前のクラスは、呑気にはしゃいでいる奴らと、塾の夏期講習をどうするか的な話をしている奴らの半分に割れた。大吾は前者、倉田と工藤は後者で、ひろきはその割れ目に挟まっていた。

 ひろきは3年生になってから塾に通い始めた。お前は行かないとマズイだろうと両親から背中を押され、いや、尻を蹴られ、渋々通うようになった。

 受験とはいっても、ひろきにとって志望校なんていうものはなく、心底どうでも良いという精神が故に、目的のない勉強を強いられているだけだった。お気楽と言われればそれまでだが、大吾も割とそれに近いところがあった。

 しかし唯一異なるのは、大吾の場合、どうでも良い精神でも構わないということだ。大吾にはスポーツ推薦があった。それで引っかかる高校があれば、どこでも良いと考えていたのだ。大吾は、1年生の時から、あらゆる大会で選抜メンバーを務めていた。スポーツ推薦が通用しない理由がなかった。学力が普通より少し低いのがネックではあったが、ハキハキと話す、いわゆる体育会系男子であるので、面接は間違いなく通るはずだ。


 倉田と工藤は、言わずもがな成績優秀であるから、偏差値の高い高校へ行くのだろう、ひろきはそう思っていた。2人は同じ進学塾に通っていて、特進クラスで勉学に励んでいることを聞いていた。

 偏差値60以上の学生だけが集うクラスらしく、それを聞いたひろきは、自分よりも上位の人種が集まるクラスとはどんなものなのだろうと想像しようとしたのだが、あまりにも無関係すぎて、何も浮かばなかった。


 そんなこんなで頭をいっぱいにしながら板書を取っていたひろきは、あまりにも自分の進路に関心がないことに多少の焦りを感じ、他人の意見を参考にしようとした。

「お疲れ。志望校ってもう決めた?」

 ひろきは塾からの帰り道、倉田と工藤に同じメッセージを送った。

 夏祭り以前の関係性を思うと不思議なのだが、ひろきは工藤と普通に連絡を取り合うようになっていた。これまでのひろきは、倉田を介して工藤と連絡を取っていたが、夏の合同コンサートの時に、工藤から連絡先を聞かれ、交換した。そこから大吾や倉田と同じく、何気ないことでも連絡を取り合っている。


 ひろきにしてみれば、これで工藤の機嫌を直接伺うことができるようになり、願ったり叶ったりだと思う反面、倉田を介さない以上、工藤を殺すも生かすも、完全に自分次第な状況を作り出したとも言えるので、多少複雑な心持ちではいた。

 この反面が、強くひろきの心中に広がっていったのは、受験があるからだ。夢の中でその子が言っていた人生の壁の代表例とは、まさにこれだろうと思った。今はまだ心配ないだろうが、模試の結果はどうだったかとか、落ちたか受かったかとか、気楽な感じで踏み込もうものなら、あっという間に死んでしまうに違いない。その恐怖が常に付随しているということは分かっていた。


 倉田からはすぐに返信があった。

「お疲れ〜。決めたよ。黄里高校を目指す!」

「なんで?」

「公立で学費も安めだし、部活も盛んだし。それに制服も可愛いから」

 黄里高等学校。倉田の言う通り、部活が盛んでおまけに校則も緩い偏差値70の超人気公立高校だ。陸上部の先輩たちも、数人が黄里高校に入学していたので、もちろんひろきも知っていた。


 それよりも理由だ。

 公立高校で学費が安い、これは良いだろう。親に金銭的な負担をかけたくない、なんと親孝行なことだろうか。

 しかし、部活も盛んで制服が可愛い、これに関しては他の高校も同じだろう。なのに何故、黄里高校なのか、ひろきはそれが知りたかった。実際にそれを知りたいのは、ひろきよりも黄里高校の校長だと思われるが。

 ひろきは時折、捻くれた性格を剥き出しにしてしまう。そして、相手が倉田であることも相まって、今思ったことをそのまま倉田へとぶつけてしまった。

「部活が盛んで制服が可愛い高校なんて、他にも腐るほどあるじゃん」

「そりゃそうだけど。偏差値の高い高校行けば、将来安泰そうじゃない?」

 将来の安泰とは何なのだろう。人生の半分にも到達していない中学生のひろきには、当然ピンとこなかったが、安泰そうという抽象的な言葉を返してきた倉田にもまだ、それは分かっていないのだろうと思い、それ以上掘り下げようとはしなかった。

「なんかイマイチ分からないんだよなぁ」

 ひろきは夜空の下で1人、ポツリと呟いた。


「ちなみに、なつも黄里を受けるらしいよ!」

 ひろきは、工藤本人からの連絡を前に、ネタバレを食らった。ひろきにとってそれはどうでも良かったのだが、相変わらず事あるごとに工藤の名前を出す倉田のいやらしさに嫌気が差していた。しかも、ここ最近でその回数がどっと増えた。ひろきは無視をしようとしたが、こちらからの質問に答えてもらった恩を多少なりとも感じていたので、そうもいかなかった。

「そうなんだ。工藤にも連絡したから、とんだネタバレだよ」

「それはごめん!でもどうすんの?このままだと卒業して離れ離れだよ?あんたが黄里受かるとも思えないし」

「だから、別に何でもないんだってば」

「ああそう。ひろきって昔からほんと素直じゃないよね」

「違うもんは違うもん」

「分かった分かった。ウチは言ったからね!」

 一通り倉田とのやり取りをしながら帰宅したひろきは、風呂と食事を済ませて部屋へと入った。


 何だかリフレッシュできていない、もやもやとした感じがあった。

 ひろきはその理由がすぐに分かった。

 工藤に関して揶揄われたからではなく「黄里に受からない」という言葉を吐かれた所為だ。

 ひろきは自覚していた。部活をするか家でゴロゴロするかの2択のような生活を送ってきたひろきにとって、勉強というものはほぼ無縁だった。倉田や工藤のような学力は当然ない。3年生になった初月に受けた学内の模擬テストの結果では偏差値50前後、平凡中の平凡。偏差値70なんていうのは、王か神しか到達し得ない領域に思えた。


