第15話 ざまあしてはいけない!

 クリスはまた一角猪を求めて走り回っている。


 残された時間はどのくらいだろうか。長くても三十分はないはずだ。短ければ五分もないかもしれない。


 一角猪討伐の自己ベストは一時間三十分だが、今日の調子ならもっとやれる。


 今、ここでやるのだ。守りを捨ててでも攻めに出るしかない。


 瞬きする時間すら惜しい。目を皿にして一角猪の痕跡を探す。


 集中したいのに、脳裏に誰かの言葉がよぎる。お前は無能だ、出ていけ、不要だよ。そんな罵倒が次々と泡のように現れては消えていく。


「違う、わたしは――」


 そこで口を閉ざす。独り言をぼやいている暇はない。結果で自分の存在価値を証明するのだ。それができなければ生きる意味はない。


 どうか間に合ってくれと神に祈りを捧げながら木々をかき分けて駆ける。見つかってくれ、見つかってくれ、見つかってくれ――。


「いた!」


 視界の端にその茶色い毛皮を捉えた。


 急いで駆け寄る。立ち止まることは許されない。たった一秒でも時間が惜しい。


 一角猪の正面から突っ込む。気付かれた。黒い真珠のような目玉と目が合い、角の鋭い先端がクリスを威圧している。しかし怯んではいけない。


 今までは常に受け身な戦闘をしてきた。一角猪の攻撃をいなし、隙を見つけてカウンターを入れ消耗させるという戦い方だ。ただこうなってしまっては、それでは駄目だ。こちらから攻めなければ。


 とりあえず距離を詰める。駆け引きもなにもない直進。一角猪は角を振り回して近づけまいとしてくる。


 剣を振り上げる。その鈍色の輝きに注意がそれたところで、ピンク色の鼻先に蹴りをぶつけた。加護を乗せた重い一撃だ。


 一角猪は短くて低い鳴き声を上げて、喉をごろごろと鳴らした。鼻先が上を向く。その隙に背中に上から刃を差し込む。ただ斬りつけるだけでは終わらない。のしかかるようにして深く体重をかける。


 硬い毛に阻まれて、剣は思うように沈んでいかない。一角猪はうめきながら逃げ出そうとする。クリスは半ば引きづられる体勢になりながら、加護エーテルを少しだけ剣先に集中させた。


 神の寵愛は祈りを具現化する。人の身に人ならざる力を授け、信仰への報いを与えるのだ。剣と鋼の神フリードは一年尽くしてもちっぽけな加護しかくれないが、寄せ集めればそこそこにはなる。


 剣先が急に鋭さを増し、毛皮を切り裂いて肉にまで達した。かなりの深手だ。放っておけば死にかねないような傷。しかし決して即死ではない。


 クリスの心の中では時計が針を進める音が聞こえてくるようだった。カチカチカチカチと一秒ごとにタイムリミットが近づいてきている。


 一角猪は跳ねながら暴れまわる。守りのための加護減らしているをクリスの体は野生の暴力に耐えることができずに引きずり回された。角を脇に挟み込むことでなんとか致命傷だけは防ぐ。


 それでも剣の柄から手を離さない。それが剣神フリードの第一の教えだ。死んでも剣を握ったままでいろ、と。


 なんて無様な戦い方だろうか。最弱である一角猪とこんな泥くさい戦いをしているのはきっとクリスくらいだろう。剣から加護を全身に戻し、地面にたたきつけられる衝撃に身を固くする。


 ようやく剣が抜けた。


 クリスは抱えていた角を離し、数メートル転がることで距離を取った。


 鎧の下の肌は何度も地面を引きずられて擦り剝けているところもある。打ち身も数か所あるだろう。


 しかし敵も軽傷ではない。一角猪の背中からは血が溢れ出して全身をしとどに濡らしている。それでも硬い毛を逆立たせて、四つの脚で地面を擦っている。これは相当怒っているようだ。


