第2話 予知夢と夏

「げっ!やっぱり社会赤点だ・・・。夏休みの補習とかなきゃいいけど。ひろきはどうよ?」

「・・・」

「おい!・・・おいってば!」

「いてっ!」

 大吾は、ぼーっとしているひろきの後頭部を軽く叩いた。ひろきは、その衝撃で我に帰り、返却された答案用紙に目を通した。

「何とか大丈夫。英語は45点だったけど」

「社会は?」

「68」

「くっそ〜!負けた!」

 机に額を押し当てて落胆する大吾をよそに、ひろきは再び意識を別の方へと向けた。ひろきはチラチラと、視界に工藤の席を映していた。工藤は、中央の列のひろきから見て右列、前から3番目の席だ。しかし夢の通り、工藤は欠席していた。


「次、工藤。あ、欠席か」

 結果に一喜一憂する生徒で騒がしい空気の中、担任の今井先生が、答案用紙を持ちながら教壇から工藤の名前を呼んでいた。

「先生。なっちゃん休みですか?」

「ああ。昨日から熱が出ているみたいでね」

 今井先生と生徒の会話を聞いていたひろきは、動揺していた。

「おいおい、今のところ当たってるぞ・・・」

 ひろきはボソッと呟いた。赤点のなかったテスト結果ということもあり、ひろきは夢のことに集中していた。

 その横で、大吾はまだ額を机に擦り付けていたのだった。


「じゃあなひろき!部活頑張れよ!」

「ああ、大吾もね」

 ユニフォーム姿の大吾は、他の野球部員と共に教室を後にした。ひろきもそれを追うように、答案用紙を丸めて入れたバッグを抱え、グラウンドに向かった。

「2年は外周の後、各々の練習メニューに取り組むように。1年はミーティングがあるから部室に集合」

 陸上部顧問の吉先生の話を、アップをしながら聞いていたひろきは、話が一段落すると、校門へと走って向かった。校門に着いた部員たちは、げんなりした顔で走り始めた。ひろきもそれに続いた。


 初夏の太陽は、瞬く間に体力を奪っていく。吸った空気は、肺に入った感覚が分からないほど生ぬるく、気持ちが悪かった。

 テスト明け久々の部活ということもあり、鈍った身体には厳しいものがあった。2周もすると、顎から汗が滴り、腿は張り、脚を上げることが億劫に思えてきた。

 ひろきをはじめ、他の部員たちは、ただただ無心で走った。

「残り1周!頑張れ!そのままペース落とさないで!」

 怪我で練習を休んでいた1組の長谷川が、校門から部員を鼓舞した。その声で部員たちは一気にペースを上げた。ひろきもまた、目をカッと開き、前の背中を追いかけた。


「ドサッ!」

 真正面を見つめていたひろきの足元に、何かが落ちた。それに気が付いたひろきは、慌ててそれを飛び越えた。

 つんのめってペースを崩したひろきは、後ろを振り返り、それを拾い上げた。

「はぁ・・・はぁ・・・どうぞ」

「すいません、ありがとうございます」

 クリップで端が留められた書類は、少し砂が付いていた。ひろきは呼吸を整えながら、その砂を叩き落とし、書類を落としたであろう女性に手渡した。

 ひろきは、深呼吸をすると、少し冷静になった。疲労で前屈みになっていた体勢を少し起こし、手元の書類を見た。それはテストの答案用紙で、数学の点数と名前がチラッと見えた。

 赤ペンで書かれた86という数字、濃くも薄くもないキリッとした字体で書かれた工藤なつの4文字が目に入った。

 ひろきはその視線を更に上へとやった。そこには茶髪で髪の長い、白シャツを着た40代くらいの女性の姿があった。

「あ、あれっ!」

「どうかされました?」

「あ、いえ。失礼します!」

 ひろきは深々とお辞儀をすると、再び走り始めた。

「工藤の数学の点数、マジで86点じゃん!お母さんの格好も当たってるし、そもそも外周があることも分かってたよな。マジで何なんだよ!」

 ひろきは、心の中で慌てふためきながら残りの距離を走った。とっ散らかった心は、疲労を麻痺させていた。

 この予知夢は何なのか、目的は何なのか、あーだこーだ考えているうちに、地獄の外周を終えていた。


「今日の練習は以上!」

「お疲れ様でした!」

 夕日が沈み、薄暗くなった空の下で顧問への挨拶を終えた部員たちは、着替えをしに部室に戻っていった。ひろきは、部員たちと雑談をしながら着替えを済ませ、学校を後にした。