「お疲れさま。ごめんなさい、塾だったから返信遅れちゃった。黄里高校かなぁって思ってるよ。高橋くんは?」

 ベッドの上で、倉田の言葉に悶々としていたひろきだが、工藤の返信でさらに悶々とするのだった。

「おれは・・・どうしよう・・・」

 方向性が定まっていないのだが、工藤からの返信ということもあり、無視をすることができなかった。高橋くんから返信がなかった、なんてことで絶望することはないだろうが、ここで何も返さないのは人間として絶望的だと思い、何でも良いから早く返そう、ひろきはそう思っていた。


 やはり倉田の言葉が胸に引っかかる。そして、引っかかる理由に朧げながら心当たりがあった。

 ひろきは部活に生きてきた人間、それを失った今、頑張るということを忘れていた。目標は何だって構わないが、とにかくがむしゃらに頑張るという行為をしていないことも、もやもやとする原因だったのだ。

 そう考えているうちに、黄里高校を目指すことは良いこと尽くめな気がしてきた。倉田を見返すことができるのは勿論のこと、倉田の言う通り、卒業すると工藤と離れ離れになる。そうすると、気付かぬうちに死んでしまうなんてことが起こりかねない。

 もし、テストを拾った時の関係性のまま今まできていたら、卒業とともに工藤のことなど忘れてしまおうと思っていた可能性がなきにしもあらずだったが、夏祭りや合同コンサートを通し、連絡を取り合うまでの関係性になってしまった今となっては、どう考えても見捨てるなんて愚行に走ることはできなかった。


「おれも黄里高校を受けるよ」

 ひろきは腹を括った。工藤にそう返信してしまった以上、もう引けなかった。男に二言はない、男というものをまだ知らない小童が、そんな少年誌の不良漫画のセリフのような心意気を示したのだ。

 兎にも角にも、夏の模試までに基礎を固め、受験直前の冬の模試で黄里高校合格ライン、これが達成事項だ。

 ひろきはとりあえず、本棚にある教科書を全て引っ張り出し、机の上に並べたのだった。


 実に単純な子である。負けず嫌いが高じてモチベーションとなり、今までろくに取り組まなかった勉学に精を出そうとしているのだから。

 ただ負けず嫌いという燃料だけがひろきを走らせているわけではなかった。もうひとつの特殊な燃料もまた、ひろきを加速させていた。


「そうなんだ!一緒に頑張ろうね!」

 この男の一言に、工藤はそう返信したのだった。倉田とは違い、素直に受け入れる工藤の言葉は、ひろきの背中を強く押した。

 しかし勉強と呼べるものといえば、教科書のテスト範囲をペラペラと捲り、ノートを取る程度のことしかしてこなかった。

 ひろきは、何から始めたら良いのか見当もつかず、机の前でぼーっとしていた。


 みんなは何をしているのだろう、それがすぐにひろきの頭を過ったのが幸いだった。ひろきは、とにかくみんなの真似から始めようと、探りを入れることにしたのだ。

 まずは大吾。自分と同じく、勉強とは無縁の人間だから参考にならない。では倉田はどうだ。実は倉田には、あのやり取りの後、黄里を目指すことを告げた。案の定受かるわけがないと馬鹿にされ、敵対心を抱いてしまっている手前、勉強の仕方を教えてほしいなどと遜る姿勢を取ることはプライドが許さなかった。

 となると、ひろきに残された頼みの綱は、工藤しかいなかった。


「変なこと聞くけどさ、受験勉強ってまず何から始めればいいの?」

 ひろきは、黄里を目指す人間とは思えない頓珍漢なメッセージを工藤へと送った。恐らく工藤もそう思ったはずだ。倉田なら間違いなく、涙を流した大笑い絵文字をスマホ画面いっぱいに送ってきたと思う。しかし、そうしないところが、やはり工藤の懐の深さを物語っていた。


「私は参考書を買ったかな。これとこれがおすすめ!」

 工藤の参考書の写真は、恐らく3年生になってから買ったものだと思われるが、5月の段階で既に年季が入ったような皺が所々に見受けられた。合同コンサート以来、久しく触れていなかった努力というものを、ひろきは垣間見た気がしていた。


 その後、工藤おすすめの参考書を駅近の本屋で手に入れたひろきは、ひょんなことから工藤と勉強する計画が立ち、焦りを感じていた。

 少しでも黄里に受かりそうな素質を示そうと、その日まで参考書にひたすら目を通した。

 日時は明後日、ゴールデンウィークの中日。市民会館の学習スペースで行うことになっている。

 勿論ひろきと工藤の2人で、なんてことはない。倉田と大吾にも声をかけた。しかし、倉田は塾の講習と被っているらしく、断られてしまった。そして理由はよく分からないが、大吾は顔を出したいらしく、来ることになった。

