第3話 夏祭りのあとの静けさ
楽しみなようなそうでないような、不思議な感覚でいたひろきは、午前からずっとソワソワしていた。テレビを見たり、ゲームをしたり、漫画を読んだり。しかし何に手をつけても、全く集中できず、右往左往しているだけだった。
そうこうしているうちに、あっという間に15時になった。集合場所がひろきの団地前ということもあり、ひろきはゆっくりと身支度を始めた。白い半袖のTシャツ、ネイビーの短パンに着替え、黒のポシェットに財布を投げるように入れた。
準備を済ませ、玄関の扉を開けた。生暖かい心地の悪い空気が、ひろきの身を包んだ。
団地の階段を降りていくと、すでに全員が集まっていた。
「よっ!早く行こうぜ!」
大吾は、少年漫画の主人公のような爽やかな顔つきと口調だった。その隣には、お淑やかに立つ横田の浴衣姿。大吾の後ろで、楽しそうに話す大和と康二。その横では、浴衣姿の工藤と倉田がうちわで涼んでいた。
微かに音頭の鼓笛が聞こえ、夏祭り会場へと向かう家族連れや子どもたちの浴衣姿をちらほら確認した。
ひろきは、大和と康二と話しながら歩いた。大吾は横田と、工藤は倉田と。自然と3つのグループに分かれていた。こういう時、みんなを繋ぐ潤滑油になるのは大吾かひろきなのだが、大吾は横田との会話に夢中なり、周囲が全く見えていなかった。
ひろきはひろきで、何だか気まずい感じはしたものの、変に工藤に話しかけて、殺してしまったらどうしようという恐怖から動けずにいた。
「ねぇねぇ、大和くんと康二くん。もう夏休みの思い出できた?」
倉田が、ひろきと大和と康二のグループに話しかけた。
「うん。家族で海行ってきた!」
「うちは長野のおばあちゃんちに!」
大和と康二は、倉田とほぼ初対面みたいなものだったが、自然に話し始めた。倉田は人当たりが良く、小学生の頃から初対面の人と打ち解けるのが上手い。ひろきは感心していた。
「ひろきは、焼けたね」
「珍しいでしょ。今年の夏は暑すぎる。倉田はどこか行った?」
「ウチはまだ。これからなつと出かけるつもり。ね!なつ」
「うん」
倉田の問いかけに工藤は、笑顔で答えた。
「旅行どうだった?」
ひろきは、流れで工藤に話題を振った。
「楽しかったよ。福岡に行ったんだけどね、食べ歩きしたり、博物館行ったり。台風だから仕方ないけど、まだ遊びたかったなぁ・・・」
ひろきはゾッとした。工藤の言葉から、旅行に対する心残りが感じられたからだ。もしかすると今ここで死ぬのではないかと思った。
しかし、以前のひろきとは違っていた。靴箱で逃げ出した、あの時のひろきではなかった。
「ちなみに、他の予定は?」
ひろきは、工藤が落ち込まないよう、話題を変えた。工藤は、ひろきの質問に1つ1つ丁寧に答えた。屋台までの道中、気が気ではなかったが、話題を変えたりしながら工藤の様子を伺っていた。工藤は、足下に視線を向けていたものの、声は明るかった。その様子にひろきは安心した。
そして倉田は、そんな2人を微笑ましく見ていた。
「すごーい!見て、大ちゃん!りんご飴がある!」
横田が大吾のTシャツの袖口を軽く引っ張り、2人はりんご飴の屋台まで駆け足で行った。
「やっぱりウチら、邪魔だよね?」
倉田がひろきたちにそう言うと、大和と康二は大きく頷いた。
「おーい!みんな、早く早く!」
大吾がひろきたちに大きく手を振りながら叫んでいる。
「おれ、大吾に聞いてくるわ」
ひろきは倉田たちにそう言って、大吾の方へと走っていった。
りんご飴の屋台に並び、楽しそうに話している横田と大吾にひろきは割って入り、大吾を列から離した。
「なぁ、おれら邪魔じゃない?倉田もみんなも、すごい気にしてんだけど」
「いや、そんなことないって。俺も瑠花も、みんなで行くの楽しみにしてたんだよ」
「つっても、何か気を遣っちゃうよ」