 スマホを開くと、大吾からメッセージが来ていた。


「夏休みさ、瑠花と夏祭り行くことになったけど、ひろきも行くか?」

 大吾の言う夏祭りとは、団地の広場に出店が立ち並ぶ町内会主催の夏祭りだ。ひろきと大吾は、友人数人と毎年行っていた。

「まあ、そりゃ大吾は横田さんと行くわな」

 ひろきにとって、地元の夏祭りに行くことが毎年の夏の恒例行事となっていたこともあり、いつものメンバーで行けないであろう今年の夏に物悲しさを感じていた。

「いや、予定あるから無理そう!また何かあったら誘って!」

 ひろきは、心情とは対照的なテンションのメッセージを送った。

 それにしても、大吾はなんて馬鹿なのだろう、ひろきはそう思った。まだ恋愛をしたことがないひろきでも分かった、横田さんは大吾と2人で行きたいに決まっていると。もし3人で行ったとしたら、横田さんにとってひろきは、眼中の釘だろう。ドラマや漫画の知識ではあったが、それに気が付いたひろきは、大吾に対して若干の優越感を抱いていた。


 帰宅したひろきは、予知夢について考えていた。

「そう言えば、今日も夢を見るって言ってたな」

 俄には信じがたいことであるが、今日の出来事は、信じる理由に十二分になり得た。

 ひろきはぼーっと天井を眺めた。暇ができると、頭に浮かぶのは工藤のことだ。無意識のうちに、工藤のことを意識していた。いや、させられていた。

「工藤かぁ・・・」

 ひろきは、複雑な心情だった。

 何故なら、ひろきにとって工藤は、唯一ほとんど知らないと言っても過言ではないクラスメイトだからだ。饒舌でも寡黙でもなく、明るくも暗くもなく、良くも悪くも、ありきたりな人物というか。


 恋愛と無縁とは言うものの、ひろきにも好きな人はいた。1年前だが、同じクラスだった本田だ。

 本田は、肩まで伸びたサラサラな髪が特徴的な小柄な子だ。吹奏楽部でフルートを担当し、新入生への部活紹介や、体育祭などの行事で吹く姿を何度も見ていた。誰に対しても愛想良く、容姿端麗な彼女は、当然人気者だった。

 その所以だろうが、知らぬ間にサッカー部の先輩と付き合っていた。ひろきは何もすることなく、玉砕したのだ。

 そんな本田と、対照的とまではいかないものの、パッとしない工藤は、少なくともひろきのタイプではなかった。

 失礼なのは承知だが、恋愛対象としても人としても興味が持てなかった。



「昨日話した通りになったでしょう?」

 ひろきはハッとした。気が付くと真っ白な世界にいた。久々の部活の疲労に負けたのだろう、どうやら寝落ちしたらしい。

 しかし、変な感覚だ。寝ているはずなのに、頭は起きていた時と同じ平行線上にいるというか、直前まで本田と工藤のことを考えていたことを覚えているし、これが夢であるということも認識できていた。

「ああ。今日は何だ?」

「何もないよ。当分会うことはないから、最後の挨拶をと思ったの」

「ちょっと待った!工藤が死なないようにするというのは、まあ辛うじて分かった。で、いつまでやるんだ?」

 淡々と話すその子をひろきは制し、少し声を張って聞いた。


「決まってるじゃない。一生だよ。昨日も話したでしょう?生きていく中での壁を取り除いてやるんだよ。高校生になったら壁がなくなる?大人になったら壁がなくなる?つまりはそういうこと」

 その子は大人のような口調で淡々と答えた。子どもの声であることが不思議な程だった。


 ひろきは愕然とした。そんな不可能な話があってたまるか。高校、大学、就職、あらゆる場面で工藤を気にかけなければならないのか。

 お互いが死を迎える、そんな歳まで学生時代の友人に寄り添った人は、この世にいたのだろうか。学生時代の友人というのは、環境の変化と共に疎遠になるのが当然だ。だからどう考えても、できるはずがなかった。

「無茶だろ、そんなの・・・」

「別に無視したって構わない。でも、予言通りになると知った今、無視できるの?本当に工藤なつが死んだら、自分が殺したのではないかという罪悪感に苛まれない?」

「くっ・・・!」

 ひろきは、その子に諭され、言葉に詰まってしまった。

 その子の言う通り、実に痛いところを突かれた。自分が手を下していないとはいえ、もし工藤が死んだら、自分が殺したのではないかと思うに決まっている。中学生という人生の初歩で、そのような罪悪感を抱えながら、この先の長い人生を歩まなければならないのは御免だ。

