第17話 ざまあ!
悪魔。
異次元に存在するという地獄に住む存在。時折人間界に訪れては災厄をもたらしていく傍迷惑な奴らだ。
精霊と同様にアストラル体であり、つまり人間界にいる限りは擬似的な不死ということ。
「勘のいい人間だな」
やすりとやすりをこすり合わせているような、ざらざらとした不快な声。
「俺様の擬態に気づくとは」
俺様って。なんだか幼稚な響きだ。人間の言葉はあまりうまくないらしい。
「バレバレだったよ。街の外からでも臭かった。レッサーデビルはすぐに見つけられる」
ミンスクは笑みを消し、歯列をむき出しにして威嚇してくる。瞳は比喩でなく――燃えていた。
「俺様はデビルじゃねえ。俺様は――地獄の大侯爵ミンスク=カタクリアだ」
知らない名前だ。人間界に出てきた悪魔は同族がいないのをいいことに大層な身分を騙る。大侯爵なんてどうせ嘘だろう。たぶんただの一般悪魔だ。
「片栗粉だかなんだかしらないけど、どうやってクリスが魔王の卵だって知ったのさ」
「――匂いさ。最高の匂いがするんだ。地獄の大釜で千年煮られた堕天使みたいな、ツンとくる刺激臭だ」
刺激臭、か。それはクリスには言えないな。年頃の女の子は気にしてしまうだろう。臭い悪魔に最高の匂いなんて言われても嬉しくないし。
「悪魔侯爵サマが冒険者の振りして何しようと僕は気にしないけど、クリスにちょっかい出すのは困るよ」
「あの女の魂は俺が頂く。魔王として覚醒させて、災禍を振りまいて死んだ後、ようやく食べごろだ」
悪魔がクリスを狙っている。匂いでバレるということは、この片栗粉侯爵以外にも襲ってくる可能性は高い。これはめんどうなことになった。
「クリスは僕の弟子だ。手出しはさせない」
「俺の方が先に目を付けたんだ。数か月かけて虐めて負の感情を高めてきた。早い者勝ちがルールだろ」
「地獄はそんなに甘っちょろいの? 冒険者の世界では――強者が正義だよ」
地獄の侯爵だかなんだが知らないが、僕の方が圧倒的に強い。彼はせいぜいランク6冒険者程度だ。一つランクが離れていると子供と大人くらいの差がある。
腕を振って、袖の下に忍ばせていたナイフをくるりと取り出す。声も不快でそのうえ臭く、僕は少し苛立っていた。
「俺様と戦うつもりなのか? 人間の分際で? 人間は俺様には勝てねえ」
僕は手首の力だけでナイフを投擲した。それだけで音速に迫る推進力を得た鈍色の刃は真っ直ぐミンスクの額に向かい、突き刺さり――否、すり抜けて、背後の木の幹に突き立った。
ミンスクの額には傷一つなく、ニヤニヤ不愉快な笑みを浮かべている。
これだからアストラル体は面倒なんだ。人間界の武具じゃ攻撃が通らない。
僕は指で聖印を作った。
「愛する女神、アリス=マリアよ。私に弓をお貸しください」
祈りを捧げる。お辞儀も合掌も必要ない。ただ祈る。全身を満たす寵愛に意識を向け、感謝の念を天に伝える。
僕の目の前に光が現れた。最初は弱々しかったそれは瞬きごとに光度を増し、すぐに目を開けていられないほど眩しくなる。手を伸ばして、光をつかみ取る。
目蓋を開いた。光は霧散し、僕の手の中には真っ黒な弓があった。
「それは……」
ミンスクの顔から余裕が消えた。
漆黒の弓。異次元を繋ぐ世界樹の枯れ枝から作られた世界最高の弓の一つ。明らかに普通と違うと分かる神気を放っている。
これはアリス=マリア本人の弓だ。決してこんな人間界の片隅にあるはずのない武具。
ミンスクは人間界で死ぬことはないと考えてたかをくくっているようだが、何もかも思い通りに行くわけではないことを教えてやろう。
「君みたいな下級の悪魔相手ではオーバーキルすぎるけど、貴重な体験だと思ってくれていい」
世界を繋ぐのが世界樹だ。その枯れ枝であるこの弓も同じ力を持つ。次元を超えて獲物を貫く。
虚空から矢を取り出し、つがえる。弦を引けばキリキリと重い。
「新人が冒険者ギルドに来て最初に教わるのは、『ランク7には逆らうな』という訓示だ。それを教えてあげよう」
黒い蝙蝠の翼をバタバタと動かしてミンスクは空に逃げようとしている。起こった風でマツの細い葉が散らされて舞った。
「ふざけん――」
ミンスクは顔を歪めて口を開いていた。
矢を引いて、手を離す。
光に迫る速さで放たれた銀の矢は真っ直ぐな軌道でミンスクの眉間を貫いた。それでもなお威力は一分子も減衰せず、放物線を描くこともなく天へと伸びていき、見えなくなった。
撃ち抜かれたミンスクはまさに鳥のようにきりもみ回転しながら落下した。首から上はすっかりなくなっている。
その断面から流れるのは血ではなく、煙だ。白い煙が噴き出している。アストラル体の性質だ。
どのくらい力を削れただろうか。本来悪魔は人間界で死ぬと地獄で復活するのだが、アルス=マリアの弓は獲物に逃走を許さない。
煙が靄となり、頭蓋骨の形を作り、紫の肌を纏わせて悪魔の頭部を形作る。ミンスクは地面に倒れたまま僕を見上げた。
「なぜ人間がそんなもの持ってる!」
