第22話 喪失少女
「あなたの名前はナナ」
誰かの声が聞こえる。聞き覚えのない声だ。
「おはようございます、ナナ」
ナナは目を覚ました。意識がぼんやりとしている。朝には強いはずだったのに、二日酔いのような目覚めだ。
ナナは酒なんて滅多に飲まない。昨日も飲んでいないはず。なのになぜこうもぼんやりしてしまうのか。
「ナナ……」
ナナは自分の名前を口に出して呟いてみた。はて、自分はそんな名前だっただろうか。あまりしっくりこない。
ようやく視界が鮮明になってきて、ナナは目の前の女性の顔を認識した。
よく整えられたネイビーの髪に、かっちり着こなされた上品な装い。瞬きをしていなければ人形ではないのかと疑ってしまうほど美しく完成された顔立ち。
やはり見覚えがない。こんな美女は一目見たら覚えるはずなのだが。
ナナは頭を押さえた。どうにも記憶が混濁している。私はだれだ。ここはどこだ。この女性はだれだ。
「おはようございます、ナナ」
「おはよう……」
とりあえず挨拶を返す。ナナは目の前の女を信用するつもりは一分子もなかった。
「私はビビ」
「……」
ビビと名乗る女は名前だけ吐き捨てて黙りこくった。
ナナは気取られない範囲で周囲の様子を探る。
ここは……倉庫だろうか? そこそこ広い空間に棚やら箱やらが置いてあって雑多なものが詰め込まれている。
そしてこの空間にいる人間はナナとビビだけではない。
他にも三人の気配を感じ取ることができた。視界の端で彼らを観察すれば、床に捨てるように転がり、手足は縄で拘束されていた。
明らかに――異常だ。
ナナはビビへの警戒心を強めた。この女はこの場で唯一自然体で余裕がある。
ナナは攫われたのだろうか。記憶を遡ろうとすればズキズキとして鈍痛に襲われた。
ビビが口を開く。
「私と友達になってくれませんか?」
「……は?」
理解できない。気が狂っているのだろうか。あまりに状況にそぐわない台詞に、ナナの脳みそはすぐには音を言葉に置換しなかった。
「私は強い冒険者で、真面目で、気が利きます。性格が良いとエディに褒められたこともあります。容姿についても……」
「……」
だからなんだと言うのか。突然始まった自己アピールにナナはついて行くことはできなかった。エディとは誰だろう……
「私と友だちになった場合のメリットは他にもたくさんあります。私はランク5の賢者で、この世のあらゆる魔術を行使できます。あなたの頼み事のほとんどは指を振れば解決できるでしょう」
表情をピクリとも動かさずに淡々と語るビビ。
恐ろしい。ナナは心の底から恐怖を感じた。記憶が思い出せないのもこの女が原因に違いなかった。
ふと、ナナは床に描かれた奇妙な文様に気づいた。これは――魔法陣だ。匂い立つ血と古い時代の文字で描かれた魔法陣、邪術か禁術に間違いなかった。
「私と友だちになってくれませんか?」
ナナは首を激しく縦に振った。この女の機嫌を損なうわけにはいかない。
動いた拍子に胸元に固い感触を感じた。咄嗟にそれを握る。十字架のネックレスだった。両手で握るようにして祈りを込める。神よ、我を助けたまえ。
ビビはじろりとナナを見据えた。
「本当に、私と友だちになりたいと思っていますか?」
「……」
ナナの声帯は凍りついたように動かない。はいと答えれば喰われてしまいそうだ。いいえと答えれば殺されそうだ。
ビビは深々とため息をついた。
「記憶を失わせる魔術は成功しているようですが、友だち作りの方は失敗です。人との会話というのはなぜこんなにも難しいのか…… 魔術の方がよっぽど簡単ですね」
記憶を失わせる魔術。ナナはそんなものを聞いたことはなかった。絶対禁術だ。
「ああ、もういいですよ。おやすみなさい」
ビビが指を鳴らした。ぱちんという軽やかな音を最後にナナの意識は霞に覆われて行く。手の中の十字架の感触だけが救いだった。
▼△▼
「おはようございます」
聞き覚えのない女の声で目を覚ました。毛布を一枚敷いただけの固い床の上で寝ている。体が痛いが、それよりも頭が痛い。
それでも体を起こして、声の主を見た。ハッとするほど美しい女性だ。
「私はビビ。あなたは……ハチ」
「ハチ?」
ハチってなんだろう。人の名前として使われる音の組み合わせではない。
「あなたの名前はハチです」
ビビの有無を言わせない口調により、まだ半分しか活動していない脳細胞は思考を放棄して受け入れた。私の名前はハチだ。
「おはようございます、ハチ。体は大丈夫?」
それがハチを案ずる言葉だということに、ハチは数秒かかってようやく気づいた。あまりにも無表情すぎたのだ。
「……ええ、少しだるいけど大丈夫。あなたは……?」
それは曖昧な質問だった。あなたはだれ。なぜここに。そういう疑問を全て含んだ質問だ。
「私はビビ。あなたの友だちです。あなたは……頭を強く打ちました」
「そうなんだ」
頭を打った。それは今もハチを苦しめる頭部の疼痛の説明としては納得のいくものだった。
「記憶がはっきりしないのもそのせいかな」
「きっとそうでしょう」
頭蓋骨の中でたくさんの疑問がぐるぐると回りぶつかりあっている。
「ここはどこ?」
「……病院です」
「……」
とてもそうは見えなかった。病院にしては雑多すぎるし、棚の陰から巨大な刃物が幾つも見えた。メスにしては大きすぎる。
この女を信用してはいけない。体中の細胞がそう叫んでいた。
ハチは手の中に固い金属があることに気づいた。それは十字架だった。神の祝福を授けられた十字架のネックレスだ。
ぎゅっと握り込めば混乱や不安がすっと和らいでいく。ハチは神に祈った。どうか我を助けたまえ。
祈りを捧げれば、何かが帰ってくる。言葉で表すのは難しいが、このネックレスは神の力がこもったものに違いなかった。『大丈夫、私がついています』と囁かれているような気がする。
「……何を持っているのですか?」
ばれた。
恐ろしい女はハチの最後の希望を見逃すことはなかった。
「これは……その……」
「……べつに構いませんよ、十字架を握るくらい。なかなか力のこもった品のようですね」
良かった。取り上げられると思った。意外と優しいのかもしれない。
「あの、ビビさん。陽の光を浴びたいんですけど」
ビビはゆっくり首を横に振った。
「ビビと呼び捨てにしてください。それから敬語も不要です。友だちなのだから」
「……そう。……それで、陽の光を浴びたいんだけど」
ビビは首を横に振った。
「外に出すことはできません」
ハチは絶望した。この女はやはり悪き存在だ。逃れることはできない。
「心配することはありません。日光を浴びずともあなたの健康は完璧に管理されています」
そこに安心できる要素など一つもなかった。ハチは体の芯から震えた。何も思い出せないままここで人生が終わるのだと悟ったのだ。
ビビは深々とため息を吐いた。
「友だち作りは成功しましたが、この方法は記憶をなくした相手にしか通用しません。あまりに限定的すぎる。実用性に欠けますね」
「……」
「ご協力ありがとうございました。おやすみなさい」
ビビが指を弾いた。ハチの意識に靄がかかって行く。
▼△▼
恐ろしいほど美しい女が言った。
「おはようございます。あなたの名前はクです」
ぼんやりした頭で思う。
そんな名前あるかっ!
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