 こうして受験勉強三銃士、いや、歩兵のひろきと大吾は、将軍の工藤に仕える形となった。



「ごめん、お待たせ」

 入り口の自動ドアが開くたびに流れ出る、程よい冷気を浴びながら談笑している工藤と大吾に、ひろきは額に軽く汗をかきながら頭を下げた。

「お前、相変わらずだな。どうしたんだよ」

「寝坊した」

「たった5分だし、大丈夫だよ。暑いし中入ろう」

 3人は軽い会話をした後、受付を済ませて市民会館2階にある学習スペースへと入り、適当な席に着いた。


 数人の学生らしき若者と、本を読んだり居眠りをする老人がちらほらいたが、閑散とした印象を受ける程度には空いていた。

 異常気象なのか、5月であるにも関わらず、

 この日は29℃もあり、季節はずれの暑さに体が驚いていた。

 電気代を節約できる避暑地として適したこの場所に目をつけた人々が出入りを繰り返す中、3人はペンケースや教科書を出すなど勉強の準備を始めた。

「ところで大吾、スポーツ推薦だから勉強する必要ないって言ってなかったか?」

「そう思ってたんだけどさ、どうやら軽い学力テストはあるらしくて、それで落とされたって先輩が何人もいるみたいでさ」

「スポーツの実績だけじゃねぇの?」

「面接と実技試験がメインではあるらしいけどね。全く勉強ができないっていうのはダメみたい」

 ひろきと大吾は周囲に気を遣い、ヒソヒソと話した。大吾にとって、工藤から勉強を教わる会は、この上ない機会だった。

 それはひろきにとっても同じだ。


 だが改めて考えると、大吾が来られなかったとしたら、多少の気まずさを感じていたに違いなかった。

 工藤にマンツーマンで教わるなんて機会は稀有ではあるが、何だかカップルに見られそうだという、思春期にしか持ち合わせない羞恥心の所為で、勉強に身が入らない恐れがあった。

 もしかすると倉田は、本当は塾で忙しいからではなく、2人になることを狙って誘いを断ったのかもしれない。しかし、大吾という無神経な少年のおかげで倉田の思惑通りにならず、ひろきは救われたのだ。

 恐らく、それを知った後の倉田に、大吾はこっぴどく責められるのだろう。


 ひろきと大吾の2人は、国語の読解問題から教わることにした。小学生のように、問題に対して駄々を捏ねる大吾に、温和な工藤先生は懇切丁寧に教えていた。

「なぁ工藤、この4択さぁ、どれも正解に見えんだけど。マジで意味分かんねぇ・・・」

「確かにね。でも(2)の文章は不正解だって分かるよ。本文が『しかし』から始まってるでしょ?逆説だから問いと反対のことを言ってる」

「あ、ほんとだ!」

 3人は横並びで座り、工藤はひろきと大吾の間に入った。

 特進クラスのテキストを広げ、工藤は自分の勉強を進めながら、ひろきと大吾に勉強を教えていた。しかし、ちょっとのことで躓くひろきと大吾を相手にしなければならず、工藤はテキスト1ページ解き終えるのに、かなりの時間を要していた。

「高橋くん、国語得意なの?」

「いや、全然。何で?」

「この問題よく解けたね!私間違えちゃった」

「ああ、これ。工藤がおすすめしてくれた参考書に同じような問題あってさ、それで分かったんだ」

「すごい!もうそんなに読み込んだの!?」

「読み込んだってほどじゃないけど、パラパラって目は通したよ」


 ひろきは嘘を吐いた。この日までに何度解き直しをしたことか。何なら、黄里に受かりそうな素質を示すのなら、これではまだ足りないくらいだ。少なくとも、大吾に教えられるくらいにならなければ、倉田が自分に対する認識を改めることはない、ひろきはそう思っていた。

 しかし、工藤の目はガラス玉のようにキラキラとしていた。まるで、純粋に尊敬だけを表しているようだった。そんな工藤の表情で、ひろきは不思議と満足感を得ていた。

 工藤の後ろで、ひろきに奇妙な微笑みを向ける大吾の表情が気になったが、それは無視をしたのだった。



 それからひろきは、倉田を含めた3人と放課後や休日に時折集まり、勉強会を開いた。大吾は横田からも教わっているようで、彼女には気を遣い、4人で集まっていることは話していないらしい。横田はもう気にしていないだろうが、倉田とのいざこざの過去を考慮し、少しばかりの疾しさを感じながら、秘密裏に勉強会に顔を出していた。

 そんな健全且つ勤勉な浮気の甲斐あってか、大吾はメキメキと学力を向上させ、これまでは赤点まみれで散々だったが、先日の小テストでは全科目平均点前後だった。これにはひろきも仰天した。

 スポーツ推薦を受ける大吾は、入試が9月から始まり、年内には終えるスケジュールで、他の受験生と比較して最も早い。5月末の段階で、この程度の学力を身に付けたのなら、受かったも同然だろう。



 そうこうしているうちに、あっという間に7月中旬、夏休みに突入し、ひろきは4人の勉強会だけでなく、塾の夏期講習にも勤しんでいた。この頃になると、馬鹿にした倉田を見返したいなどという幼稚な理由ではなく、倉田と工藤、勉強会で切磋琢磨した同志と共に受かりたいと思うようになっていた。

 部活が盛んで制服が可愛く、将来安泰そうという理由に微塵の魅力も感じないひろきにとっては、そんな理由が黄里に受かりたいというモチベーションになり得たのだ。


 それに、陸上部を辞めて以来、褒められることがなかったひろきにとって、あの時の工藤の眼差しと声色は心に沁みていた。恐らく、どこか工藤に尊敬されたいという欲も多少はあったのかもしれない。

 ひろきは、冷房の効いた部屋で黙々と過去問を解き進め、最後の問題の回答を終えると、時計を確認し、深呼吸をした。

 採点の前に一息つくことにしたひろきは、ペンを回しながらふとベッドの方へと視線をやった。


 しばらくあの夢を見ていない、その子はどうしているのだろうか。そんな心配が頭を過った。そもそも夢であり、実在する子どもではないのだから、その心配は無意味なのだが、工藤と仲良くなり、切磋琢磨している現状というのは、間違いなくあの子、いやその子が導いたものだ。心配というか、どちらかというと感謝のような感情をその子に対して向けている気がした。

