第8話 契約少女
神っていうのは、そうそう人間界に現れるものではない。七つの世界のうち人間界は最も弱く、最上位の存在である神の介入に耐えられる作りではない、らしい。神話のことなのでよく知らないが……
なかなか数奇な人生を歩んできた僕でも、神を直接見たのは一度きり。魔王討伐後に勇者のもとへ創造神が降臨してきたという一度だ。
そのときでさえ創造神は朧げな霧のような姿だった。ましてやこの人間界に実体を持って受肉するなんてことがあるはずがないのだが……
僕の目の前には縄を解かれてソファに座って足を組み、こちらを見下ろしている自称神がいる。
びしょ濡れになっていた黒い装束は部屋の隅に干され、今はヴァイオレットから借りた白いシャツと水色のロングスカートを着ている。金色の瞳も相まってこうなるとオフィーリアとは同一人物のようにはまったく見えない。
これは幻でも夢でもない。五感全てが上位次元の存在の圧迫感を感じ取っている。いったいなぜ……
ヴァイオレットがぼそりと呟いた。
「依代体質……」
依代体質。聞いたことがあった。おそらくランク7よりもずっと珍しい存在だ。
人間の精神は神と接触するとその”格の違い”によって押し潰される。実際僕も創造神降臨の際は死ぬかと思って最初の一瞬以降は目を瞑り耳を塞いでいた。
アリス=マリア様からの神託だってそうだ。ランク7の体でさえ言葉を聞くのが限界である。低ランクの頃に神託を受けて死にかけたのは笑えない思い出だ。
しかし依代体質の人間はそうではない。会話はもちろん、神の意識をその身に降ろすことさえできるのだ。
つまり、ジヴァーナムが受肉したわけではなく、オフィーリアという少女の体を借りて動いているというわけだ。
オフィーリアの体を得た復讐と破滅の神ジヴァーナム様は実家のような気軽さでくつろいでおられる。
「お腹減ったのじゃ! こやつ、全然飯を食わんくてな。何かないか?」
こやつ、とはオフィーリアのことだろうか。
「もしあれば、新鮮な心臓が一番力が出るのじゃが……」
新鮮な心臓? 邪神だなあ……
「私、取ってきます。一角猪のハツが残っているので」
ヴァイオレットがキッチンへ小走りで駆けていく。動きから緊張しているのが分かった。僕もそうだ。高次元の存在を前にして鼓動が収まらない。
「うむ。――いつまでも突っ立ってないで座るが良い」
この家の主人は僕のはずなのに。そんな感傷は一瞬で押し流され、僕は促されるままジヴァーナムの向かいに座る。
「ぜんぶ見ておったぞ」
「ぜんぶ、とは?」
「そりゃあぜんぶじゃ。昼間に海辺で出会ったところから、今の今まで。可愛い信徒にずいぶん乱暴してくれたではないか」
「すいません……」
縋りついてくるオフィーリアを蹴飛ばしたり、背後から襲って眠らせたり、縛り上げて辱めたり。なかなかあくどいことをやってしまったが、大丈夫かな。まあこのくらいならされても我慢できるけど。
「謝罪など必要ない…… ただ求めるのは一つ、その血をもって贖うこと!」
ジヴァーナムの気配が膨れ上がっていく。神気が増大して眩しくさえ感じた。
「
「――ッ!」
呪いは完成した。紫色の光は何にも阻まれることなくジヴァーナムの指先に収束し、そこから僕に向かって光線が放たれる。
その光線は真っ直ぐ僕の胸に撃ち込まれた。
「……」
しかし何も起こらない。痛みもない。これどうなるんだろう。
沈黙に耐えかね僕は頭を掻いた。そのとき、ふとしたはずみで小指が机の脚にぶつかる。
「いたっ……」
「ふはははは! これが呪いじゃ! 恐れ入ったか!」
しょ、しょぼい……
いったい僕がした仕打ちの何十分の一の復讐だと言うのだろうか。あまりに効果が薄すぎる。小指をぶつけるだけなんて。
「それで、魔王の卵はどこにおる」
ジヴァーナムは美しい唇を吊り上げて、こともなげに「魔王の卵」と口に出してみせた。しかし僕は落ち着いてはいられない。邪神がクリスを探しているのだ。
「……ここにはいません」
「嘘をつくとはいい度胸ではないか。まあいい。会わせたくないというのならな。いずれ機会はあるだろうて」
扉が開く。ヴァイオレットがお盆を持って戻ってきた。
「お待たせしました……」
「うまそうではないか!」
ジヴァーナムの前に、湯気を放つ紅茶の入ったカップがそっと置かれる。横には菓子と赤黒いグロテスクなハツが添えられた。
彼女は目を輝かせながらカップを持ち上げ、その縁に唇を触れさせて――
「あつっ!」
涙目になって跳びあがった。
「あっ、すいません、よく冷ましてから召し上がりください……」
「おんな! よくもっ!
