二章
第1話 入門少女
事務所に戻ってきた。扉を押し開けて奥へと進んでいく。
「エディ。こっちです」
客間の一つから僕を呼ぶヴァイオレットの声が聞こえた。
部屋に入る。ベッドに横たわるクリスと、その隣に椅子を置いて座っているヴァイオレット。
「大丈夫?」
「はい。寝ているだけです」
「そう…… ミンスクくんは悪魔だったよ。クリスを覚醒させることが目的だった」
「悪魔…… 悪魔もこの子を狙っているのですか」
小さな寝息をたてるクリスの顔は赤子のように純粋で可愛らしい。魔王になるとは到底思えない。
「クリスには自衛できるくらいの力を身に着けてもらわないと。僕とビビがずっと側にいられればいいけど、どうしても無理なときもあるだろう」
「そうですね。一生ずっと一緒にいるわけにもいきません」
その通りだ。クリスも僕たちも残りの人生は長い。お互いに縛られたままというのは不健全だ。
「外敵を倒せるくらいに強く育てて、精神的にも安定してもらう。これが僕たちの目標だ。ビビ、いつも悪いけど今回も――協力してくれるかな」
「……エディ。座ってください」
ヴァイオレットの手に引っ張られて、僕は彼女の隣に腰を落とす。
「この件は一年程度じゃ終わらないでしょう。私、ヴァイオレット・クレンズはランク5冒険者であり、気が利いて何でもできて、さらにとても可愛い。――ここまでで反論はありますか?」
「……ありません」
反論ってなんだよ。僕たちディベートでもしてたっけ?
しかしこれはヴァイオレットなりの迂遠な言い方で何かを伝えようとしているのだ。僕はそれを精一杯汲み取るべく、彼女の顔を見つめた。
「そんな私の一年以上の歳月、それもきっと人生の中で最も美しく強くいられる時期です。それをエディのために捧げることになるわけです」
ヴァイオレットの表情筋は石像のごとく一切動かない。だめだ。顔を見てもなんにも分からないや。
「エディ、私は――報酬を望みます」
ははん。僕はようやく得心した。賃上げ交渉というわけだ。
「言い値を払うよ。好きなだけ持っていくと良い」
しかしヴァイオレットは首を小さく横に振った。
「あなたの言葉を借りるならば、お金は重要ではないのです」
うーん。僕は首をひねった。金銭以外の報酬か。
「なんだろうか。僕があげられるものなら何でもあげるけど」
「……エディが考えてください」
「難しいことを言うね。そうだなあ。ビビは物欲が少なくて何かを欲しがるなんて滅多にないからなあ」
ヴァイオレットは爪先で僕の足先をツンツンと小突いた。
これは……どういう感情表現だろうか? 彼女は僕の足をじろじろと食い入るように見ている。
「ビビ。さすがに……足はあげられない。歩けなくなってしまうのは不便だからね。――どうしてもと言うのであれば、指の一本くらいであれば……」
濃紺のジト目が僕を貫く。
「……真面目に考えてください」
「……ごめんなさい」
真面目なんだけどなあ。僕は、僕を大好きだと言って憚らない女の子に腕やら足やらをせがまれた経験がある。そして渋々髪の毛をあげた次の日に黒い怪物を連れてきたのだ。あれはなかなか印象的な思い出だ。
「責任をとるのです。エディ」
「責任……」
ヴァイオレットの顔が少しずつ近づいてくる。冷たい指先が僕の頰から顎にかけてをなぞっていった。
まつ毛が触れ合いそうなほどの至近距離で僕たちは静止した。熱い吐息が掛かる。指を絡めてきた。少しでも接触面積を増やしたいとでもいうように強く握りしめてくる。
これはいったいどんな意図があるのだろう……
「これから言うことは冗談ですが……あなたはバカで鈍くて、大嫌いです」
「……どんな冗談だよ」
その枕詞使ったら何でも言って良いことになるわけじゃないからね?