 ただ、中学を卒業してしまえば、恐らく工藤のことなんて忘れてしまうのだろうから、少なくともあと1年はその子に従い、卒業と共にとんずらしよう、そう思う自分もいた。

「なんで工藤なんだ?工藤とお前に何の関係がある?」

「・・・。次にひろきと会うのはいつだろう、楽しみだよ・・・」

 その子が、ひろきの質問に答えることはなく、徐々にその声は遠ざかっていった。

「おい!待って!」

 ひろきはそう言いながら、ベッドで大の字になっていた。


 2度目ということもあり、ひろきは冷静だった。変な夢を見たということに対して動揺はしなかった。どうしていこうか、それを考えることに頭を使おうとしていた。

 掌に乗ったスマホを徐に確認すると、時刻は4時を少し回ったところだった。この時間に起こされるのは、考える猶予を与えてくれているからなのだろうか、登校までに充分な時間がある。


 ひろきはベッドの上で胡座をかき、考えていた。

 絶望したら死ぬとはどういうことなのか。病気でということなのか、それとも突然死ということなのか。どちらにせよ、外部から他人がどうこうできることではない。だとすると工藤は、命に関わる持病があるのだろうか。まずはそれを確認しなければならない、ひろきはそう思った。

 しかし、ほとんど話したことのない相手に対し、病気か?なんていきなり聞くのも失礼な話だ。

「いや、まず工藤と話してみるところからだな」

 ひろきは、心の中で呟いた。


 良い機会だと思っていた。ひろきは大吾のような人気者というわけではないが、人当たりは良い。普段、大吾と一緒にいるということも相まって、それは他の生徒たちに伝わっている。

 ひろき自身、多くの人と仲良くなりたいと思っている人間ではある。だから、工藤と話すことで、人間関係の幅が広がるということを考えれば、これほどに良い機会は他にない、そう思った。いや、そう思うようにしたのかもしれない。

 本当に死んでしまうのかどうか、俄には信じがたい現状に蓋をしようと、プラスに物事を考えようとしていた部分も、少なからずあった。


 そもそも、この夢の話を、工藤にするべきなのだろうか。

「工藤のことを守れって、夢で言われてさ・・・いや、違うな・・・」

 ひろきは、工藤との話のきっかけとして、夢のことを話す体でシミュレーションをしていた。最高に気持ちが悪い。格好つけた自分に酔っている奴としか思えない。もし自分が、そう声をかけられたとしたら、人当たりが良い人物ではなく、人当たりの良さに酔っている人物だとレッテルを貼り替えるだろう。

 あれこれと考えているうちに、家族が起き始めた。足音と、蛇口から流れる水の音が聞こえてきた。

 結局、何も解決しないまま時間だけが過ぎていた。ある程度、戦略を立てて行動に移したい性格のひろきにとって、不本意ではあったが、打付本番で行くしかないと腹を括ったのだった。



「起立!礼!おはようございます!」

 いつものように朝礼から1日はスタートした。夏休みまで残り1週間となったクラスは、テスト終わりということもあり、落ち着きがない。それは、ひろきの心と頭の中も同じだった。しかしそれは、浮き足立っているからであり、みんなと同じように夏休みが待ち遠しいからではなかった。

「どのタイミングで行くべきか・・・。何を話すべきか・・・」

 工藤は登校していた。ひろきは、工藤へ意識を集中させながら、今井先生の話を聞いていた。とりあえず、工藤は元気そうだ。それがまずは何よりだった。


 朝のホームルームが終わり、1限までに幾許か時間がある。ひろきはここだと思った。朝のうちに軽く話しておけば、午後への流れは作りやすい。午後に話しかけるのは、何故今なんだろうという警戒心を抱かれる可能性が高い。朝のうちにジャブを打っておかなければ、午後はストレートしか打てなくなってしまうような気がした。そんな風変わりなボクサーにはなりたくない。