紫色の光線が迸り、今度はヴァイオレットの胸元へ吸い込まれていく。ヴァイオレットは顔を歪めて直撃した胸元を押さえ込んだ。
「ビビッ! どうした!?」
「いや、なんともないのですが……」
「本当に? どこも大丈夫?」
ビビは若干の困り顔で右の指先を撫でた。
「強いて言うならば、たった今ささくれが出来ました……」
「え?」
「ささくれです」
ヴァイオレットは指先を僕に見せてくれた。右の人差し指の爪の端にぴょんと柔い爪のような硬い皮のようなものが飛び出している。ささくれだ。
僕はヴァイオレットと目を合わせた。
しょ、しょぼい……
口をすぼめて息をフーフーと吹きかけるジヴァーナム。僕はそれを何とも言えない気持ちで見ていた。
念入りに冷ました紅茶を味わいもせずに流し込み、茶菓子をバリボリと口に詰め込んでいく。視覚情報だけであれば、年頃の少女が親に隠れて夜食を貪っているようにしかみえないだろう。
だが目の前にいる僕は圧倒的存在感を押し付けられ続けているのだった。間違いなく神。それも呪いを振り撒く邪悪な神。しかし、僕の心の内にあった恐れは既に消えかかっていた。
ジヴァーナムは舌舐めずりしながら一角猪のハツを睨め付けた。
「冷凍じゃな…… しかし久しぶりで美味そうじゃ」
ジヴァーナムは皿を持ち上げスプーンで流し込むように頬張る。すごい勢いだ。きっとろくに噛みもせずに飲み込んでいるだろう。
しかし喉が動くたびにジヴァーナムの存在感がより大きく濃く強くなっていくのを感じる。心臓を食べて力を増しているのだ。
ていうか邪神が力を増して大丈夫だろうか? ……まあいいか。どうせ弱いし。
ヴァイオレットはソファには座らず、僕の後ろに立って、僕の肩に手を乗せた。手から怯えが伝わってくる。ランク5の彼女が神の前にいるのは、僕よりも辛いに違いなかった。
いったいどうしたらいいんだ、この状況。
「それで本日はどのようなご用件で……」
あっという間にすべてを平らげたジヴァーナムは口の端についたカスをぺろりと舐めた。
「なに、魔王の卵にクラスを授けようと思ってな」
「いや、ちょっと、遠慮しておきます……」
「なんでじゃ!? 神自らクラスを授けようなんて、滅多にあることではないであろう!」
「いや、邪神なので……」
「邪神ではない!」
邪神はみなそう言うものだ。ジヴァーナムは体をぐいっと乗り出し、僕を威圧してくる。
邪神っていうのは生まれながらにして邪悪だったわけではなく、普通の神様が何かの拍子に堕天してしまって発生する存在である。だからこそ己を邪神であると自覚しているはずなのだが……
「次に邪神などと貶めたら、その身をバラバラに引き裂いて犬に食わせてしまうぞっ!」
……めっちゃ悪役の台詞だ。清々しいほどに邪神である。これで邪神じゃないは無理があるだろう。
うーん。どうやってお帰りいただこうか。
自分のことを邪教徒だと勘違いしている可哀想な少女であるという可能性は消えたので、いっそこの場で殺すことにも抵抗は感じない。
ただ、どうせオフィーリアが死ぬだけでジヴァーナムが消滅することはない。そのあと目をつけられるのも面倒だし……
やっぱりもう一度ふん縛って教会に差し出そうか。びびって縄を解いてしまったが、そもそも解くべきじゃなかった。
「ビビ」
僕の後ろに立つ彼女の名前を呼び、視線を交わす。それだけで僕たちは通じ合った。僕は立ち上がってジヴァーナムを見つめる。
「ジヴァーナム様、落ち着いて聞いて欲しいのですが――」
そのとき、扉が開いた。
顔を出したのは寝ぼけ眼を擦るクリス。
「ししょう? ヴァイオレットさん? この方は……オフィーリアさん?」
ジヴァーナムは生き別れた恋人を見つけたかの如き笑顔で、クリスに飛びつこうとする。
まずい。
しかし間に合わない。ジヴァーナムは僕よりもずっと早く動き出していて、その位置もクリスに近い。
僕はランク7の敏捷性を存分に発揮して二人の間に割り込もうとするが、寸前で――
ジヴァーナムの手がクリスの手を掴んだ。
「契約じゃ! クラスをやろう!」
その黄金の瞳が眩く輝き始め、僕は目を瞑ることを余儀なくされる。閉じた目蓋の裏で閃光が瞬いた。光が落ち着き、目を開く。