「次に会うのはいつだろう・・・って言ってたっけ。ってことは、また会うんだよな」

 楽しみなようなそうでないような複雑な気分でもあった。何故なら、ひろきと工藤の仲を取り持ったというのは結果的にそうなっただけであり、工藤が死ぬという脅迫をしてきたことに変わりはなく、更にそれが真実なのかどうかも分からない。

 あの夢を見てから、気が付くと1年以上経っている。そして肝を冷やしたのは去年の夏祭りの1度だけだ。

「ほんとに死ぬのかな・・・まぁいいや」

 真偽に興味はあるものの、工藤を絶望の淵に立たせて殺す以外に確かめようがなく、勿論そんな愚行ができるはずないので、ひろきは切り替えるように机に向き直り、答え合わせを始めたのだった。



 そんなひろきに悲劇が訪れたのは、1ヶ月程先のことだった。

 この日ひろきは、地元にあるキャンパスの講義室のような場所にいた。緊張からだろう、貧乏ゆすりをしながら、意味もなく周囲をキョロキョロと見渡していた。


 夏の模擬試験の日だった。受験生はこの模試で今の実力を測り、その結果で志望校を明確にしていく。受験直前に冬の模試があるため、一喜一憂するにはまだ早いのだが、それでもやはり夏のうちに安泰な成績を叩き出し、安心感を得たいと思うのは当然のことだ。

 人間の祖先が「備蓄」という術を身につけていたことを考えると、これは人間の性というやつなのだろう。今のうちに志望校に受かる程度の学力があると分かれば、冬までに焦って備蓄する必要がなくなるのだから。


 この会場には、倉田と工藤、そして大和と康二もいるはずだ。しかし、広大なキャンパスで、受験生は20近い講義室にそれぞれ振り分けられたため、ひろきがいる講義室内に4人の姿はなかった。

 緊張でより心細さを感じたひろきは、試験の待ち時間で誰かに連絡を入れようと、スマホを取り出した。同じことを考えている奴がいるのではないかと画面を開いたが、メッセージは1件も来ていなかった。

 ひろきは、何だかその画面が、みんなのペースを崩すようなことはするなという警告を暗示しているように思え、すぐにスマホの電源を落とした。



「それではペンを置いてください」

 試験監督の一声と同時に、受験生たちはカラカラと音を立ててシャーペンを片し、答案用紙を裏向きにしてじっとしていた。

 非常に長かった。もう最初の科目だった英語の出来がどうだったかなんて覚えていない。振り返る余裕がない程の疲労感を得ていた。

 ひろきは、果てしない時間使い続けた脳をとにかく休ませたい、それしか今は考えられなかった。


 帰宅すると、まずベッドに頭からダイブした。枕に顔を押し付けて視界を真っ暗にすると、ジワジワとみんなのことが気になり始めた。

「みんな、どうだったかな」

 そうして、スマホの電源を入れないまま帰宅したことに気が付いたのだった。

 しかし、誰からも連絡は来ていなかった。

 やはりみんな気を遣っているのだろう。このタイミングの答え合わせというのは、天国と地獄を同時に味わうようなもので、みんなと同じ回答で快楽を得られたかと思えば、自分だけ回答が違うという苦痛を味わう。これの繰り返しなのだ。天国があるから、みんなに聞きたいという欲が出るのだが、地獄があることを知っていて自制する。ひろきを含め、全員が今その戦いの最中だった。

「お疲れ。ねぇねぇ、数学の大問2の(3)って、答え53だよね?」

 どうやら康二だけは敗戦したようだ。



 1週間後、塾での授業後、ひろきは未開封の模擬試験の結果を受け取った。同じ教室内にいた他の中学校の受験生たちは、待ってましたと言わんばかりの勢いでその場で破り開け、何とも言えない渋い顔を浮かべる者と、分かりやすいほど晴々とした顔を浮かべる者とに分かれていた。


 ひろきはその場で確認することなく、荷物をがさつにバッグに入れて席を立ち、いつもより若干の早足で帰路についた。その場で開けても良かったのだが、結果に対する反応というものを、なるべく周囲に見せたくない性分であるひろきは、1人で落ち着いて確認したいと思ったのだ。

 その性分の所為で、あの教室で唯一結果を知らない人間、天国と地獄の狭間でやきもきすることとなってしまったことは多少悔やまれるが、それも時間の問題、しかも、ものの15分程度の話、問題なく耐えられた。


 帰宅したひろきは、汗でぐっしょりと濡れたTシャツを床に放り投げ、上裸のまま結果の入った封筒を開けた。

 その結果に、ひろきは救われることとなる。



 8月末、夏休み最後の勉強会のため、ひろきは市民会館を訪れた。

 大吾が先に着いており、入口前の小階段を椅子代わりに、うちわを扇ぎながら日陰で涼んでいた。

「おっす」

「残念だったな、都大会」

「まあ出られただけで良かったよ。3年間で都大会まで行けたのは、今回が初だったし。忙しいのに応援ありがとな」

 野球部は今夏、都大会の出場が決まり、夏休みは大忙しだった。3年生である大吾にとって、実質この都大会が引退試合となった。結果に納得しきっていなかったものの、大吾の顔は清々しく、それは次世代に全てを託した先輩として鏡のような面構えだった。


 ひろきは夏期講習の合間を縫って大吾の応援に行っていた。この経験は実に有意義なものとなり、その後の勉強に、より身が入った気がした。幼馴染の大吾が、熱心に野球に取り組む姿というのは何度も見てきてはいるが、中学生としての最後の試合ということもあり、何か感慨深いものを感じていたのかもしれない。