 ひろきは決心し、立ち上がった。


「ねぇ、ノート見せてくれない?」

 声をかけた、大吾がひろきにだ。

 立ち上がったひろきは、隣に座る大吾を睨み下ろした。そして、何故このタイミングなんだという怒りを念で送りつけた。

「ん、何?ところで、夏休みのことなんだけどさ・・・」

 大吾は純粋無垢な笑顔で、ひろきのその表情を気に留めることなく話し始めた。

 ひろきは、ため息を吐きながら席に座った。

「はぁ・・・。ほら」

 絶好のチャンスを逃したひろきは、無愛想にノートを大吾へと手渡した。大吾はそれに対して一言お礼をし、再び話し始めた。

 結局そのまま何もできず、英語の先生が教室のドアをガラリと開けて入ってきてしまった。


 やはり夏休み前の授業というのは退屈で、寝ている奴ばかりだった。

 ひろきもまた、その1人だった。特に英語の先生は、注意もせず淡々と授業をするおじいちゃん先生ということもあり、体力を回復するには丁度良い時間だった。

「おい、ひろき、ノートありがとな」

 大吾はというと、英語の授業を聞かず、世界史のノートを書き写していたようだ。

「ん・・・ああ。テスト終わったのに熱心だな」

「夏休みの宿題で使うだろ?俺、寝てて書いてないところがあったんだよ」

「なるほどね」


 チャイムが鳴ると、生徒たちは一斉に起き始めた。やはり目覚まし時計か何かと勘違いしている奴らばかりだった。

「ひろき、ここ見ろよ。家で転んでさ、擦りむいた」

「うわ、痛そうだな」

「だろ?その時、床にちんちんもぶつけちゃって、そっちの方が痛くってね。ははは・・・」

 束の間の中休みを、大吾とのくだらない会話で潰していたひろきは、ふと我に帰った。

 ひろきは、大吾の話を流し聞しながら、教室を見回した。

 工藤の姿がない。どこへ行ったのだろう。


「ねえ、高橋くん」

 ひろきは、左後ろから落ち着いた柔らかい声を聞いた。振り返ると、そこにはちょこんと立つ工藤の姿があった。

 ひろきは、身構えてしまった。分かりやすく動揺していた。何故、工藤の方から声をかけてきたのだろう。ストーカーのようにチラチラと見ていたことがバレたのではないか、だから警告をしにきたのではないか。そして、それがトラウマになって死んでしまったらどうしよう。ひろきの頭の中で、ネガティブな思考が駆け巡っていた。


「この前、お母さんに会った?落とした答案用紙を拾ってくれて、しかも丁寧に挨拶してくれた生徒さんがいたって話してて、ユニフォームに高橋って書いてあったらしいから、もしかしてと思って」

「え、ああ・・・うん。あの人、工藤のお母さんだったんだ」

 ひろきは、白を切った。夢で教えてもらったから、その人物が工藤のお母さんであることは知っていたし、なんなら髪型やら格好やらを鮮明に記憶していた。しかし、あの白シャツを着た茶髪の人でしょう?なんてド直球に言ってしまったら、何故そんな詳細に覚えているんだろうかと不信感を抱かせてしまう。

 工藤の顔色を伺いながら、ひろきは言葉を選び、慎重に答えた。

「お母さんが改めてお礼を言っておいてって」

「全然、そんなのいいって・・・」

「そう」

 ひろきが笑顔でそう言うと、工藤は軽く頷いてから自分の席へと戻ろうとした。


「まさか、テストの点数見たりしてないよね?」

 工藤は、フェイントをかけるようにひろきに詰め寄った。ひろきは、その表情からただならぬ圧を感じた。

「いやいや!見てないよ!練習中だったから、疲れて意識が朦朧としてたし」

「・・・そう。とにかく、ありがとう」

 ひろきの答えを聞くと、工藤は冷めたテンションでそう言い残し、すぐに席へと戻っていった。


 ひろきは平静を装い、絞り出したその答えが、工藤を本当に納得させられたのか不安に思った。同級生の男の子に、テストの点数を見られたかもしれないという理由で、ショックを受けて死んでしまったらどうしよう。

「お前大丈夫か?汗だくだぞ?」

 ひろきと工藤のやり取りの一部始終を見守っていた大吾は、隣の席からひろきの顔を覗き込んだ。

「ああ・・・大丈夫・・・」

「工藤に緊張してんの?あ、まさかそういう感じ?好きならさっさと行けよ?」

「お前な・・・どう考えてもそういう会話じゃなかっただろ?」

 ニタニタしている大吾に、ひろきは弱々しく答えた。ムキになる気力もない程、心がぐったりとしていたのだ。


 とりあえず工藤と会話できた喜び1割と、今の会話で死ぬかもしれない不安9割が心を埋め尽くしていた。本当に死んでしまうのか分からないが、どうにかこの不安を払拭しておきたいとひろきは思った。

 既に軽い会話はできた。あとは回数を重ねて、どうにか工藤のご機嫌を取っていこう、そう思いながら机に伏せた。



 部活の準備を整えた大吾が、ひろきに手を振りながら、急ぎ足で教室を飛び出していった。

 陸上部の練習は、今日は休みだ。

 ひろきは欠伸をしながら、ゆっくりと帰りの身支度を整えていた。整えながら工藤の方をちらっと見ると、友人と楽しそうに話していた。安堵したひろきは、近くの席の友人たちに話しかけられ、素直に雑談を楽しんだ。

 ひろきはしばらくその友人たちと話し込み、彼らを部活へ送り出すようにして別れた。


 校内の活気は、いつの間にか外へと移っていた。静かな靴箱から、叱咤激励に包まれながら練習する野球部とサッカー部の姿が見えた。そんな群雄を眺めながら、ひろきは上履きからスニーカーへと履き替えていた。