あれこれ話していると、りんご飴2本を両手に持った横田が、大吾とひろきに近づいてきた。
「はい、大ちゃん!高橋くんたちは買わないの?」
横田は1本を大吾に手渡すと、遠くで話している4人を見つめながら、ひろきに尋ねた。
「あ、ああ。おれたちはいいや。他の店行ってみよ」
結局何も解決しないまま、7人で屋台を回った。
しかし、倉田と工藤が上手くやってくれた。そもそも、倉田と工藤が所属する合唱部と横田の所属する吹奏楽部は、合同練習や、合同コンサートをする機会が多く、知った仲である。
その3人の会話から始まり、倉田が名司会者のように他の人に話を次々と振っていた。
空気が変わり始めたのは、いくつかの屋台を回り、団地内にある小さな公園で休憩している時だった。
ひろきと大吾は、買ったばかりでまだ熱い焼きそばを、ブランコに座って頬張っていた。何事もなく普通に楽しめている現状が、油とソースでギトギトの塩辛い焼きそばを、汗をかいたひろきの体にしっかりと染み渡らせてくれた。
「ねぇ、今更その話を蒸し返すことなくない!?」
ひろきと大吾は、近くのベンチから聞こえてきた大きな声の方を向いた。ただ事ではないような鬼気迫る声で、向かざるを得なかった。
そこには、倉田と工藤と横田の3人が居た。倉田は座っている横田を見下ろすように立っていた。
「なんだ?」
大吾はブランコから降り、ベンチの方へと走っていった。ひろきは食べかけの焼きそばのパックを輪ゴムで結き、大吾の後を追った。
「せっかく今年は団結して頑張ろうって話をしたのに、今更合唱部の所為だったなんていう必要なくない?」
「実際そうだったでしょ?合唱部は集まりも悪かったし、その所為で準備も吹部が中心でやってたしさ。あれはどう考えても合唱部の問題だよ」
「ちょっと、2人ともやめてよ!」
倉田と横田が揉めていた。工藤は横田の横に座り、困惑しながらただ2人の顔を交互に見つめ、宥めていた。
「おい、どうした?」
大吾が倉田と横田に声をかけた。2人は黙ったままだった。工藤はそんな2人の様子を不安そうに見ていた。
そこへ、フランクフルトの入ったパックを抱えながら、大和と康二が戻ってきた。
「ん、どうしたの?」
変な空気を感じ取った大和と康二は、気まずそうに軽い笑みを浮かべていた。
「ごめん、ウチ帰る」
倉田はそう言うと、屋台から外れた暗がりの方へと歩いていった。
「わたしも帰ろ」
倉田が離れて数秒経ってから、横田はそう言って倉田とは逆の方向へ歩いていった。
「ねえ!2人とも待ってよ!ねえってば!」
工藤はベンチから立ち上がり、2人が歩いて行った方向へそれぞれ叫んだ。
「おい、どうしたんだよ!瑠花!ちょっと待って!ごめん、みんな!今日は解散で!」
大吾は、ひろきたちに向かってあたふたしながらそう言うと、横田の方へと走っていった。
「何だ?とりあえずおれは倉田を追うか。じゃ、みんなごめんね」
「お、おう。わかった、じゃあな」
ひろきは、大和と康二と工藤にそう言い、走って倉田を追いかけた。大和と康二は、戸惑いながらひろきに手を振っていた。
「高橋くん!私も行く!」
工藤は、下駄で不安定な足取りだったが、懸命にひろきの後を追った。
「おい、倉田!」
とぼとぼと歩く倉田は、すぐにひろきに見つかった。
ひろきは、すっかり冷め切った焼きそばのパックを片手に持ち、もう一方の手で倉田の肩を叩いた。そこへ、工藤が遅れてやってきた。ひろきとは対照的に、息を切らして前屈みの姿勢をとっていた。
「はぁ、はぁ・・・やっと追いついた」
工藤の登場に、ひろきは少し驚いた。そして、何の考えもなしに倉田を追いかけてきてしまったこの状況を何とかしようと、ひろきは頭を捻った。そして、とりあえずの案を口に出した。
「3人でうちの近くの公園で話さない?」
