第5話 冗談を言ってはいけない!

「ただいま、ビビ」


 事務所に戻ると、ヴァイオレットは忙しなく働いていた。物置からたくさんのセルフォンを引っ張り出し、情報集めのために各所に連絡をとってくれているのだろう。


「おかえりなさい」


 僕は倒れるようにソファに沈み込んだ。イザベルの相手をするのは魔物の相手をするより疲れるし、これから先も不安だ。


 ヴァイオレットは作業の手を止めて、ティーポットからカップに紅茶を注いでくれる。赤みがかった茶色の液体が渦を巻きながら器を満たしていき、上品で爽やかな香りが鼻をくすぐる。


「ありがとう」


 ヴァイオレットは最近紅茶に凝っていて、よくこうして淹れてくれる。僕はそっとカップに口をつけた。


 この落ち着いた味わいは――。


「ダージリンかな?」


「……アールグレイです。エディ、あなたは何を飲んでも『ダージリンかな?』しか言ってませんよ」


 それについては申し訳ないと思っている。僕は味覚が鋭い方ではない。少年期は土を齧って泥水を啜るような生活だったし、冒険者現役のころは携帯食料ばかりだった。人生の引退期に入って美味しいものを食べるようになったのはここ数年だ。


「ビビの淹れてくれる紅茶はいつも美味しい。結構なお手前で」


「ありがとうございます」


 華やかな匂いを吸い込んでいると、イザベルによってささくれだった心が落ち着いていく。


 ヴァイオレットは自分のカップにも紅茶を注いで、僕の隣に腰を下ろした。


「それで……どうなりましたか?」


 いったいどうなったんだろうか?


 丸投げされただけだ。


「ええと、とりあえず僕がクリスを監視して護衛することになった。ギルドからの正式な依頼として」


 ヴァイオレットは紅茶を口に含み、嚥下する。白い喉が艶かしく動いた。所作一つ一つが絵画のように完成されていて、つい目で追ってしまう。


「エディ」


「なんだい?」


「大事な話があります」


 ヴァイオレットは隣に座る僕の方に体を向けて、いつもの無表情な顔で見つめてくる。いったい急にどうしたというのだろうか。


「魔王の監視なんてやってられないので、私――辞めさせていただきます」


 辞める? 辞めるだって?


 辞めるっていうのは、僕の秘書兼相方みたいなポジションを辞めるってこと? そんなの困る。彼女がいなかったら僕は朽ちて死んでしまうだろう。


 なにか喋ろうとするが、口はぱくぱく動くだけで喉から音は出てこない。受け止めきることができずに、僕とヴァイオレットは十数秒ただ見つめ合った。


 彼女の口がゆっくり開く。


「冗談です。場を和ませようとしたのですが――」


 僕は大きく息を吐いた。冗談。冗談か。どんな冗談?


 ヴァイオレットは何をやっても人並み以上にこなす非常に優秀な人間だが、冗談が下手だ。壊滅的に。


「ビビ。事務的な会話しかしなかった君が、このごろ冗談を覚え始めて僕は嬉しい。ただあまり心臓に悪いものは控えてくれると助かるよ」


「そうですか。いえ、想像以上に慌てふためくエディの顔を見ることができて、少し気分が良いですね」


 ヴァイオレットはほんの少し口の端を持ち上げた。


「冗談、今後も続けていこうと思います」


「……うん。ほどよくね」


 弟子にしたときは一単語でしか話さなかったヴァイオレットのコミュニケーション能力は日々向上している。元師匠としては喜ばしいことだ。


「それで、クリス・アーモンドを監視して護衛するとのことですが……」


「魔王覚醒のトリガーになることは回避しないといけない。なにがトリガーなのか分からないけど、まずクリスが死ぬのはダメだ」


 この世界有数の自治都市アウルベルナには、ランク1冒険者が死ねる理由なんて掃いて捨てるほどたくさんある。魔物はもちろん、同業者や犯罪者との揉め事だって死者が出る。クリスは教会に正体を知られれば間違いなく狙われるだろう。そういったものから彼女を守らなくてはいけない。


「はい」


「一番楽なのはクリスをさらってどこかに閉じ込めることなんだけど、どうかな?」


「……少し怖いですね。そのストレスがどう影響するのかわかりません」


「たしかに。やっぱり触らぬ神に祟りなし、か。いままで通りの生活を続けてもらうのが一番刺激が少なくていいか」


「情報が集まるまではそれがいいでしょう。今図書館や歴史家に連絡をとって資料を集めているところです。数日すれば何か分かることがあるかと」


「頼むよ。それから……僕はクリスに弟子入り試験をするという約束をしている。合格基準を明言していないから合否はどうとでもできるんだけど……」


 どうせ弟子にするなら、今から彼女のところに行って即採用の旨を伝えたっていい。師弟という関係は魔王の卵であるクリスを監視して護衛するのにはぴったりのカモフラージュになる。


「今すぐ弟子にするというなら構いませんが……。もし魔王の卵を孵化させないまま殺す方法が見つかったとして。エディ、あなたは一度弟子にした少女を――殺すことができますか?」


 ヴァイオレットがそっと手を重ねてくる。戦いを生業とするものの手と思えないほど滑らかで、ひんやりとしている。


 僕の信奉する狩りと瞳の女神アリス=マリアは身内殺しを嫌う。それに引っ張られているのか、あるいはもともとそういう気質だからか知らないが、僕は身内に甘くて他人に厳しい。一度弟子にして仲良くなってしまえば情が湧いてしまうかもしれない。


「エディは優しい。だからこそ、心配です。責務と情愛の間で板挟みにならないかと」


「……そうだね。ビビの言うとおりだ。クリスを弟子とするかどうかは情報が揃ってから考えよう。……僕はクリスを監視に行ってくるよ。ひと時でも目を離すべきじゃない」


 ヴァイオレットの瞳は水晶のように透き通っていて、感情が読み取れない。呼吸を忘れてしまいそうなほど見入ってしまう。


「いざとなったら、私がクリス・アーモンドを殺します。エディの手を煩わせることはありません」


「いや、それは――」


「冗談です」


 僕は大きく息を吐いた。


 どんな冗談?


「ビビ。今度から冗談を言うときは、事前に『今からいうことは冗談ですが』と前置きするっていうのはどうだろう」


「それでは……冗談の面白みが薄れるのでは?」


 今のところヴァイオレットの冗談に面白みはゼロだ。


「……気にしなくていいよ」


 冗談を教えたの誰だよ。僕は相棒の歪んだ方向への成長に若干の不安を感じたまま、事務所を出てクリスの監視に向かった。

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