「あ・・・」

 工藤が一足遅れて靴箱へと降りてきた。

 ひろきは、思わず声を漏らした。工藤と話す願ってもいない好機が訪れたのだが、あまりにも唐突で、戦略もない準備不足で丸腰なひろきは狼狽えた。

「どうしたの?」

「ん、別に。風邪、大丈夫?」

 不審なひろきを、工藤は怪訝な顔で見つめた。追い詰められたひろきは、本能的に口を開いた。思っていたような、そうでないような言葉を口にしていた。

「え、あ・・・うん。大丈夫」

 風邪については問題なさそうだが、ひろきの言葉で新たな問題が発生したような、そんな反応を工藤は見せた。その反応は、照れではなく、嫌悪感を抱いたようにひろきには見えた。

 工藤は目を見開き、眉を一瞬寄せたのだ。その反応を、ひろきは見逃さなかった。


 ひろきは怖くなった。今この瞬間、工藤が死ぬかもしれない。工藤が死んだら、間違いなく自分が犯人になる。

 ひろきは工藤に軽く挨拶をし、そそくさとその場から離れた。

「あ、高橋くん。ありがとう」

 校門の方へと走っていくひろきの背中に、工藤は落ち着きのある声を張った。しかし、ひろきには届かなかった。



 この日の夜、ひろきは机に座り、頭を抱えていた。工藤は生きているだろうか。そして、こんな生活に耐えられそうにないと。夢でその子に会い、この生活から解放するよう懇願できないか。そんなことを考えていた。

 今日1日で得た疲労感は、部活の練習の比ではなかった。何というか、自分が人の命を握っている感覚、そしてそんな自分が握られている感覚。とてもじゃないが、夏休みに向けて胸を躍らせている余裕などなかった。


「ピロンッ♪」

 ベッドに置いたスマホに目をやると、誰かからメッセージが来ていた。開くと大吾からだった。

「おつかれ〜。今日のお前、なんか変だったけど、大丈夫か?夏バテ?」

 本当に大吾は気遣いのできる奴だ。付き合いが長いから、通常運転ではないひろきに違和感を覚えたのだろう。

 ひろきが、寝違えた首を労るようにしていた時も、ちょっとした身体の動きの違いでそれを見抜いた。そんな大吾にとって、今日のひろきの機微を見抜くことは、造作もないことだったようだ。


 ひろきは、何と返そうか迷った。明らかに様子が変だったと勘づかれている以上、何でもないと嘘を吐くことはできない。

 とはいえ、夢のことを明かせば、それはそれで狂ってしまったのではないかと心配されるに決まっている。

 ひろきは、机に置かれた置き時計を見つめながら、数分考えた。

「おつかれー。大したことじゃないんだけど、工藤とあまり話したことなかったから、緊張しちゃって。もう少し仲良くなれないかな?」

 偽りのような本心のような、ひろきにとっては歯切れの悪い文章だったが、こうとしか言えなかった。工藤がネガティブな感情になると死んでしまう、そうならないように見守りたいから仲良くなりたい、なんて言えるはずがなかった。そんなことを言えば大吾は、犯罪予備軍に入団したのだと、ひろきを殴るだろう。


 大吾の返信は早かった。部活が終わり、家でダラダラ横田さんと自分と、交互に連絡を取っているのだろうとひろきは思った。

「だったらさ、やっぱり夏祭り一緒に行こうぜ!工藤も誘って4人で」

「はぁ?いや、ちょっと待て・・・」

 ひろきは、部屋で1人呟いた。会話も儘ならないのに、いきなり遊びに誘うなんて、いくら何でもハードルが高すぎる。それに工藤にとってひろきは、現状友人の1人でも何でもない、他人程度のものだろう。急に馴れ馴れしく接して、印象が悪くなるのはまずい。