工藤と倉田の2人は、並んだブランコに腰掛けた。ひろきは、ブランコを囲うバーに寄り掛かり、ため息を吐いた。
「はぁ・・・。で、どうしたって?」
「横田さんが、去年のコンサートが上手くいかなかったのは合唱部がまとまってないからだって言ってきて。ちょっとイラッとしちゃった」
「そっか」
「まぁ、実際そうだったし、何も言い返せないんだけど。今年はまとまろうって意気込んでた矢先、改めてそう言われちゃったから・・・」
沸々とする怒りと、せっかくの楽しい夏祭りの空気を壊してしまった申し訳なさの表れだろう。倉田の声は、もじもじとした感じでだいぶ小さかった。
工藤は俯いたまま何も喋らず、ひろきと倉田の会話を聞いていた。
単純な話だ。合同コンサートというゴールを、お互いが見据えた結果生じた縺れだ。今回、倉田が最も触れてほしくない部分に横田が触れた。横田に悪気があったかどうかは分からないが、それは倉田にとって関係がない。
中学生という多感な時期だからこそ、ほんの些細なことが刺激になる。
思春期というのは、すべての言動が凶器に見え、何に対しても痛みを覚える急所の塊のようなものなのだ。
それにひろきは分かっていた。倉田とはそういう奴だ。正義感が強く、はっきり物言う性格は、昔から変わっていなかった。違うと思えばすぐに声を上げる。そして男勝りな性格でもある。
小学生の頃、ひろきは同じクラスの女子を揶揄い、泣かせたことがあった。
その日の放課後、倉田はひろきのクラスへずかずかと入っていき、ひろきにビンタを食らわして泣かせた。
ひろきは、あの時の痛みと恥ずかしさを思い出し、顔を赤らめた。
「そもそも・・・」
ひろきと倉田の沈黙を埋めるように、工藤が口を開いた。
「そもそも私が、コンサートの話をしなければ良かったんだと思う」
工藤の目が、溢れんばかりの涙で覆われていた。それを見たひろきと倉田はギョッとした。
「ちょっとなつ!泣くことないじゃない!しかも全然関係ないというか、なつのせいじゃないし!」
倉田はブランコを降りて工藤に寄り、そっと肩を抱いた。倉田の優しさで、工藤の涙は溢れ、浴衣の膝部分をしとしとと濡らした。
工藤の涙が溢れるのとほぼ同時に、ひろきの額から尋常ではない量の汗が流れた。そして持っていた焼きそばのパックを落とし、小刻みに震えていた。
「ひろき、どうしたの?」
「い、いや・・・」
声も震えていた。工藤が死ぬ、それだけがひろきの頭の中を埋め尽くし、冷静でいられなかった。
ひろきは、緊張によるストレスで、身体が暑さを全く感じなくなっていた。
「あんた顔色悪いよ。脱水症状じゃないの?水飲みな」
倉田はそう言うと、持っていたペットボトルの水をひろきに手渡した。ひろきは、勢いよく体に流し込んだ。
こうしている間も、工藤の涙は止まらなかった。ひろきはどうして良いか分からず、ペッドボトルを握ったまま目を閉じていた。まるで神に祈るかのように。
「ほら、なつ!もういいから。ウチが少し気にしすぎてただけだからさ。今年のコンサートがんばろ、ね!」
倉田の言葉で、工藤は徐々に落ち着きを取り戻し始めた。そして、それはひろきも同じだった。そんな工藤の様子を確認すると、ひろきの汗は徐々に引いていったのだった。
工藤は、倉田に救われた。
やはり倉田は、架け橋だった。
「ほら、ひろきもなんか言ってよ!」
「え、まぁ、その・・・気にすんなよ」
これが工藤にとって、求めていた言葉だったかどうか定かではなかった。いや、恐らく間違っている、ひろきはそう思っていた。
しかし、やっとの思いで平常心を取り戻したひろきには、この言葉を吐き出すのが精一杯だった。
それにこういう時、ハンカチの1つでも差し出すのがセオリーなのだろうが、生憎、自分の口を拭いてしまった焼きそばソース付きのハンカチしか持っておらず、ただ突っ立っていることしかできなかった。