意識を失ったオフィーリアの体は自由落下に任せるまま床に迫り、僕は滑り込むようにその体を支える。くそっ、なんで僕が邪教徒を助けなければならない。しかし彼女は今や貴重な依代体質で重要参考人だ。殺すわけにはいかない。
そしてクリスは――
「すごい、これが加護、これが寵愛――今までとぜんぜん違う…… この力があれば私は……」
おいおいおいおい。大丈夫だろうか。
手を握って開いて体の調子を確かめている。顔には笑み。
「クリス、大丈夫? どこかおかしくない? 邪悪な声が囁いてきたりはしない?」
「は、はい。ぜんぜんそんなことは……」
戸惑ったように僕を見つめ返すクリスの表情はいつも通りだ。魔王の気配もしない。今すぐ問題が発生するわけではなさそうだが……
「私よりもオフィーリアさんを……大丈夫ですか?」
「だいじょぶだいじょぶ。寝てるだけだから」
知らないけど。オフィーリアの体を放り投げるようにソファの上に置き、机に向かってその引き出しの中から大きな水晶を取り出す。最高級の見通しの水晶だ。
「おそらく新しいクラスを与えられたはず。さあクリス、目を瞑ってこれに触れるんだ」
「クラス…… はい!」
クリスは緊張を顔に出して唇を引き結んだ。しかし上擦った声からは期待と歓喜が漏れ出ている。自分の身を満たす加護――剣士の頃とは一線を画す寵愛の量に興奮しているのは明らかだった。
目蓋をぎゅっと閉じて、その指先が水晶に触れる。水晶内のモヤがうねうねと動いて文字の形を作っていく。
ヴァイオレットも僕の隣からそれを覗き込んだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
クラス:復讐者 ランク:1
隠しクラス:魔王の卵 ランク:22
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
うおおおおお!
すごく下がってる!
22なんて初めてだ!!!
クラスは復讐者に変わっているが、それが霞むほどの隠しクラスのランクの下降ぶり。
これはおそらく、邪神とはいえ神からの寵愛を身に宿してクリスが将来を楽観的に捉えることができるようになったためだろう。
「クリス、もう大丈夫だ」
僕はさっと水晶を隠し、机の中にしまい込む。開かれた桃色の目は物欲しそうに水晶を追いかけたが、これを見せるわけにはいかない。
「新しいクラスは復讐者。詳細はよく分からないけど、そこの女――オフィーリアが起きたら説明してもらおう」
「復讐者…… 師匠、なんだか無理やりなクラスの授与でしたけど、邪神かもですけど――認めてくれるのですか?」
期待で揺れるクリスの瞳。
彼女が求める答えはたった一つだ。そして、そうでないものを突きつける勇気を僕は持ち合わせていない。
「ああ、そうだね。こうなった以上認めざるをえない」
「やった!」
女の子らしく小さく跳ねるクリス。今日の昼間の号泣からは想像できない喜びようだ。
「ただ今後どうなるかは予測できない。僕が辞めると言ったら、すぐそのクラスは捨てること。分かった?」
「はい!」
「まあ全部明日からだ。もう深夜だからゆっくり寝て、明日の朝話そう」
「わかりましたっ! 師匠、ヴァイオレットさん、おやすみなさい!」
クリスは笑顔のまま頭をぺこぺこ下げながら去っていく。扉が閉まるのを確認して、僕は椅子にへたれこんだ。
「疲れた…… 疲れたよ、ビビ……」
「私もです」
クリスはとりあえずの
ソファで眠るオフィーリアに目をやる。可愛らしい寝顔だが、一度目を覚ませば変人だ。さらに邪神もおまけでついてくる。
ああ、上手くやっていける気がしない。
「ビビ、僕が死んだら遺産はすべて君に贈るよ。死体は灰にして海に流してくれ……」
「……エディ。そんな弱気なこと言わないでください」
ヴァイオレットは僕の肩に手を置いて凝った筋肉をほぐしてくれる。
「頑張りましょう。――地獄で先に待っていてください」
「……使い方間違ってるよ」
それ励ましの言葉じゃないから。
「……? ――地獄で先に待ってますね」
「それも違うね」
ヴァイオレットは昔からお茶目なところがある。素なのか、冗談なのか。僕には分からない。分からないことだらけだ……
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