 ひろきは、このデスゲームの根幹に気が付いていた。そう。工藤に嫌われたら、ゲームオーバーなのだ。この先の人生の壁を取り除ける、重要人物から外れてしまうからだ。

「全然話したことないし、仲良くないんだよ?いきなり夏祭りは厳しいって。まずは色々話してからだろ?」

「いや、仲良くなるために遊びに行くんじゃん。出店回ってれば会話も弾むっしょ!」

 ひろきと大吾は、卵が先か鶏が先かのような議論を交わした。慎重派のひろきには、大吾の理論が理解できなかった。

 しかし、大吾は人気者であるという事実がある。発言にいくらか説得力があることは否めない、ひろきはそう思った。

「あ、じゃあさ、大吾から誘ってみてよ!」

「無理無理。工藤とそんなに喋ったことないもん。だから頑張って〜!」

 危なかった。大吾も、ひろきと同じくらい工藤と接点がなかったのだ。人気者という隠れ蓑のせいで、ひろきは騙されるところだった。

 ひろきは不満げな表情で、スマホの画面を責め立てるように人差し指でグイグイと押した。


 ひろきは、話を白紙に戻す旨のメッセージを送ったが、大吾からの返信はなかった。



 翌日、ひろきは登校してきた大吾を即座に捕まえた。

「おい、どうすんだよ」

「どうするって何だよ、さっさと誘ってこいよ」

「やっぱおかしくない?急に夏祭り誘うって。しかも、お前と横田さんはカップルだろ?工藤はそうじゃないんだぞ?」

「あ〜。・・・それもそうか。じゃあ、大和と康二も誘おうぜ」

「・・・まぁ、それなら。でも、横田さんはそれでいいの?そもそも大吾と2人で行きたいんじゃないの?」

「なんだよ、そんな心配してたのかよ。大丈夫。他の夏祭りは2人で行くことになってるから」

 ひろきの夢のことなど微塵も知らない大吾は、夏祭りの予定を立てることを純粋に楽しんでいた。ひろきは、そんな様子の大吾を見て、ため息を吐いた。そして、視線を窓際へと移し、数秒経ってから思い出したように口を開いた。


「いや待てよ。倉田がいるぞ」

「・・・あぁ、なるほどね」

 ひろきの言葉に、大吾はニヤリとした。

 倉田とは、倉田ゆうのことだ。ひろきと大吾、そして工藤と同じ3組で且つ工藤と同じ合唱部でもある。そして、ひろきと大吾とは同じ小学校出身であり、知った仲だ。しかも幸いなことに、倉田と工藤は仲が良く、ほとんど一緒にいる。


 ひろきにとって、倉田の存在は大きかった。何故なら、仮に工藤と仲良くなれなかったとしても、倉田経由で工藤の近況を知ることができる。そうすれば、何らかのサポートが可能だろう。

 言い方は悪いが、倉田を利用しない手はない、ひろきはそう思った。

 倉田は、2人の架け橋だ。

 倉田が夏祭りに行くと言えば、工藤も来るだろう。大吾と横田のカップルと一緒に行くのだから、それに誘われた工藤は、きっと告白か何かされるのかもしれないと変な気を遣うに決まっている。それで動揺されたら、たまったものではない。そんな冤罪は御免だと、ひろきは思っていた。

 しかし倉田がいれば、その心配はない。


「なぁなぁ、倉田。ちょっといいか?」

「ん・・・うん。どうしたの?」

 休み時間。ノートを広げ、真面目に予習をしていた倉田に、ひろきは声をかけた。倉田は、掛けていた眼鏡を外し、机の前に立ったひろきを見上げた。

「大吾と町内会の夏祭りに行くんだけど、倉田も一緒に行かない?」

「あんたたちの近所のあの団地の?懐かしいね、小学生の時以来かな。いいよ!行く!」

 倉田は溌剌と答えた。


 倉田は工藤と対照的で、よく喋るタイプだ。言うなれば、女子版大吾という感じの雰囲気なのだが、成績優秀という点だけが大吾とは異なる。

「おっけー!大吾と横田さんと、たぶん大和と康二もいるから、みんなにも言っておく」

「横田さん・・・ってあの吹奏楽部の?本当に大吾と付き合ってるんだ。大丈夫?ウチら邪魔じゃない?」

「そう思ったんだけど、大吾が大丈夫だって。でさ・・・その・・・工藤も一緒にどうかなって。2人仲良いじゃん」

 ひろきと倉田の会話はスムーズだった。幼馴染みの慣れたテンポ感で、ひろきは大吾と話しているような気分だった。

 だからこそ、違和感には敏感になる。倉田は、ひろきの言葉の違和感に即座に反応した。


「なつ?あんたの口から、何でなつの名前が出るの?仲良かったっけ?」

「え、いや、別に・・・」

 倉田の席は工藤の席と同じ列にある。窓際の倉田の席から、真横に視線を向けると、工藤がいる。

 倉田は、隣の席の子と雑談している工藤の方をちらっと見てから、訝しげな表情を浮かべてひろきの方を向いた。

「へぇ、そういうことね。随分と小賢しいことするようになったね。ウチを出しにして、なつに近づこうってわけか。何、好きなの?夏祭りに告るって作戦?」

「ち、違うっ!」

 ニヤニヤしている倉田に、ひろきは分かりやすくムキになった。こういうところが、まさしく大吾なのだ。本当に工藤に対してそんな気がないひろきにとって、大吾と女子版大吾の存在は厄介だった。