しかし倉田は、そんなみっともないひろきに対し、工藤の死角からニタニタと笑みを見せていた。
「うん。2人ともありがとう」
工藤は静かにそう言った。
良かった、工藤は死ななかった。
倉田は倉田で、何だか心の中の靄が晴れたようだ。
何とか嵐は過ぎ去った。
その後、工藤と別れ、ひろきは倉田と帰り道を歩いた。
「ごめん」
倉田はひろきにそう言った。
「ごめんって何が?」
「いや、なつに告白するタイミング逃しちゃったでしょ?ウチの所為で」
「はぁ!?だからそんなんじゃねぇって!」
「冗談!いや、なんか空気ぶち壊しちゃってさ」
「ああ、まあいいよ。横田さんは大吾が何とかしてくれるだろうし。それにお前、横田さん苦手だろ?」
「やっぱ分かる?嫌いってわけではないけどね」
ひろきと倉田は、見合って吹き出した。
「じゃ、今日は色々ありがとね!じゃあね!」
そう言って倉田は、街灯に照らされながら、静かな住宅地の方へと歩いていった。
「お礼を言いたいのはこっちなんだけど。おれ、多分助けられたよな・・・」
ひろきは自分の団地の階段前で、ポツリと呟いた。
この夏祭りの出来事は、ひろきの寿命を少し縮めたのだった。
後日、大吾からメッセージが届いた。ひろきは宿題の手を止めてスマホを開いた。
「瑠花が、自分が悪かったって。今度倉田に会ったら謝るってさ」
そのメッセージを確認すると、ひろきはすぐに倉田へメッセージを送った。
「お疲れ。横田さんが今度謝りたいって。合同コンサート頑張れよ!」
ひろきがメッセージを送った数分後、倉田からすぐに返信があった。
「りょーかい。ウチも謝らなきゃ。てか、大吾と2人で合同コンサート観にくる?」
合唱部と吹奏楽部の合同コンサートは、8月中旬に駅近くの地元のホールで開催される。毎年、生徒と保護者で客席を埋める程大盛況なコンサートだ。
去年のひろきは、陸上部の練習で行くことができなかった。そして今年も難しそうだ。というのも、ひろきは同じく8月中旬にある全国大会の短距離出場選手だからだ。夏祭り以降、毎日毎日、走ってばかりだった。
「ごめん、部活だ」
「りょーかい。頑張って!」
ひろきがすぐに返信すると、倉田からもすぐに返信があった。
お互い、束の間の休息を宿題か連絡を取ることにしか使えないほど忙しくしているのだと、ひろきは思った。
「高橋!ペース上げてけ!」
「次、加速走な!」
「今日は坂ダッシュから!」
「200メートル5本!」
8月上旬に差し掛かり、ひろきは最後の追い込みと調整に時間を費やしていた。張り裂けそうな心臓、肺を出入りする生暖かい空気。夏祭り以前とは違う、別の意味で生きた心地がしなかった。
「高橋先輩、少しずつタイム伸ばしてるし、マジですごいっす!」
「ああ、ありがとう」
ひろきは、後輩たちから羨望の眼差しを向けられながら、帰路を歩いた。練習は厳しいが、成長の実感と周囲からの評価がモチベーションとなり、ひろきはますます精を出した。
しかし、奮起し出した時こそ上手くいかないのもまた人生である。
「いってぇ・・・!」
外周中、ひろきは左足に鈍い違和感を覚えた。左足が地面に着くと、膝に激痛が走った。ひろきは左足を引き摺りながら、顧問の吉先生の元へと向かった。
「どうした高橋?」
「左膝が痛いっす」
吉先生は、険しい表情でひろきの膝を触って確認していた。
「そこ痛いです・・・」
ひろきは、悶絶に近い苦悶の表情を浮かべた。
「オスグッドじゃないよな・・・。すぐ病院へ行こう。先生が車を出すから。佐々木!先生少しの間離れるから、午後の練習頼む」
吉先生は、3年生の佐々木に声をかけると、ひろきを車に乗せ、近くの病院へと向かった。
「膝の靱帯が炎症を起こしてますね。当面の間、安静にお願いします」
「え、でも、もうすぐ大会が・・・」
