第5話 号泣少女
僕とクリスの職探しは三日目に突入した。
受け入れ先はまだ……見つかっていない。
今日の空は厚い灰色の雲に覆われている。湿っぽい空気のせいで不快さが増していた。
こんな気分になるのは僕がまだ子供だった頃、この混沌とした街の冒険者ギルドの解体場で生肉をしゃぶっていた時代以来だ。まったく先が見えない。
「いこう。ここは見る目がなかったということだよ」
クリスの手を引いて強引にその神殿に背を向けさせる。水の上の浮かぶように作られた神秘的な建物は、水と救済の神ロコンの神殿だ。クリスは足元を見つめて唇を噛み締めていた。
この三日間でクリスが訪ねた神殿の数は百を超えた。剣を扱うクラスという最初の希望も取っ払い、僕の知る神殿を虱潰しに試しているが、当たりはない。
僕は懐からリスを取り出した。ジグザグとした縞模様が特徴のシマリス――ハムくんだ。
「ほら、ハムくんでも撫でて落ち着くんだ」
クリスの空いた手にハムくんを押し付ける。ハム君はきゅうきゅうと鳴いた。クリスはハムくんを目線の高さまで持ち上げて、震える唇を開く。
「ハムくん、やっぱり私、ダメなのかな。冒険者としての才能がないのかな。どこに行っても才能がないから帰れって言われるんだ。どの神様も受け入れてくれない。なんでなんだろう……」
ハムくんはまんまるな瞳を瞬かせた。
「ハムくん、どうして喋ってくれないの? 前はあんなに元気に話してたのに…… もしかして私のこと嫌いになった……? ハムくん、返事してよ……」
あのときのハムくんの中身は僕だったんです。ほんとは喋れません。とは言えない。
「クリス……」
「師匠、わたし……」
ぼろぼろと涙がこぼれてクリスの頬を濡らした。水と救済の神ロコンは落ちこぼれたものに救いを与えることで有名だ。口には出さなかったが、クリスにも期待するところがあったのだろう。
これは、限界だ。
「才能がない」という言葉はクリスには禁句だ。これ以上浴びせ続けてはいけない。心が壊れてしまう。そうなるくらいなら剣士として育てた方がまだマシだ。
昨夜測ったとき、クリスの隠しクラス「魔王の卵」のランクは87まで上昇していた。
パーティーに追放された直後が93であることを思えば信じがたい伸び方だ。あのとき間違いなくクリスはどん底にいた。今は僕という師も得て、柔らかいベッドと美味しい食事もある。なのになぜ87まで上がってしまうのか。
理由はなんとなく分かる。
僕のせいだ。僕はクリスに才能があると言葉をかけ続けた。それは一時的には精神に安定をもたらしたが、同時に真面目なクリスに焦燥と責任感を感じさせてもいたのだ。師匠の期待に応えなければいけない、師匠の言葉が正しいと証明しなければいけない、僕に恩を返さなくてはいけない、と。
僕はとりあえず、岸辺のベンチにクリスを座らせた。
「いったん座ろうか」
顔を手で覆うクリス。その背中を撫でる。ハムくんはどこかへ走り去って行った。
僕たちの目の前には雄大なる首切り海峡――北大陸と中央大陸を分かつ海の流れがある。うねり渦を巻き、岸壁にぶつかって岩肌を削っていく潮流。空の色を反射してか、今日は水面の色も黒味が強い。
「ゆっくりでいいんだ。人それぞれ成長のペースってものがある。僕の弟子の中にもクリスと同じで最初は伸び悩んだ子がいた。それでも少しずつ成長して、最後は爆発的に強くなったんだ」
「……そのお弟子さんは、百柱の神様から無能だと突き付けられるほどだったんですか?」
「……」
ハイライトの消えた桃色の瞳の中に反射する、口をパクパクさせる僕の顔。
言い淀んでしまった。
「やっぱり、そうですよね。私が一番の無能ですよね……」
なんと慰めればいだろうか。言葉が出てこない。どんなことをいっても空虚になる気がする。
百個の神殿を巡って全てから断られるなんて、正直言ってありえない。クリスは若く可憐な娘であり、どの神も欲しがる存在だ。特に色ボケで有名な槍と恋愛の女神に拒絶された時は声を出して驚いてしまった。
間違いない。隠しクラス「魔王の卵」のせいだ。
僕は指で聖印を作った。愛する女神アリス=マリアに祈りを捧げる。この哀れな僕の弟子に、寵愛を授けてはくれませんでしょうか。僕にはどうしたらいいか分かりません。
…………
…………返事はない。
クソッ!
