第14話 落ち着かなくてはいけない!

 体が良く動く。勘が冴えている。世界がいつもより鮮やかに感じられる。


 今日のクリスは一年間以上の冒険者生活の中で最高のコンディションだった。


 一角猪は甲高い鳴き声を上げ始めた。弱っている合図だ。耳がヒクヒク痙攣していた。もう何度もクリスから逃げ出そうとし、その度に追いついて攻撃を重ねた。


 決着は近い。剣の柄を握り込む。


 一角猪の前脚の付け根が盛り上がった。突進の前兆だ。弱ったとはいえ生物種を象徴する攻撃行動であり、威力は健在である。直撃すれば死にかねない。しかし――。


 ヒュン。


 クリスはぎりぎりで横に飛ぶ。鋭い角が風を切る音がすぐそこで聞こえた。全速力でない突進を食らうはずもなかった。


 渾身の攻撃をスカされた一角猪は急停止する余裕すらなく、ゆっくりカーブするように速度を落としながらクリスを再び正面に捉えようとする。


 隙だ。クリスは回避の直後から次のチャンスのために動き出していたのだ。待ち望んだ大きな隙だった。


 毛皮は流れる血で赤く染まっている。傷口をさらにえぐるように加護を乗せた全力の攻撃ならば、必ず命を絶つことができる。クリスは確信した。


 体の内側に意識を向け、加護をかき集めていく。そして腕を振り上げ――。


「おい無能女。久しぶりだなあ」


 突然の耳障りな声が集中を乱した。


 クリスが反射的に振り返ったそこには大柄なスキンヘッドの男がいた。無能女。何度も言われた言葉だ。意地悪そうに口の端を吊り上げている。


「ミンスク......」


 クリスを追放したパーティのリーダーだった。散々雑用扱いして無能と蔑んできた大嫌いな相手だ。


「今大事なところなの。邪魔しないで!」


 語気荒く睨みつける。パーティーを抜けてまでミンスクに不快な思いをさせられるのは御免だった。その顔を見ただけで嫌な思い出が蘇ってくる。


「ああ知ってるぜ。エディ・シドニーに弟子入するための試験中なんだってな」


「なんでそれを......」


 クリスは誰にも話していない。どこから聞きつけたのか。そして何をしにきたのか。


 ミンスクはクリスと一角猪に目をやって首を振った。


「エディ・シドニーなんてやめとけよ。無能なお前を弟子にしようなんて、体目的に決まってるだろ。ツラが良いだけの女が思い上がるんじゃねえよ」


「シドニーさんはそんな人じゃないッ! ――もういいから消えて!」


 ミンスクは気色の悪い笑みを貼り付けたまま動こうとはしない。心が激しく乱されている。


 クリスは無視して一角猪に向き直った。あと少しで倒せるのだ。深く呼吸をする。集中しなければ。


 一角猪の隙はすでに終わり、目と鼻先はクリスの方に向いている。


 茶色い前脚の付け根の筋肉が盛り上がった。突進だ。しかし勢いはない。クリスは難なく避けて、一角猪はそのまま止まることなく加速していく。


 その先には――構えを取ったミンスクがいた。剣は既に高く振り上げられている。


「だめッ!」


 クリスは咄嗟に叫んだ。


 しかしどうにもならない。


 一角猪はそのまま突撃し、ミンスクはそれを迎え撃つ。


 衝突の一瞬前。丸太のように太い腕が白い角を握り込んだ。それだけで一角猪の動きは止まり、体を宙に浮かせた。


 ミンスクが腕を振り下ろす。白い角が半ばから折れて弾き飛ばされて、クリスの足元まで転がってきた。滑らかな断面だ。同じ剣士としての能力の違いを見せつけられる。


 もう一度、剣が振り下ろされた。無造作な剣は包丁がハムを裂くかのごとく一角猪の毛皮を切り裂き、体ごと両断した。血が撒き散らされて、弱々しい断末魔が響く。


 ミンスクは尻尾を掴んで一角猪の死体を持ち上げた。


「この死体、売ってやろうか。いくらまでなら払える? 万年ランク1の雑魚に金なんてないか」


 不愉快な声だ。全身をヤスリにかけられているような気分の悪さ。吐き気がこみ上げて喉の奥が酸っぱくなった。


 真っ黒な感情が腹の底からぐつぐつとのぼってくる。人生で初めての感情だ。怒りが全身を満たして熱に変わっていく。


「殺してやる……」


 それは殺意だった。怒りも憎しみも通り越して、この男を殺してやる。殺さなければならない。そうしなければ人生を前に進めることはできない。魂がそう叫んでいた。


「お前なんかッ! ぶっ殺してやる!」


 汚い言葉が飛び出してくる。奥歯を割れそうなほど噛みしめる。怒りで顔が震えていた。


「やってみろよ無能」