 バッターボックスに立つ勇敢な戦士の、顔つきとバットを構える姿は、今でも記憶に焼き付いていた。

「ところでお前、模擬試験の結果どうだったんだ」

「ん、あぁ。それが・・・」


「ごめん、お待たせ!」

 大吾とひろきの会話に割って入るように倉田が到着した。ノースリーブにステテコという、いかにも部屋着と呼ぶに相応しいラフ中のラフな格好で来た倉田は、切らした息を整えていた。

「珍しいな、寝坊か?」

「まあね。昨日勉強しながら寝落ちしちゃって、気づいたら朝だった。寝落ちとか久しぶりにしたかも。あんたはいつもしてるでしょうけど」

「最近はしてねぇよ。少なくともおれは寝落ちして遅刻しても、着替えはするよ」

「これは、その・・・うるさい!」

 ひろきと倉田のいつもの小競り合いを微笑ましく眺めていた大吾は、唐突に口を開いた。

「あれ、工藤は?遅くない?」

「確かに。こういう時1番に来るのにね。連絡もないし。ひろきにも連絡来てない?」

「うん、来てない」

 隕石が落ちて地球が滅亡するのではないか、そう思う程に珍しいことだった。こういう集まりでは10分前にきっちり到着するタイプで、当然、学校にも遅刻してきたことはない。そんな工藤が、このずぼらな3人よりも遅いなんて、信じがたいことだった。

「なつも寝坊かな?」

「そんなわけねぇだろ、工藤だぞ?お前と一緒にすんなよ」

「そんなの分からないじゃん!」

 倉田はひろきを膨れっ面で睨みつけた。すると大吾が立ち上がり、尻を叩きながら2人を少し小高い位置から見下ろした。

「とりあえず暑いし中入ろう。工藤には先に中にいるって連絡入れてさ」

 大吾はそう言うと、入口の自動ドアの方へスタスタと歩いていった。

 ひろきはすぐに工藤に連絡を入れ、そして倉田と共に大吾の後を追って中へと入った。



「ねぇ、ひろき。結果どうだった?」

「ん、まあまあかな」

「見せてよ!」

「そっちが先に見せろよ。こういうのは言い出しっぺが先に見せるってのがセオリーだろ」

「・・・まあそうなるよね」

 倉田は都合が悪そうに苦笑いを浮かべ、渋々バッグから封筒を取り出した。そして、意を決したように少し溜めてから、ひろきたちの前に結果を広げて見せた。


「おま・・・すごくね・・・?」

 ひろきは度肝を抜かれたように、少し怯んだ。大吾は初めて目にした紙切れを、不思議そうにまじまじと見つめていた。

「偏差値たっか!・・・てか偏差値って何だっけ?」

「黄里志望だし、これくらいはね。でも見てよ、黄里の合格率65パーセントだって。壁は高いね」

 ひろきは驚いたものの、成績優秀者である倉田だから当然のことかと納得した部分もあった。自分のように、ここ数ヶ月で勉強に力を入れ始めたのではなく、入学当初からずっと真面目に取り組んできた成果の賜物なのだと。

 しかし、倉田の言う通り、そんな倉田ですら合格率65パーセントとは、黄里高校というのは相当な絶壁のようだ。

「ほら、ウチは見せたんだから、あんたも見せなさいよ」

「分かったよ」

 そう言うとひろきは、バッグから封筒を取り出し、テーブルの上に投げ置いた。倉田は、腹を空かせた池の鯉のように封筒に飛びつき、目を輝かせていた。

「え、あんた・・・」


「あれ、工藤から連絡だ」

 ひろきは、すぐさまメッセージを確認した。

「『ごめんなさい。今日行けなくなっちゃった』だってさ」

「なんかトラブルか?」

「分かんない、理由は特に書いてない」

「きっと寝坊だよ。なつのことだから、初めての寝坊に驚いて、どうしていいか分からなくなったんじゃない?学校も遅刻したことないし、今年は今のところ皆勤賞だしさ」

「だから、お前と一緒にすんなよ」

 ひろきはとりあえず「了解」とだけ送り、工藤が来ないのならと、3人は早速勉強をし始めたのだった。

 過去問を解いたり、大吾に教えたり、昼食は各自持ってきた弁当を食べ、時間の許す限り学習スペースに居座った。



 帰宅したひろきは、湯船に浸かっていた。夏場は暑くてシャワーだけで済ませていたひろきだが、勉強で疲れた頭をリフレッシュできるからおすすめだと言う倉田の言葉を信じて実践してからハマってしまい、既に2週間以上続く日課となっていた。

 湯船に浸かったひろきは、勉強のことを頭から消し去り、じっと目を閉じた。すると、血流が良くなったからだろうか、頭の片隅に追いやられていた情報が、ぐんぐん流れ込んできた。

「そう言えば、工藤は何で来なかったんだろう。遅れるならもっと早くに連絡をよこす奴なのに。理由も言ってなかったな。何かあったのかな。いや待てよ。何かの所為で来られなかったとしたら、大問題なんじゃないか?こんなイレギュラーなことが起こったのに、放置してていいのか?もしかして、工藤は死んでしまったのではないか!?」

 最近のひろきは勉強することだけに心と頭を向けており、工藤と夢のことがすっかり抜け落ちていた。

 湯を浴槽から半分以上流す勢いで慌てて飛び出したひろきは、身体を充分に拭かず、水滴まみれの背中のまま、パンツだけを履いて部屋へと戻った。そしてスマホを開き、勢いに任せて工藤に電話をかけた。