「それまでに完治は難しいでしょう。無理に練習をすれば後遺症が残るでしょうし、今の状態で大会に出ても、100パーセントの実力は間違いなく出せません」
ひろきは一通り診察を受けた後、病院の先生からはっきりと現実を突きつけられたのだった。
診察室を出た後、ひろきはすぐに待合室の吉先生に報告をした。
「残念だが高橋、お前は欠場だ」
ひろきは、予想していた通りの文言を真正面からぶつけられた。予想通りだったからだろう、思った以上のショックを受けることはなかった。
病院から学校へ戻り、荷物をまとめ、そのまま吉先生の車で帰宅した。
ひろきはベッドに座り、窓の外を見つめていた。真っ青な空とちらつく枝葉がそこにはあった。いや、それしかなかった。
工藤よりも先に、ひろきが死んだ。
ひろきの夏は、蝉の一生のような短さだった。それほどに、儚く虚しい時間に感じられた。
1週間、ひろきはとにかく安静にしていた。宿題をするかゲームをするか漫画を読むか、それらをヘビロテする日々を送っていた。立ち上がると左膝はズキズキと痛む。その痛みは、全国大会のことを気に掛けさせた。
大会まで残り1週間程となった今、みんなは最終調整に入っているのだろう。そんなことを思うたびに、ズキズキと痛むのだった。
「ピロンッ♪」
大吾からのメッセージだった。
「大会近づいてきたな!練習がんばれよ!」
大吾の言葉は励みになる、はずだった。まだ何も知らないストレートな大吾の言葉は、ひろきの胸の前でガクッと落ちた。見事なフォークボールだ。この状況を何となく予想していたひろきは、大吾のフォークボールをキャッチし、包み隠さずストレートに返したのだった。
「怪我して出られなくなった」
そのメッセージに対し、大吾の返信はなかった。
そうしてひろきは、いつものローテーションに戻ったのだった。
「ピンポーン♪」
しばらくして、インターホンが鳴った。左足を引き摺るようにしながら渋々カメラを確認しに行くと、そこには大吾の姿があった。ひろきはゆっくりと玄関の戸を開けた。
「よっ!」
真っ黒に日焼けした大吾の手には、2リットルのペッドボトルが入ったコンビニの袋があった。
大吾はひろきの部屋の床に座り、冷房の冷気を心地良さそうに浴びていた。そして、自身が買ってきた清涼飲料水をグラスに注ぎ、グビっと一口飲んだ。
「これ、久しぶりに飲んだな。こんな味だったか?」
「おれも。なんかちょっと苦く感じるな」
何気ない会話をしながら、大吾がベッドに座るひろきの左膝をチラッと見ると、半ズボンから包帯がチラリと顔を出していた。
「いつ怪我したんだ?まだ痛いか?」
「1週間くらい前。立つと少しな」
「そっか。大会残念だったな」
「まあ。でも仕方ないと思ってるよ。怪我だしさ。今何してるんだろうって、部活のことは気になっちゃうけどな」
大吾がそれ以上怪我のことに触れることはなかった。それは自身の経験からくる配慮なのだろう。
野球部の大吾も、去年のとある大会の予選で怪我をし、選抜から外れた。だから、そんな今のひろきの心中を察し、触れない方が良いと判断したのだ。
2人は格闘ゲームをしながら、勝った負けたのぬか喜びと悔しさを見せ合い、気が付くと夕方になっていた。
「もう5時か。そろそろ帰らないとな」
「おっけ。またな」
「ところでさ、合唱部と吹奏楽部のコンサート、ひろきも行かね?」
それは唐突だった。陸上の全国大会のことで頭がいっぱいだった1週間前までのひろきは、コンサートのことを忘れていた。そして、大会を欠場することが決まった今でも部活のことを考えているひろきもまた、やはりコンサートのことを忘れていた。
「あー、そうだなぁ・・・」
ひろきはこめかみを掻きながら、空返事をした。
「気分転換だ。な、いいだろ?大和と康二は行けないって言うし、俺1人で行くのも何かあれだしさ」
「うん、分かった」