「大人しく、死ねっ!」


 どうにも口が悪くなってしまう。クリスは雑言を気合の掛け声として剣を構えなおした。


 急いでも、焦ってはいけない。練習の中で学んだことを発揮するのだ。


 一角猪の前脚の付け根の筋肉が盛り上がる。もう何度も見た。突進の前兆だ。独特のこぶを作り、四つの足が連動して動き出す。二足の人間にはできない急な加速。


 いつもなら横っ飛びで回避するところだが、それでは浅く切りつけることしかできない。距離を離してはだめだ。


 リスクを取らなければ。持たざるものが命を賭ける。ゆえに冒険者なのだ。


 腰を低くして、突進を迎え撃つ。


 左腕の腕甲を前に差し出しておく。槍の穂先を思わせる角が風切り音を立てていた。直撃したらクリスはあっけなく貫かれるだろう。


 目に加護を集中させた。茶色い毛の一本一本まで克明に見ることができる。一角猪に動きが少しだけスローモーションになった。


 その鋭い角がぶつかる直前に、角を左腕で擦り上げる。いなしているはずなのに体ごと弾き飛ばされそうな衝撃。革鎧の上からでも痛い。


 体を右に流しながら貼り付き、一瞬たりとも距離を取らせない。剣を振り上げて、先ほどつけた傷にもう一度差し込む。すでに毛皮が裂けているので容易く深くに突き立てることができた。そしてすぐに引き抜く。


 濁った呻き声を上げ続ける一角猪。クリスより体高こそ低いが、重さでは遥かに勝る。暴れる巨体の上に半ばまたがるようにして、今度はその目元に剣を突き立てる。そしてすぐに引き抜く。


 一角猪は甲高く鳴いて地面に転がった。クリスも続いて投げ出される。どちらもすぐに立ち上がるが、片目を潰された一角猪はクリスを捉えられていない。


 ここしかない。


 クリスは全身の加護を直剣の先端ただ一点に集中させた。不思議な脱力感と万能感が同居している。剣を振るうのに最低限必要な加護エーテルだけを残して、守りも避けもかなぐり捨てて全てを貫通力に極振りした。


 この一撃のみをもって、クリスは他のランク1剣士と並びたてるようになる。しかし代償は重い。凡人でもノーリスクノーコストで振るえるが、クリスはたった一回こっきりだ。


 潰した目の方、すなわち死角から近寄る。しかし音か匂いで気付いたのだろうか。一角猪は角を向けてきた。


 迫ってくる角の先端をかいくぐり、避けきれずに肩の鎧を削られながら詰める。弱っている一角猪の足は縫い付けられたように動かない。剣先が――届いた。


 硬い毛皮を薄布のように切り裂く。その内側に隠された相当量の筋肉さえ抵抗感なく断ち切っていく。


 苦しみに呻きを上げて角と鼻先を振り回す一角猪。その角に足元からすくいあげられて、クリスは吹き飛ばされた。だが瀕死のかち上げに威力はない。クリスはすぐに面をあげた。


 大きな傷――生物が生きるには大きすぎる傷をつけることに成功していた。刎ね飛ばされた肉塊が地面に転がっている。背中から尻にかけて、かなり重みのある部位を両断した。


 しかし――この魔物は倒れない。震えながらも四つの脚で立ち、目からは闘志が消えていなかった。


「なんでッ」


 クリスは立ち上がろうとして、膝をついた。体が重い。今すぐにでも鎧を脱ぎ捨てたかった。これが全力の一撃の反動だ。剣を持った手は鎖で縛られているかのように動かなかった。


 一角猪は膝立ちになっているクリスをまじまじと眺め、そして背中を向けた。なんとか切断を免れた短いしっぽが力なく垂れさがっている。まさか――まさか逃げるというのか。


 きっと残りの時間は数分もない。


「うご、けえ!」


 精一杯吠える。剣神フリードよ、もう少しだけ、もう少しだけの愛をお恵みください。天に祈る。


 しかし体は動かない。


 膝立ちの姿勢を保つのが限界だった。太ももの裏側の筋肉がピクピク痙攣して今にもうつ伏せに倒れてしまいそうだ。


 このままでは――不合格になってしまう。


 走馬灯のごとく、十七年間の人生がフラッシュバックした。嫌なことばかりだった。苦しい思い出ばかりの幼少期。息が詰まるような毎日だった少年期。そして今。ようやく上向いてきたところなのだ。