「おい、出ろ・・・。出てくれよ・・・」

「ブッ・・・」

「おい工藤!工藤っ!」


「もしもし、高橋くん?大声なんか出してどうしたの?」

 あっけらかんとした落ち着いたトーンの工藤の声だ。ひろきは、吸い込まれるようにその場に座り込んだ。

「何だよ・・・」

「どうしたの?急に電話なんてかけてくるからビックリしちゃった」

「い、いや・・・。今日どうしたのかと思ってさ・・・。メッセージ打とうとしたんだけど、間違えて通話ボタン押しちゃったみたいで・・・ハハッ・・・」

 一瞬、本能のままに怒鳴りつけようとしたが、夢のことも何も知らない悪意のない相手であるということがすぐに頭を過り、即席の出任せを、今できる精一杯の半笑いで吐いた。

「・・・そう、ありがとう」

「・・・何かあった?」

「本当にごめんなさい。実は、模擬試験の結果が思ったより良くなくて、それで志望校どうしようかとか、改めて独りで考える時間が欲しくて・・・」


 工藤は細い声で素直に打ち明けてくれた。工藤の話では、思ったより良くないと言うものの、黄里高校の合格率は倉田と同じ65パーセントで、総合得点が倉田より少し低い程度、偏差値はさほど変わらない。しかし、自分の目標を高く持っているが故、ショックが大きかったのだろう。

 気持ちは分からないでもないとひろきは思った。自分も陸上の大会で自己ベストを出したものの、練習時の方が好成績だったなんてことがあり、素直に喜べないどころか、むしろショックだったと回想しながら話を聞いていた。

「でもゆうが、同じ合格率だけど黄里受けるから、あんたもそのまま頑張れって、高橋くんも隣で頑張ってるよってメッセージくれて」


 ひろきが工藤にメッセージを送った後、どうやら倉田も心配のメッセージを送っていたらしく、倉田と同じくらいの成績だということは把握していた。

 ひろきは、もしかすると、また倉田に救われたのではないかと思い、今度ジュースでも奢ってやろうと心に決めたのだった。

「そっか。倉田の言う通り、一緒に黄里受けよう」

「・・・そうだね。そうする!3人で黄里行こう!」

 工藤の声は、徐々に明るく透き通った声に変わっていった。


「高橋くんは、どうだったの?」

「ん、ああ・・・おれは・・・」

 ひろきは一瞬躊躇したものの、電話という岸壁に立たされたような逃げ場のない状況に置かれてしまっている以上、恥ずかしいことは承知で打ち明けるしかなかった。

「成績は格段に上がったけど、全然ダメ。黄里の合格率30パーセントだって」

「え、すごくない!?じゃあ偏差値60くらいはあるってことだよね?すごい成長率だよ!このまま頑張れば絶対いける!よし、私も頑張ろ!」

 工藤の言葉は、昼間に倉田が言っていたこととほぼ同じだった。2人ともお世辞なのか分からないが、とにかくハイテンションを纏わせたような言葉をひろきは浴びたような気がした。本心なのかもしれないが、少なくともひろきには、あまり心地良いものではなかった。


 というのも、ひろきは釈然としなかった。それは、倉田と工藤、2人とも既に合格率65パーセントであること、しかも成績優秀者の2人が、これだけ頑張っても現状その域に達するのが限界であるということが分かったからだ。

 これはひろきにとって大ダメージだった。黄里に受かるどころか、到底2人に追いつけそうにもない。

 2人に追いついて黄里に受かるというのは、恐らくタイムを5秒縮めるのに相当する労力になるだろう。ほぼ不可能と言っても過言ではない。


「まぁ、頑張ってみるよ・・・」

 ひろきはそう言って、工藤との電話を切った。工藤に褒められたのだが、素直に喜べなかった。

 工藤は、倉田のおかげもあるが、ひろきの模試の結果によって心の靄を晴らしたようだ。

 工藤を殺さずに済んだという意味では、ひろきは救われたのだろうが、この結果では自身が救われたとは到底思えなかった。



「よっ!どうよ、調子は」

「おす。普通だよ。この時期は億劫で嫌いなんだけど、今年はそうも言ってらんなくて、余計に億劫だよ」

「もうそろそろだもんな。ま、気持ちは分かるよ。おい、外見てみろよ」

「さっきより酷くなってるじゃん。これ豪雪だろ」

「1月にこんな雪が降るなんて、俺たちが生まれてから初めてじゃないか?」


 1月上旬。冬休みが明けて数日経った頃、例年より少し早めに雪が降り注いでいた。降り注いだなんていう神秘的な様子ではなく、膀胱にパンパンに溜まった尿を、我慢の限界で撒き散らしたような、そんな勢いだった。さぞ空は気持ちが良いだろうが、受験を控えたひろきにとっては、雪にはしゃぐ余裕はなく、頼むから受験日に交通を乱すという邪魔だけはしないでほしいと切に願うばかりだった。

「お前はもう気楽なもんだろ?」

「まあな。期末テストの結果は見せるようにって言われてるけど、別にもう落とされることもないだろうし、それにみんなが教えてくれたおかげで赤点はないから問題ない」

 大吾はスポーツ推薦で昨年内に受験というものを終わらせていた。無事、翡翠ヶ丘高校に合格し、周囲からチョコやグミなどのお菓子を大量に渡され、そんな粗いお祝いに大吾は満足げな表情を浮かべていた。


 次は、ひろきたちの番だ。今週末に控えた冬の模擬試験で黄里を受けるか、それとも諦めざるを得ないのかが決定する。模擬試験の後は、間髪入れずに私立高校の受験も控えており、ひろきたちにとって1月と2月というのは、これまで生きてきた中で、最も忙しい時期となる。