大吾は、嬉しそうにひろきの肩をパンパンと2回叩いた。
「そう言うと思った!だからひろきの家に来る前に、瑠花に2席取ってもらったんだ!じゃ、また連絡するわ」
玄関を出た大吾は、ひろきに手を振りながら勢いよく階段を降りていった。
日中程ではないが、もわっとした心地の悪い空気がひろきの身を包んだ。そしてやはり、この時期の夕方はまだ明るい。
そう、沈むには、まだ早すぎる。そう言わんばかりに、夕陽がひろきの顔を照らした。ひろきは、その光に押されるように家へと入り、玄関の戸を閉めた。
それから2週間が経った。陸上の全国大会は無事に終わり、3年生の佐々木が、男子1500メートルで大会記録を叩き出したらしい。ひろきが祝福のメッセージを送ると、佐々木からお礼と共に労りのメッセージが返ってきた。
やはり強い人間というのは、単に力があるだけではなく、礼節も弁えているのだと再確認した。さすが先輩だ。そう思いながら、ひろきはそっと電源を切った。
「おい大吾、そろそろ始まるぞ」
「フガッ!ん・・・ああ・・・」
地元の中規模なホール、中央より少し後ろあたり、映画館でいうとG列かF列らへんにひろきと大吾は並んで座っていた。大吾のお父さんが車で送ってくれたこともあり、開場とほぼ同時くらいに席に着くことができた。しかし、開演まで1時間近くあり、大吾は涼しさと夏休みらしい夜更かしの影響もあって、寝てしまっていた。
そんな大吾の頬を、ひろきがペチペチと軽く叩くと、大吾は半開きになっていた口を閉じ、代わりに目を半開きにしたのだった。
「ブー」
10秒程の予ベルがホールに響き渡ると、喋ったり立ち歩いたり、ざわついていた生徒や保護者たちは、観客に成り変わった。客席の照明は沈むように暗くなり、それと同時にステージの照明が煌々と照る。すると、ピンスポに照らされた部員が、こちらも嫌な汗をかきそうなくらいの緊張感で司会進行をし始めたのだった。
そこから終演までは、あっという間だった。横田が所属する吹奏楽部の演奏から始まり、軽い休憩の後、工藤と倉田が所属する合唱部の演奏、そしてまた軽い休憩の後、最後は吹奏楽部と合唱部の共同演奏で幕を閉じた。
芸術に造詣が深いわけではないひろきと大吾だったが、横田や工藤や倉田という気心の知れたメンツの一生懸命な勇姿というのは、心を打ったのだった。夏祭りでの一悶着を考えると、3人がどれほどこの日のために努力をしてきたのかが分かる。
ひろきは、ステージ上の3人の懸命な姿に鳥肌を立てていた。
工藤の姿でひろきは思い出した。陸上部の練習ですっかり忘れていたが、工藤は死と隣り合わせ、いや、かもしれない人間だ。今日までトラブル無くこれたのだろうか。それとも、夏祭り同様、倉田が何とかしてくれたのだろうか。詳細確認の仕様はないが、とにかく工藤が今生きていることに、ひろきは胸を撫で下ろした。
「2人ともお疲れ様」
ひろきは終演後、ホールのロビーで工藤と倉田に声をかけた。
達成感からだろう、2人の表情は、いつもより晴れやかだった。
「ひろき!今日はありがとう!あれ、大吾は?」
「横田さんのとこに行った」
「そっか」
「横田さんと仲直りできたのか?」
「うん。お互い熱くなりすぎちゃったねって」
「そっか、まあ良かった」
何事もなかったかのようにそう話す倉田に、ひろきは安堵の表情を見せた。その倉田の横で、曇った表情を浮かべていた工藤は、2人のやりとりに、間髪入れず続けた。
「高橋くん、あの時急に泣き出したりしてごめんなさい」
工藤はひろきに深々と頭を下げた。
ひろきは突然のことに、おろおろとしていた。そんなひろきの肩を倉田は笑いながら軽く叩いた。
「なつね、あの時のことを気にしてて、あんたに直接会って謝りたいってずっと言ってんの。始業式まで随分時間あるなと思ってたんだけどさ」
倉田の言葉で、工藤は思い出したように更に続けた。