偶然か必然か、空が一瞬光り輝いて、腹の底から震わすような轟音が響いた。
「ひっ……」
雷だ。それも近いところに落ちた。
怯える小動物の如く体を縮めてすがりついてくるクリス。両手で僕の服を掴み、顔を押し付けてきた。服が涙と鼻水で湿り気を帯びるのを感じる。
ぽつり、と冷たい感触。水面を見れば小さな波紋がいくつも広がり、互いに打ち消す事なく無限に拡散している。
雨が降り始めた。こんなことだったら傘を持ってくるんだった。いや、そもそも今日は休みにすれば良かったんだ。
一瞬の後悔の間にも雨足は激しさを増していく。まだ夜は遠いのに世界は薄闇に包まれた。雨雲は北から流れてきていた。遥か遠き北大陸奥地に住まう怪物たちがこちらをのぞき込んでいるようなうすら寒さを感じる。
「師匠…… 私、頑張ります…… だから……」
「……うん」
クリスが嗚咽を漏らした。
「追い出さないでください……」
「……」
追い出される。追放される。やはりそれはクリスにとって酷いトラウマなのだ。クリスはパーティーを四度追放された、その度に心の傷を抉られている。
「絶対に追い出さないよ」
桃色の頭を撫でる。
「あらゆる神々が見捨てても、僕は見捨てない。身内に優しくするのが僕のクソッタレな女神の教えだからね」
「ししょう……」
ざーざー。雨が地面を叩く音がする。早く何処か、雨宿りできる場所に移ろう。
そう空を見上げた時。
後ろから僕たちに近づいてくる人の気配。ただの通行人だと思っていたのだが。
天を仰ぐ僕の視界は突然に黒色で覆われた。その黒い何かに雨が弾かれてどこか心地よい音楽を奏でる。
「傘をどうぞ」
鈴を転がすような女性の声だ。
「……ありがとう」
黒い手袋で覆われた腕から傘のハンドルを受け取った。
肩ほどで切り揃えられた黒い髪、黒い瞳、黒い装束に身を包んだ女性だ。黒一色でありながら格調高さと仕立ての良さを感じさせる服を、たわわに実った胸がこれでもかと押し上げている。
成熟した体に反して幼さを残す顔立ちだった。きっと僕よりずっと年下だ。しかし服に着られてはいない。衣装と同様の厳かさを漆黒の瞳の中に湛えていた。頬は柔らかそうで幼子にも似た丸みを帯び、輪郭も丸い。きっとあと二、三年で絶世の美女になるだろうと予感させる。
「私はオフィーリアです。隣に座っても……?」
「構わないけど……」
オフィーリアを名乗る黒ずくめの女は僕の隣に座った。どうしてだろうか。
「あの、傘の中に入れて貰ってもいいですか……?」
え。一つしかないのに僕に傘をくれたの? 変わってるな……
戸惑いながらも傘の位置を変える。大きめの傘だが、三人を雨から守るには小さい。僕たちはぎゅうぎゅう詰めになった。
狭い。移動したいなあ。
クリスは初対面の女性の前で泣きじゃくることに羞恥を覚えたのか、若干僕から距離を取って顔をあげた。目は真っ赤に腫れている。
「お二人は冒険者でしょう。そしてあなたが師匠で、あなたが弟子。水神ロコンの神殿の前で泣いているのを見るに、入信を拒否されたというところでしょうか」
「……すごい。分かるんだね」
「ええ、これでも神官ですから」
オフィーリアは穏やかな微笑みを浮かべた。その笑みは確かに神に身を捧げたもの特有の俗世離れした達観さを感じさせた。この若さで神官とは、なかなか優秀に違いない。