そんな僕らの隣で、クリスがもぞりと動いた。目蓋が何度か痙攣して、ゆっくりと開かれていく。
僕が瞬きする間にヴァイオレットは顔を離し、すんと澄ましてクリスに向き直っていた。綺麗な横顔だ。
「シドニーさん。パン屋のヴァイオレットさん……」
クリスは呟きを漏らした。まだヴァイオレットのことをパン屋さんだと認識しているのか。
「おはよう。体調はどうだろう?」
「ちょっと体が重いけど、大丈夫です」
クリスは体を起こして壁にもたれかかった。顔色は悪くない。少々の傷もヴァイオレットが癒してくれたようだ。
「あまり記憶がはっきりしなくて…… 私、試験は……」
「合格だよ。君は様々な障害を乗り越えて自分ひとりの力で一角猪を倒した。文句なしの合格だ」
「良かった…… 夢じゃなかったんですね……」
クリスの目がじわりと潤みを帯びたと思ったら、次の瞬間には目頭から大粒の涙がこぼれ出して頬を伝っていく。
「ここは僕の事務所兼自宅なんだけど、今日からクリスはここに住んでもらう。住み込みで修行だ。問題ないかな?」
「はいっ!」
赤くなった目じりを擦りながらも元気のいい返事。そう、クリスは真面目で素直なのだ。
「少し落ち着いたら宿に行って荷物を持ってくるといい。いや――僕も一緒に行こうか。倒れた直後だから不安だしね」
「分かりました! すぐ行きます!」
ベッドから這い出てこようとするクリスを手で制止する。
「ゆっくりでいい。まあ一時間後くらいにしようか」
「分かりました」
「それから……」
僕は隣の無表情系美女を手で示した。
「改めて紹介しよう。彼女はヴァイオレット。もとは僕の弟子で、今は僕の
ヴァイオレットは黙ってこくりと頷いた。
「よろしくお願いします。クリス・アーモンドです」
「……よろしくお願いします」
「パン屋さん、なんですよね? 今度お店に行かせてください」
「……分かりました」
え。それでいいの? パン屋さんでいくの? 嘘でしたって言ってもいいんだよ?
ヴァイオレットは表情を動かさない。僕には分かる。これはとんでもなく緊張しているのだ。
ああ、二人が仲良くできるか不安だ……
凄く不安だ……
「今日は猪鍋パーティーだからね。クリスが倒した一角猪を運んできてるから、鍋にして食べよう。クリスの合格祝勝会兼、僕たち三人の懇親会だ」
「猪鍋パーティー……」
クリスが顔をほころばせた。よしよし。いい反応だ。
「僕たちは師匠、姉弟子、妹弟子という関係ではあるけれど、家を共有する同居人でもある。仲良くなるに越したことはない。今夜は無礼講だ」
「楽しみです! 猪鍋パーティー!」
「……楽しみですね」
オウム返しでぽつりと呟くヴァイオレット。クリスは聞き取れなかったようできょとんとした顔をしている。
クリス、そんな顔をするんじゃない! ビビがますます殻にこもってしまうよ!
クリスが躊躇いがちに手を挙げた。
「あの……失礼かもしれないんですけど……質問していいですか?」
「もちろん。質問はたくさんあるだろう。なんでも聞いてくれていいよ」
「師匠とヴァイオレットさんは、ご結婚? されてるんでしょうか? それとも恋人でしょうか?」
ヴァイオレットが眉をぴくりと震わせた。
あれ? 大丈夫かな。これ怒ってる? 僕はものすごく嫌な予感がした。
「クリス。あなたは――破門です」
「ごめんなさいい! 失礼なこと言いました! 許してくださいいいいいいい!」
涙目になって頭を下げるクリス。固まったまま動かないヴァイオレット。
僕は頭を抱えた。
不安だ……
凄く不安だ……
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