 ここで立ち上がることができなければ、全てに意味はなくなる。


 クリスの心の中に住まう誰かが声を上げた。何度も聞いたことのある声。女性ではあるが子供っぽさが抜けきっていないような声。聞き馴染んだそれは自分の声だ。


 私に任せろ。私にゆだねろ。そう言っている。


 クリスはそれに従うことにした。自分が望む才能を得られなかった恨み、辛いことばかりの運命への悲しみ、理不尽な世界への怒り。そういったものが心の奥底で渦を巻き始める。


『復讐しよう。憎いすべてに』


「――あの猪を倒したいの」


『うん。じゃあ、そのあとで復讐しよう。私たちを蔑んだこの世界に』


「――分かった」


 クリスは爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。


 力が湧いてくる。


 剣を支えにして立ち上がった。両の足の裏でしっかり大地を踏みつける。腕を振り上げた。


 一角猪は十歩は遠くにいる。剣なんて届くはずのない間合いだ。自分はいったい何をしているんだろうか。剣で斬るためには、剣の間合いに入らなければ。そう思いながらも、理性とは別の部分がこれが正解だと囁いていた。


 体の内側で何かが爆発したように膨らんでいく。その全能感はどこか加護エーテルにも似ていた。しかし質も量も圧倒的に違う。より粘着質で、濃厚で、勝手に体からあふれていくほどに膨大。 


 それを剣先に集中させた。突然剣が――黒い炎を纏った。その炎は光を吸い込み熱を奪い、冷たく輝いている。これは幻覚だろうか。クリスはその炎に見入った。


 一角猪の背中に向けて、それを振り下ろそうとして――。


「クリス! タイムアップだ!」


 後ろからエディ・シドニーの声がした。


 タイムアップ。


 タイムアップ。


 言葉の意味を理解するのに数秒かかった。


 終わったのだ。終わってしまった。


 全身から力が抜ける。黒い炎は霧散した。クリスは背中からゆっくり倒れて、――エディ・シドニーに抱き留められた。


「すいません、私、できませんでした……」


 涙が浮かんできた。結局不合格だ。声が震える。


「何言ってるんだ」


 エディ・シドニーは眉を寄せていた。


「ほら見て」


 彼の指差す方に顔を向ける。


 そこには土の上に横たわる一角猪がいた。呼吸に合わせてゆっくりと腹部が動いているが、それは今にも止まりそうなほど弱々しい。そう考えている間にも、一角猪の目から光は消えた。


「これは神に誓って言うけど――君は独力でやり遂げたんだ。加護を乗せた一撃で一角猪の死は確定していた。そのあとが少々しぶとかったけど、最後っ屁さ」


「てことは……」


「合格だよ。クリス。たった今から君は僕の弟子だ」


 エディ・シドニーは穏やかに笑っている。


 合格したのか。エディ・シドニーの弟子になれる。歓喜と達成感は遅れてやってきた。全身で表現したいが、体は動かない。涙腺がぼろぼろと雫を垂れ流すだけだった。


「いいかいクリス。君には才能がある。真面目で、素直で、加護エーテルの扱いに長ける。死地に躊躇いなく飛び込める勇敢さは、どれだけ鍛えても得られるものじゃない。でも君はそれを生まれながらにして持っている。向上心があって、努力を怠らない。予想していない事態にも我を失わずに冷静に対処することができる。どれも冒険者に必須の才能だ」


「才能……」


「ランク7に達する冒険者には共通点がある。それは――どん底を知っていること。底に這って地面を舐めないと、神からの愛は受けられないんだ。だからクリスは、一流になれる素質を持っている」


 エディ・シドニーは至極真面目な顔で言葉を紡いでいる。


「だから……邪悪な力に頼る必要はない。そんなものがなくたって、クリスは強くなれる。ゆっくり頑張ろう。分かったね?」


 いつになく強い口調だ。しかしクリスの意識はぼやけ始めている。眠気と疲労が限界なのだ。言葉の意味がよく理解できない……。


 とりあえずクリスは頷いた。ゆっくり頑張ろうという言葉だけはすんなりと耳から入ってきた。


「僕と一緒に新しい神職クラスを探そう。君にぴったりのものがあるはずだ」


「分かりました……」


 君には才能がある。なんと胸が温かくなる言葉だろうか。


 地面に倒れている一角猪の死体をもう一度見る。確かに息絶えていた。


「よろしくおねがいします、ししょう……」


 その台詞を最後に、エディ・シドニーの腕に抱かれたままクリスを意識を手放した。

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