大きな汗を浮かべた紫色の顔。必死の形相で訴えかけてくる。悪魔は驕り高ぶりすぎて、人間の強さを正しく判別できない。
僕は弱い者いじめは嫌いだ。しかし手を緩めるわけにはいかない。これは――デモンストレーションなのだ。地獄の連中に向けた公開ショーである。クリスに手を出せばこうなるぞ、と。
「あと何回で消滅するかな?」
再生したミンスクは心なしか若干透けているように見える。アストラル体を構成するエネルギーが薄くなったのだ。
「待ってくれ! 悪かった! もうあの女に近づかない!」
驚くほどの手のひら返しだ。しかし謝罪を受け入れるつもりはない。
もう一度矢を放つ。
今度はその体を頭から股間まで貫くような角度だ。体が爆散して左右に飛び散った。
ミンスクの体を破壊した矢は地面に突き刺さり、落雷のような轟音を立てて大地をえぐった。土が高く舞いあがり、隕石が落ちたようなクレーターを生み出していた。
その中央にはミンスクの右手だけがぽとりと落ちていて、そこに煙が集まってきた。一から形成してゆっくりと体が出来上がっていく。
まだ復活するのか。意外としぶとい。
「ゆる――」
もう一度放つ。
放つ。
放つ。
放つ。
放つ。
放つ。
放つ。
放つ。
放つ――――。
三十回を超えたくらい。
爆散したミンスクの体は煙を噴き出すのをやめた。ようやく力が尽きたか。想像以上に粘り強く、もしかしたら侯爵というのも嘘ではなかったのかもしれない。
悪魔がクリスの存在を知っているとなると、一層警戒を強めなくてはならない。悪魔は僕も知らないような不思議な術を操る。
舞いあがった土が落ち着くと、そこには――リスがいた。
二本の小さな角と小さな翼を生やしたリスだ。頭と背中にはまだら模様があって可愛らしい。クレーターの底を元気に走り回っている。
思わず吹き出す。これはアリス=マリアの采配だろうか。彼女はいたずらが大好きな女神だ。
突然、僕の少し先の時空がゆがんだ。そこだけ空間が裂けたようになり隙間から真っ赤に燃え盛る地獄の様子が見えた。これは次元を繋ぐ門だ。
ほんの小さな門なのに、そこから吹いてくる熱風が顔にかかってとても熱い。向こう側の妙な気配が門の存在に気づいて近づいてくるのが感じられる。さっさと閉じてしまおう。
僕はリスとなってしまったミンスクの角をつまんで拾い上げる。彼は小さな手足をばたつかせて精一杯抵抗したが、リスには何もできない。
「ミンスクくん。地獄でもしもクリスに手を出そうとする同族がいたらこう伝えてくれ。『リスにされるからやめておけ』と。――ああ、喋れないかもだけど、なにか手段はあるだろう。それじゃあね」
僕は次元の裂け目にリスを投げ入れた。真っ赤に燃え続ける大地に放り出され、彼は小さな翼でパタパタ飛ぶが、高度は少しずつ下がっている。
悪魔はリスにされた仲間の復讐を企むような奴らではない。むしろ逆だ。仲間の弱みに付け込み虐めて大喜びするだろう。ミンスクは地獄で少々辛い思いをすることになる。まあ因果応報だ。
「この狩りをアリス=マリアに捧げる」
指で聖印を作った。次元の裂け目は一瞬で消え、そもそも何もなかったかのように一切の痕跡も残さない。
黒い弓も光の粒となって消滅する。僕はクレーターの中にぽつんと取り残された。
さて。
これでひと段落だ。帰るか。
ここ数日は働きすぎた。ゆっくり眠りたい。
足を一歩踏み出したところで、不思議な感覚に支配される。心の中に何かが舞い降りてくるような感覚。誰かが僕の体の中に突然入ってきて、同居を始めたようなむずかゆさ。
――神託だ。
アリス=マリアが囁いてくる。鈴を転がしたように透き通っていて、かつ全身の性感帯を撫でまわされているような官能的な声。
『エディ。よくやりました』
『いえいえ。務めを果たしただけです』
『しかし――これは始まりです』
その通りだ。僕はクリスの師匠になり、彼女が魔王になってしまうのを防がなくてはならない。ついでにクリスが立派な冒険者になれるよう指導するつもりでもいる。それが
『分かってます。あ、一つお願いがあるのですが――』
『聞きましょう』
僕は素晴らしいアイデアを思いついていた。
彼女は剣神フリードには愛されていない。おそらく代表的な神々のどれにも
だがしかし、我が女神アリス=マリアがクリスを信徒に迎え入れてくれれば問題解決だ。別に特別扱いをしてほしいわけではない。普通の寵愛でいいのだ。それがあればクリスは十分やっていける。
『クリスに
『――いやです』
チッ。僕はついつい舌打ちをしてしまった。いやってなんだよ。
『なぜでしょうか、我が女神よ』
『私、可愛い女は信徒にしたくありません』
それだけ言い残してアリス=マリアは消えた。
「…………」
まじふざけんな! なんだその理由!
まだまだ困難は続きそうであった。
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