 何故、そんな短絡的な思考になるのか。大吾はさておき、女子版大吾は成績優秀者なのにも関わらず、男女間のこととなると盲目になってしまうというか、馬鹿になってしまうようだと、ひろきは呆れ返った。

「分かった分かった。誘っておくよ。ちゃんとひろき君からって言ってあげるから。じゃ、ラムネ1本ね!」

 倉田はそう言って、お手洗いに立った。ひろきは、いらないことはするなと念を押すように倉田の背中を睨んだ。


 その後、倉田と工藤が楽しそうに話している姿を何度か確認したが、結果は分からないまま1日を終えた。



 部活を終えて、汗だくになって帰宅したひろきは、バッグを部屋に投げ入れ、すぐに風呂場へと向かった。シャワーで汗と疲れを流すと、部活に集中していた頭は、ガラッと切り替わった。


 倉田は工藤を誘ったのか、急にそのことが気になり出した。

 部屋へと戻ったひろきは、スマホの通知に気が付いた。倉田からだろう、ひろきはそう思い、動悸を感じながらスマホを開いた。

「おつかれ〜!大和と康二、行けるって!」


 大吾からだった。期待していたひろきは気抜けした。

「何だよ・・・お前じゃねぇよ・・・」

 今までのひろきなら、大和と康二が夏祭りに来られるという吉報で飛び上がっていたはずだ。しかし、倉田からのメッセージしか受け付けない、まさにコーラ中毒者のようなひろきにとって、その情報はただの水のようだった。


 しかし、やきもきしていても仕方がなく、ひろきは気を紛らわすためにオンラインゲームを始めた。相手を倒すということに程よく集中できたひろきは、倉田と工藤のことを意識から外し、その後、眠りにつくまでの流れをスムーズにつくることができたのだった。



 夏休みまで残り3日。有給休暇で夏休みの前倒しをするサラリーマンのように、仮病で早めの夏休みに入った者が、ちらほら出始めた。

「今年の夏休み、何だか新鮮だなぁ」

 大吾がしみじみと呟いた。

「新鮮って?」

「瑠花がいるからさぁ」

「惚気かよ、クソが」

 ひろきは大吾の頭に、丸めた消しカスを投げつけた。

「やめろって!まぁ、それだけじゃなくて、地元の夏祭りって、ひろきと大和と康二と俺、4人以外で行ったことなかったじゃん」

「確かにね」

「それが今年は7人だもんな!」

 ひろきは、大吾の言葉で思い出し、すかさず口を挟んだ。

「いや待った。工藤は分からない。倉田からまだ結果聞いてないんだ」

 ひろきはふと、倉田の席の方へと目をやったが、席にはいなかった。そのまま視線を右に移してみると、工藤はいた。静かに机に向かって何か作業をしているようだった。


「そんなジロジロ見ちゃって」

 ひろきと大吾は、ビクッとして振り返った。2人の席の間でニヤニヤしている倉田の姿があった。

「びっくりした!何だよ急にさ!」

 大吾は、倉田に向けて丸めた消しカスを投げた。倉田は、お団子ヘアを左右に振った。

「汚なっ!いや、夏祭りの話をしに来たんだよ」

「早く連絡してこいよ。待ってたんだぞ」

「昨日の夜、連絡しようと思ったんだけどさ、悶々としてるひろきが見たくなったから、するのやめたの」

 倉田は、小馬鹿にしたような笑みを浮かべてひろきにそう言った。

 ひろきは、倉田に丸めた消しカスを投げつけた。

「ねぇ、やめてって!で、なつはダメだった。家族旅行と重なってるらしくて。誘ってくれてありがとうって伝えてって」

 肩についた消しカスを払い落としながら、倉田はそう言った。

「そっか」

「残念だったな、ひろき」

 大吾は、ひろきの肩をガシッと掴んだ。ひろきの穏やかな口調から哀愁を感じ取ったのかもしれないが、実はそれは安堵からくるものだった。


 家族との旅行で、何かに絶望するなんてことはないだろう。

 夏祭りのメンツは、工藤にとっては初対面の感覚に近い。だからどんな障壁があるか分からない。断然、家族旅行の方が安心である、ひろきはそう思い、安堵していたのだ。

「ウチは行っていいの?」

「もちろん!行こうぜ!」

 工藤が目的で出しにされたと思っていた倉田は、心配そうに尋ねた。大吾は、それに屈託のない笑顔で答えた。

「ああ、来いよ!」

 ひろきもまた、笑顔だった。

 倉田は満足そうな顔で、席へと戻っていった。


 ひろきは、束の間の休息というか、やっと少し解放されたようなそんな気分でいた。工藤の夏休みの予定には、常に倉田がいるようだった。倉田を含む数人で遊ぶ予定がいくらかあるらしく、それ以外は部活で埋まっていた。倉田が常に一緒なら安心だ。