「涙を流す乙女よ、名前を教えてくれませんか。私はあなたの涙を止めるために来たのです」
「……クリス・アーモンドです」
オフィーリアはクリスの手を握った。クリスは困惑しながら僕に視線を向けてくるが、手を振り払うことはしない。
二人の真ん中にいる僕は自然、膝の上で握手が行われるという気まずい展開に陥っていた。
「アーモンドさん。単刀直入に言いましょう。――あなたには才能がある。ぜひ私の仕える神殿にいらしてください。我が神は必ずやあなたにクラスを与えてくださるでしょう」
クリスは数度瞬きをして言葉の意味を咀嚼し、理解し、満開の笑顔を咲かせた。
「ほんとうですかっ! うれしい! 師匠! 才能があるって!」
「うん。捨てる神あれば拾う神あり。そういうことだね。ここで座って泣いていたのも運命かもしれない」
不思議な出会いだ。しかし数多の神に見守られる人間界ではこのようなことが起こり得る。クリスの努力を認めてくれる神もいるということだ。
「しかし、アーモンドさん。我が神のお導きになる道は、決して易しいものではありません。――覚悟はありますか?」
「はい!」
二人が僕の膝の上で手を握りしめ合う。せ、せまい……
「どんな過酷な試練でも耐えてみせます!」
「素晴らしい心意気です。きっと我が神はあなたのそういう心根をお気に入りになったのでしょう。あなたは我が神のもとで、必ずや大成します」
「本当ですか……!?」
「ええ。我が神殿は規模こそ小さいですが、信徒はみな歴史に名を残すほどの冒険者です。あなたもそうなる運命なのです」
「歴史に名を……」
そんなところからスカウトが来るとは。やはりクリスには才能があるのだ。隠しクラスが足を引っ張っているだけで、輝くような素質がある。僕の見立ては正しかった。
「良かったね、クリス!」
「師匠のおかげです!」
クリスの顔から陰鬱さは一切消え去り、希望と歓喜に震えている。最高だ。きっと隠しクラス「魔王の卵」のランクはぐいぐいと急降下していることだろう。
「もしよろしければ、今からでも我が神殿に参りましょう。ご都合はいかがでしょうか?」
「行きます! 大丈夫ですよね師匠?」
「うん。善は急げだ」
「それでは、我が神の名を宣告します。これを聞けばもう後戻りはできませんよ。よろしいですね?」
「はい!」
オフィーリアは大きく息を吸い込んだ。指で聖印を作り天に掲げる。見入ってしまうほどに美しい所作だ。これが神官の祈り。
「我が神の名は――復讐と破滅の神、ジヴァーナム! 七つの世界を統べる神である!」
「復讐と破滅の神……」
聞いたことがない。フクシュウって、あの復讐? ハメツってあの破滅?
いや、待ってくれ……
「邪神じゃねえか!」
僕は立ち上がって叫んだ。邪神じゃねえか!
「ぴゃあ!」
オフィーリアは僕の突然の大声にびっくりしたのか、小鳥のような鳴き声をだして椅子から転げ落ちた。長いスカートが捲れて、純白のパンツが丸出しになる。
「邪神じゃないですよ!」
「邪神だよ!」
ようやく見つけたと思った神の救いの手。それは復讐と破滅を司る邪神の手だった。ああ、魔王の卵にぴったりである。
ふざけんじゃねえ!
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