 ここ数ヶ月、4人が勉強会で集まることはなく、つまり校外で会うことはなかった。いつしかみんな気を遣い、集まろうと誰も声を上げなくなっていた。

 特にひろき、倉田、工藤の3人は志望校が同じで、勉強会では戦友だが、受験ではライバルでもある。気を遣うというのは建前で、人知れず闘志を燃やし、最後の追い込みをかけたいと気張っている証拠なのかもしれない。

 とはいえ、冬の模試の後に集まる約束はしており、それが恐らく最後の決起集会的なものになるのだろう。


 模試も受験も卒業も迫り、それを分からせるかのように寒さも厳しくなり、ひろきは身体も心も強張っていた。

 何だか、春という出会いと別れの季節の前触れをひしひしと感じさせられているような、そんな気がしていた。

 だからなのかもしれないが、情緒的な側面が顔を出したようだ。

 別れの季節が故に、物悲しい真っ白で冷たい物体を降らせ、まるで全てを無に帰すように殺風景な世界へと変えてしまうのだろうと、窓の外を眺めながら思うのだった。

 そうしてひろきは、気温と自分の寒さに、ブルっと震えた。



「さて・・・そろそろ出るか」

 ひろきはため息混じりに呟き、玄関の扉を開けた。キンッと張り詰めた空気がひろきの肌を突き刺し、それに抗うかのように白い息をはぁっと吐いた。


 1月下旬。最後の模擬試験、さらには私立高校の受験も終え、残るは公立高校のみとなった。今日は最後の決起集会だ。模擬試験の結果の話が中心となることを考えると、以前の工藤のように、結果に納得できず、来ない奴がいてもおかしくはなかった。

 だが、あっという間に4人全員が揃い、集合時間だった14時より10分程早く市民会館へ入った。


「みんな結果どうだった?」

 3人が口火を切りにくそうにしていると、それを察した大吾が、今日の話の根幹に触れてくれた。ひろきは、倉田と工藤より先に、自身の結果を話すと決めていた。そうでないと、2人に変な気を遣わせてしまうと思っていたからだ。

 ひろきは、待ってましたと言わんばかりの勢いで、大吾の言葉に間髪入れずに続いた。


「ああ。おれは青川に行く」

 倉田と工藤は目を見開き、ひろきの顔を見つめた。ひろきは2人の悲しげな目をチラッと見てすぐに視線を逸らし、気まずそうな表情を浮かべながら徐にバッグから封筒を取り出した。

「まあ、これが限界だったな」

 黄里高校の合格率50パーセント、夏からだいぶ成長はしたものの、納得のいく結果ではなかった。

 と言うのも、今回の試験は簡単な方だったという意見も多く、ひろき自身もそれを感じていた中でのこの結果だったため、諦めるという選択を取らざるを得なかった。


 青川高等学校は、黄里ほどではないが有名な進学校で、部活動に加え、語学などのグローバルな教育が盛んな人気校だ。全身グレーの学ランがクソダサいと思ったが、ファッションなんてものに興味がないひろきは、まあいいか程度に思っていた。何より、模擬試験の結果では青川高校の合格率は80パーセント以上であり、選ばない理由がなかったのだ。


「でも、私立の滑り止めはあるんでしょ?」

「うん、あるよ」

「なら・・・」

「さすがにニブイチだからって、挑戦するほどの勝負師じゃないよ、おれは。それに私立は学費も高いしさ」

 ひろきは倉田の言葉を遮るように口を開いた。ひろきの言葉に対し、なんと声をかけたら良いか分からないといったような曇った表情の2人に気が付き、ひろきはすぐに工藤に問いかけた。


「工藤はどうだった?」

「私は・・・」

 工藤が徐に取り出した結果に、ひろきは自然と笑みが溢れた。

 黄里高校の合格率が80パーセント以上、夏の模擬試験の結果のことも考えると、ほぼ間違いなく黄里に受かる成績だろう。

「やっぱすげぇわ・・・」

 ひろきは呟いた。それは工藤に対する賞賛と、悔しさの鬩ぎ合いによって、やっと押し出された言葉だった。

 しかし工藤の結果が、ひろきをキッパリと諦めさせるきっかけになったことは間違いなかった。もうここが限界なのだと、まるで引退を決意したスポーツ選手のような、やはり今が潮時なのだと、そう思えた。

「私は黄里を受ける」

 工藤の言葉に、ひろきは大きく頷いた。そして2人は倉田へと視線を移した。

「倉田は?」

「ウチ、どうしよ・・・」


 倉田の結果は、夏の模擬試験の結果と変わらず黄里の合格率が65パーセントだった。この結果に、倉田は今日までずっと悩んでいた。

 公立高校の出願直前ということもあり、決断を急ぐ状況ではあるのだが、1人では難しいと、今日まで抱えたままだったのだ。

 倉田は、みんなの意見を聞いて決断しようと考えたのだが、それが倉田をさらに悩ませることとなった。


「俺なら受ける」

「私も受けるかな。まだ試験日まで時間はあるし、全然可能性があるって考えると思う」

「おれは諦める」

「・・・おい、なんでだよ!」

「だって、まあまあな賭けじゃない?黄里にそこまでの執着がないなら、確実に受かる高校を選ぶ方がいいと思う。黄里以外も部活が盛んで制服が可愛い高校はあるしさ」

「倉田の背中を押してやろうって気はないのかよ」

「そういうわけじゃないけど、無理に押すのはどうかと思うよ」


 大吾は、ひろき自身が諦めなければならないから、誰かを道連れにしようという卑劣なことをしようとしているのだと思ったのかもしれない。もしかすると工藤も、ひろきに対して幻滅したのかもしれない。