 しかしミンスクはニヤニヤとして舐めた態度を崩さない。限界と思っていた殺意が倍増していく。


「お前にできるわけ無いだろ」


 クリスの心の中で誰かが叫んでいた。私ならこいつを殺せるぞ。私が代わりにやってやる。私を解放しろ、と。


 身を裂くようなこの衝動に身を任せたくなる。魂から湧き出てくる激怒と憎悪と殺意に。


 天啓めいた確信があった。きっとこの激情に従えば、目の前の憎い男を殺すことができる。それだけではない。今まで馬鹿にしてきた元仲間を皆殺しにして、死体を引き裂いて飾ることができる。クリスに力を与えない神々の神殿を瓦礫の山に変えることができる。生まれが良いだけで偉そうな貴族たちを跪かせて命乞いさせ、奴隷のように自害を強制させることができる。母を見殺しにした父に同じ苦痛を、それ以上の苦痛を与えることができる。クリスを認めない冒険者たちの青ざめた顔を見ることができる。きっと爽快だろう。腹を抱えて大笑いできるはずだ。今まで人生で受けてきた苦しみ悲しみ怒りすべてを、すべてを奴らにぶつけ返してやるのだ。殺して壊してコロしてコワしてコロしてコワしてコロしてコワしてコロして――――。


「殺してやるッ」




 ふと、エディ・シドニーの顔がフラッシュバックした。


 飄々とした態度。穏やかな微笑み。


 彼はクリスに戦う力を与えてくれた。


 いつも優しかった。才能があると褒めてくれた。


 「何があっても冷静にね」、彼は試験前そう声をかけてくれたのだ。


 落ち着かなければ。落ち着くのだ。ミンスクの顔から視線を切った。地面を見て呼吸に集中する。


 しばらくそうしていると、感情が波のようにゆっくり引いていった。焦点がずれてぼんやりとしていた意識が鮮明さを取り戻す。


 今やるべきことは試験を続行することだ。まだ時間はある。残された時間で一角猪を倒して、合格を勝ち取るのだ。復讐はそのあとでもいい。


 クリスは剣を鞘に収めた。


「目障りだから消えてよ。邪魔」


 口から出た言葉は驚くほど冷たい。


 ミンスクはつまらなさそうに首を振り、一角猪の死体を投げ捨てた。


「っけ。じゃあな。せいぜい頑張れよ無能」


 背を向けて去っていく。


 クリスは早々に反対方向に駆け出した。あの死体を持ち帰っても、到底自分の成果だとは認められない。新しい一角猪を見つけなければ。




▼△▼




 にわかに現れた凶悪な気配に、僕は慄然とした。クリスの気配が突如膨らんで、爆発する直前で萎んだのだ。


 それはかつて倒した魔王のものに似ていた。あの災厄が思い起こされる。僕のなかなかにクソッタレな人生の中でも、図抜けて最悪な時期だった。


 隣で震えるヴァイオレットの背中を擦る。ランク5の彼女が心底恐怖するくらいには、クリスの覇気は強大だった。


「ビビ、大丈夫だよ」


 ヴァイオレットのもともと白い顔からさらに血の気が失せて病的な白さになっていた。唇は青みを増し、浅い呼吸を繰り返す。彼女の細い体が力を失うようにもたれ掛かってきて、僕はそれを抱き締めた。頭と背中を撫でて熱を移していく。


 彼女の動揺はゆっくりと収まっていった。僕の胸に顔を埋めながら口を開く。言葉は掠れていた。


「エディ……あれは……」


「あぶなかったね」


 間違いなく、クリスは魔王覚醒の境界線上にいた。ぎりぎりで戻ってきてくれたのだ。


「なんとか免れたみたいだけど......」


 これは僕のミスだ。


 試験中もクリスの側で外部の妨害を除くべきだったのだ。魔物には注意を払っていたが、人には警戒をしていなかった。


「ミンスクくんには少々教育が必要だね......」


 彼にはギルドで出会った際に釘を差したはずだ。クリス・アーモンドには近づくなと。性懲りもなく現れて試験を邪魔していくとは想定していなかった。あまりに執拗だ。


「大丈夫。クリスは試験には合格する。そしたら落ち着くはずだ」


 ヴァイオレットの体はまだ小さく震えている。魔王には嫌な思い出があるのだろう。全人類がそうだ。


 サラサラとした滑らかな心地の濃紺の髪に指を通す。この子の髪の毛もだいぶ長くなった。こうしていると、魔物に負けたら泣いていた昔を思い出す。


「クリスを魔王にはさせない」


 まずはクリスのアフターケア。


 そしたら次はミンスクくんだ。彼には骨身に染みる教えをくれてやらねば。

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