「足の怪我、大丈夫?」
「あ、そう言えば、あんた大会出られなかったって大吾から聞いたけど」
工藤と倉田の不安そうな眼差しに、ひろきは視線を逸らした。
「ああ。まだ少し痛い。大会はまぁ、来年がまだあるし、来年がんばるよ」
表情とは裏腹に、声色は多少のご機嫌を演じた。2人がその言葉を飲み込んだ様子はなかったが、怪我のことにそれ以上触れることはなかった。
「無理だけはしないで」
この工藤の言葉が、3人の会話を締め括ったのだった。
その後大吾が合流し、4人で雑談をしてから、行きと同じく大吾のお父さんの車で帰宅した。
この日以降も、ひろきは安静を続け、宿題とゲームと漫画をヘビロテして残り僅かな夏休みを過ごしたのだった。
9月末。やっと休みボケが治ってきたかという頃、左膝の痛みは消え、ひろきは陸上部の練習に復帰していた。怪我以前と変わらない、本調子と呼んで良い、ひろきはそう感じながら外周を走っていた。
「よし、今日は100メートルのタイム録るぞ」
3年生の佐々木の言葉で、ひろきはいそいそと準備を始め、そして校庭のトラックの直線部に引かれた白線の上に立った。ひろきの横に4人並び、合図とともに一斉に走り出した。
ひろきは短距離の選手だ。しかも全国大会に出場予定だったほどの選手。当然ぶっちぎりの結果となる、はずだった。
ひろきは、他の4人とほぼ並走していた。何なら、1歩引いて隣の部員の背中を見ていた。
他の部員は多少驚いたものの、怪我から復帰したばかりだから仕方のないことだと受け流していた。
ひろき自身も、まだ本調子ではないのだと、そして、夏休みの練習期間で周囲が成長したのだと納得した。
しかし、そこから1、2ヶ月経過しても、タイムは縮まらず周囲との差が開く一方だった。
「おいひろき、どうしちゃったんだ?」
「高橋先輩、このままだと全国どころじゃないよ」
次第に、他の部員が心配の声をかけたり、陰口を言い始めた。
ひろきは、自分でも何が何だか分からず、ただ笑って誤魔化すしかなかった。
帰宅してからも軽く練習し、原因究明を試みた。痛みは全くないのだが、走っている最中に左膝が曲がりにくくなる違和感があった。いや、曲がっているのか分からなくなる感覚という方が近いかもしれない。
病院に数回赴き、検査をしたが、異常は見つからなかった。医師も分からないと匙を投げる始末だ。
そこからひろきは、結果が出ず悶々としながら練習を続けていた。
ある日、ひろきは夢を見た。それはいわゆる悪夢というやつだ。幼児が走るのと同じくらいのスピードしか出ず、思ったように身体が動かせない中、とにかく焦りながら必死に走った。背後から何かが迫ってくる。その何かは、車のブレーキ音のようなキュルキュルという異音を鳴らしている。
夢の中では、考えるという能力が備わっていないのか何なのか、隠れるでも武器を取るでもなく、とにかく走ることしかしなかった。
場所は恐らく糸山中学校、誰もいない朝方の長い廊下を全力で走っている、つもりだった。ひろきなら端から端まで、15秒程度で走り切るだろう。しかし、夢の中のひろきは、何故か1組の教室前にやっと到達したところだった。
すると、身体を思い通りに動かせない所為か、足をつんのめらせ、転んでしまった。ひろきが振り返ると、視界は真っ暗闇に包まれ、パッと目を覚ました。心臓は張り裂けそうなくらい鼓動していた。
徐々に鼓動が落ち着き始め、ひろきは決心したのだった。
ひろきという男は、未来がないと判断すれば、すぐに見切りをつけるタイプの人間だ。そういう時は、冷静に考えるということを止め、本能に従う獣のようになる。
そうしてひろきは、その日のうちに、あっさり陸上部を辞めてしまった。
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