 しかし、それがひろきの本心だった。悩むなら、肩の荷を下ろせ。そう思ったのは、恐らく倉田から感じた重い空気とその姿の所為だろう。

 同じクラスでも、普段はあまり話さないため気が付かなかったが、こうして会うと窶れているように見えた。目の下のクマが、諦める勇気が欲しいという心からの叫びを物語っているようにひろきは感じたのだ。


 倉田は、とりあえずもう少し考えると言い、その場で答えは出さなかった。

 その日は結局、誰も勉強する気力が湧かず、現状報告のみで解散したのだった。

 帰路を共にした大吾が、ひろきに散々小言を浴びせていたが、ひろきは受け流していた。

 ひろきは、自分の行いを後悔していなかったからだ。


 後々、倉田は救われることとなる。

 しかし、救った倉田に後々足元を掬われることになるということは、当然この時のひろきは知る由もなかった。



「3年3組、高橋ひろき」

「はい!」

 ネクタイを上まできっちりと結んで登壇したひろきは、校長先生からの卒業証書を丁寧に受け取っていた。

 卒業式というのは春の訪れを感じさせるような、仄かに暖かい穏やかな気候の中執り行われるものと思っていたが、生憎の曇天且つ雪がちらつく悪天候で、体育館に集まった生徒、先生、保護者は寒さで苦悶の表情を浮かべていた。


「あ〜寒っ!死ぬかと思った。校長、話長いんだよ。保護者もいるんだから空気読めって」

「本当そうだな。おれは卒業証書授与の時間がいらないと思ったよ。あんなの各クラスの学級委員が代表して貰えばいじゃん」

 ひろきと大吾は、卒業式という晴れやかな日に似つかわしくない不平不満を垂れ流しながら教室へと戻ってきた。

 そして、担任の今井先生の激励の言葉を聞き流し、クラスのみんなと卒業アルバムに寄せ書きを書き合うなど一通り戯れた後、先生たちの拍手に包まれながら校門を出たのだった。


「卒業つっても、俺たち会えなくなるわけじゃないし、どうってことないね」

「近所であることに変わりはないしな」

「じゃ、また連絡する!」

 そう言って大吾は、野球部の集合写真を撮りにグラウンドへと戻っていった。

 校門の前に屯っていた卒業生たちは、ちらほらと帰路につき始めた。

 ひろきも、そこに居合わせた大和と康二と一緒に帰ろうと歩き出した、その時だった。


「あ、高橋くん!」

 工藤だ。少し積もった雪に足を取られないよう、注意しながらゆっくりと近付いてきた。

「ひろき?」

「ああ、先帰っていいよ」

「おっけー、また連絡する!」

 大和と康二は、ひろきに手を振った後、制服のポケットに手を突っ込みながら2人並んで歩いていった。


「私に何も言わず帰ろうとしたでしょ?一緒に勉強頑張ってきた仲なのに」

「ああ、ごめん。連絡先知ってるし、後で連絡しようと思ってたよ。倉田にも」

 工藤は、やはり黄里高校に受かった。だから青川高校へ行くひろきとはお別れだ。それなのに、デジタルな生活に慣れてしまったが故なのだろうが、ひろきが淡白な反応を示したので、工藤は少しムッとした。

「色々とありがとうね」

「うん、こちらこそ」

「あ、あと・・・ずっと気になってたんだけど」

 工藤は、少し言葉を詰まらせていた。ひろきは、眉間に皺を寄せて不思議そうに工藤の顔を覗き込んだ。


「私に何か隠してることない?」

 ひろきは頭が真っ白になった。まさか、夢のことを言っているのか、工藤に隠していることといえばそれしかない。しかし、何故夢のことがバレたのだろう。なんと答えるべきか。一人問答が吹雪のように降り頻り、言葉が出てこない。

「いや・・・何も・・・なんで?」

「・・・そう」


 なんだろう、その意味深な「そう」は。ひろきは分かりやすく動揺した。時折びゅうっと強い風が吹き、凍えるような寒さであるにも関わらず、ひろきは額と鼻頭に汗をかいていた。

「まあ、いいよ。何でもない・・・」

 俯き気味で小さな声でそう言った工藤との間に、妙な沈黙が生まれた。

 ひろきは汗をブレザーの袖で拭い、目を泳がせながらあれこれと考え、口を開いた。

「あ、ああ・・・あれかな・・・。えっと・・・2年の時に工藤のお母さんにテスト拾ってあげたことあったでしょ?実はあの時、工藤の数学の点数が86点だったの見ちゃったんだ・・・ごめん・・・」

「え・・・そうなの?」

 工藤は俯いていた顔をあげ、ひろきの目をじっと見た。ひろきはすぐに視線を逸らした。

 夢のことではあるが、実際に経験したことだ。夢でその子から工藤の話を聞いたことについては触れていないのだから、問題ないはずだ。

 ひろきは怒られることを警戒し、ぎゅっと目を瞑った。


「じゃああの時、嘘を吐いてたってこと?もう、最低!バイバイ!」

 工藤はそう言って、ひろきのバッグからもふもふした白猫のキーホルダーを取り上げ、走っていってしまった。


 そのキーホルダーは、最後の決起集会の帰りに、駅前のカプセルトイで、受験の合格祈願的なノリで取ったものだ。白猫は幸せの象徴だと言っていた工藤に、バッグに付けるよう勧められ、渋々付けていた。

 そういえば、受験が終わったら工藤にあげる約束をしていたんだっけ。


 ひろきは誤解を解くため、工藤を引き止めようと振り返った。しかし、その場から動くことをやめてしまった。


 何故だか、振り向きざまに見えた工藤の表情が、穏やかな笑顔に見えたのだ。

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