 それに、勘違いをしている倉田は、何か問題があればすぐに連絡を寄越すだろうとひろきは考えていた。

 こうして、何とか無事に夏休みを迎えることができたのだった。



 ジリジリと肌を突き刺す陽の光と蝉の声が、実に煩わしい。そんな鬱陶しい空気の下、部活でただ走る日々をひろきは送っていた。


「お邪魔しまーす!あ〜涼しいなぁ!」

 部活が休みの日、大吾がひろきの家へとやってきた。ひろきの部屋へ入った大吾は、床に座り込み、冷房の音と窓の外から微かに聞こえる蝉の声に、耳を傾けていた。

「ジュースなかったわ。麦茶でいいか?」

「全然いい!サンキュー!」

 ひろきは、氷を多めに入れたグラスに麦茶を注ぎ、机の上に置いた。大吾は、ひろきの家までの道中で失った水分を補おうと一口飲んだ。

「大吾、だいぶ焼けたな」

「夏合宿だったからな。ひろきも珍しく焼けてんね」

「お前ら野球部よりは練習緩いはずなんだけど、年重ねるごとに暑くなってる所為で、短時間でこれよ」

 2人は褐色の腕を見せ合った。大吾の腕が、心なしか太くなっている気がしたひろきは、自分の腕の細さに小っ恥ずかしさを感じ、すぐに引っ込めた。


「夏祭り、明日か〜。楽しみだなぁ。俺好きなんだよ、あの空気」

「さっきチラッと覗いたら、もう屋台と櫓は組み終わってた。分かるよ、行かないと夏休みって感じしないよな」

 ゲームに夢中になりながら、大吾はポツリと呟いた。ひろきはベッドに横になり、漫画を読みながら答えた。そして机に置いた2つのグラスが、カランと音を立てて2人の会話に入った。

「そういえば、横田さんとどう?」

「ん、まぁ仲良くやってるよ。毎日連絡取り合っててさ」

「ふーん・・・」

「・・・工藤のことは、また別の機会にな」

「だから、そんなんじゃないって・・・」

 お互い別のことをしながら、平々凡々な会話も楽しんでいた。これも夏休みの醍醐味だ。

 2人は少年ながらも感慨に浸っていた。


「ピロンッ♪」

 ひろきのスマホが鳴った。ひろきは、漫画を閉じて、むくりと起き上がり、そしてメッセージを開いた。

「倉田からだ。明日の集合時間の確認か?」

「そうか、まだ決めてなかったな」

 目を通したひろきは、肝を冷やした。真夏の怪談で得られる恐怖と同等に感じられた。

「これはヤバい・・・!」

「ん、何?あ、死んだ!あ〜あ・・・」

 大吾は、ゲームオーバーの文字を目の前に天井を仰ぎ、そしてひろきの方を向いた。


「倉田からのメッセージ、そのまま読むよ。『やっほー!明日の夏祭り楽しみだね!それで、待ち合わせって15時にひろきの家の前でいい?あとやっぱり、なつも来ることになった!旅行先に台風が近づいてきてて、親の仕事の都合もあるから1日早く帰ることにしたみたい。だから明日の祭りに行けるって。良かったねひろき!』だってさ・・・」

「おお!良かったねひろき!」

 倉田からのメッセージは、ひろきに暗雲を呼んだ。平穏な夏休みを過ごすことができるはずだった。そう思ったひろきは狼狽えた。

「どうしよう、マジで・・・」

「どうしようって何が?あ、なんて告るかって?そうか、来ないと思ってたから考えてなかったのか。いいよ、俺も考える!」

 大吾は目をキラキラとさせていた。


 他人の青春に首を突っ込むことは、甘美なことだ。青春は甘酸っぱいと言うが、本人からすれば、甘いか酸っぱいかの2択だ。恋愛なら、付き合えれば甘いし、振られれば酸っぱいといった感じだ。

 しかし、他人からすれば、どちらに転ぼうが甘いのだ。振られても、頑張った姿にキュンとする、それが他人の青春というやつだ。

 ひろきは、そんなことを思いながら、今の自分は青い春ではなく、白い夢に悩まされているのだと、大吾に向かって心の中で叫んだ。

 ただ、酸っぱいという点では、青い春も白い夢も同じだった。


「あ、待って!瑠花から電話だ!もしもし・・・」

 大吾はそう言って、ひろきの部屋を慌てながら出ていった。

 ひろきは麦茶を一口飲んだ。何だか波乱の予感がしていた。こういう勘は当たる、そう思いながらベッドに倒れ込んだ。

 そしてひろきの予想通り、やはり倉田のメッセージは嵐を呼んだのだった。

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