第2話 殺してはいけない!
愛用のナイフを握って立ち上がり、クリスの後ろに回り込む。その動作にはコンマ一秒も必要ない。クリスの目には僕が突然消えたように見えたはずだ。
「え……あれ……?」
ランク1の彼女が、ランク7の僕の動きを見切れるはずもなかった。クリスは目をきょろきょろ動かして僕を探す。
「きえた……?」
桃色の髪の下に白いうなじが見える。ここにナイフを突き立てれば、呆気なく彼女は死ぬ。痛みを感じる間もなく殺すことができる。
僕は腕を振り上げた。
――前の魔王は、人として絶命した瞬間に生き返って、魔王として覚醒したらしい。
突然そんな噂を思い出した。
腕を振り上げたままの姿勢で固まる。今この場で殺していいのだろうか。殺した瞬間に魔王になってしまう可能性はあるのか。だが殺さなかったとしてどうなる?
「どこに……?」
悩んで動けなくなった僕。クリスは振り向いてようやく僕を見つけ、眼前に突き付けられたナイフの刃先を見て竦み上がった。
「ひっ……」
小さく悲鳴をあげて飛び上がり、後ずさる。後ろには大きな花瓶があった。
「いてっ」
クリスは頭を打った。後頭部を抱えてしゃがみ込む。ドジな子どもみたいに小さく丸まった。
「いたい……」
「......」
とても魔王になるようには見えない。
いたいけな様子に毒気を抜かれて、僕はナイフを仕舞い込む。
慎重に対応しよう。クリスは人間だ、今のところは。
「君を試したんだ。背後からナイフを向けられて気づくのかどうか。どう? 察知できた?」
クリスは唇を噛む。
「いえ、ぜんぜん分かりませんでした……」
「素直なのは美徳だね」
「そこしかないので……」
媚びるように笑う。しゃがみ込んだままのクリスを置いて、僕は机の引き出しの中から人の頭ほどある大きな水晶玉を取り出した。
それは”見通しの水晶”と言われるもので、触れればクラスとランクを確かめることができる。
「これはただの見通しの水晶じゃない。世界中に片手で数えられるほどしか存在しない、最大級の見通しの水晶だ」
「大きい……」
見通しの水晶は大きいほど性能は高くなるが、偽装を破れるだけで、確認できる情報が増えるなんてことはない。あくまでクラスとランクだけ。
何か期待するような眼差しのクリス。「実はランク2になっていました」なんて展開を想像しているのだろうか。
「ほら、触ってみて。ああ、目を瞑ってね」
立ち上がったクリスは素直に僕の指示に従って、まぶたをぎゅっと閉じる。白い指先が水晶に触れた。
水晶の中のモヤが動き出し、文字を象る。そこに生み出された文字列。
――僕はただ口をぽかんと開けて驚くことしかできなかった。
しばらくの静寂。ゆっくり深呼吸して、平静を取り繕う。
「もういいよ」
「はい!」
「本当に剣士ランク1だった。一年やっても
「はい……」
二音で器用に感情を表現するクリス。彼女の目から隠すように水晶をしまい直す。
「それで、弟子にしてくださるんでしょうか? いえ、――弟子にしてください! お願いします!」
「そうだなあ」
僕は腕を組んで考える振りをする。答えはすでに決まっていた。クリスは頭を深く下げたまま僕の返事を待っている。
僕の出した答えは――保留だ。
「五日後に試験を行う。そこで素質を示してくれれば師匠になろう」
「やったぁ!」
クリスは花の咲いたような笑顔を見せる。
「内容は一時間のうちに”一角猪”を何匹狩れるか。一角猪は倒したことあるよね?」
一角猪はこの街では最弱の魔物とされる、長い角を生やした猪の魔物だ。
「はい。……それで何匹で合格なんでしょうか?」
「それは秘密だ」
僕の裁量次第で合格でも不合格でも再試験でもどうにでもできる試験内容である。我ながら最高の保留作戦だ。
「五日後ですね! 死ぬ覚悟で頑張ります!」
……死なないでくれ。魔王になられちゃ困るから。気負いすぎるのもやめてくれ。不合格にしたときが怖い。
内心を隠して僕は笑みを貼り付ける。うまく笑えているだろうか。
「うん。元気でいいね。当日の朝になったらこの事務所に来て、一緒に狩場に行こう」
「はい! 師匠!」
「……まだ決まってないから」
「そうでした……。すいません気が急いちゃって」
「じゃあ、五日後に。お金は一旦持ち帰ってね」
ひらひらと手を振る。クリスは何度も頭を下げながら部屋を出ていった。入ってきた時よりもずっと明るい表情だ。
「ふう……」
あー疲れた。僕はソファにへたり込んだ。こんな気分になったのは現役を退いて初めてだ。
魔王。数十年に一度人類から発生し、人類を滅ぼさんとする大災厄。分からないことだらけの存在だが、一度魔王が誕生すれば数万数十万の人が死ぬ。歴史上最悪の魔王は世界人口を三分の一にしたとか。
そんな存在を生み出すわけにはいかない。
冷や汗でべたつく体をおして、引き出しの中から再度見通しの水晶を取り出す。クリスが触れたことによって生み出された文字列はまだうっすら形を残している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
クラス:剣士 ランク:1
隠しクラス:魔王の卵 ランク:93
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
隠しクラスってなんだよ!
魔王の卵ってなんだよ!
ランク93ってなんなんだよおおおおお!
もう一度見直してみても、間違いではない。目を擦り間違えであれと祈り、もう一度見る。変わっていない。
くそ!
僕は水晶を床に叩きつけたい衝動を必死に抑えた。落ち着け、落ち着くんだ。深呼吸する。
ランク93ってなんだ。人類の限界は10じゃなかったのか。ランク100になったらどうなる?
魔王を生み出すわけにはいかない。この街は間違いなく滅ぶし、下手すると地域一帯ごと滅ぶ。僕も多分死ぬ。
クリスに下手に手は出せない。何が覚醒のトリガーか分からない以上、爆弾には触れられない。
僕は手を合わせて跪き、神棚に祀ってある神像に祈りを捧げた。弓を構えた美しい女神の像だ。
「我が神、狩りと瞳の女神アリス=マリアよ。私を導きください。どうすればいいでしょうか……」
必死に祈る。
……返事はない。
「愛するクソ女神よ。話したいことだけ話してあとはダンマリなんて酷いです。もっと詳しく教えて! 教えろ!」
……返事はない。
くそおおおおお!
神像をへし折りたい衝動に駆られる。落ち着け。落ち着くんだ。少しでも教えてくれただけでありがたいじゃないか。アリス=マリアの神託がなければ既に死んでいてもおかしくない。
「失礼いたしました、我が女神よ。お許しください」
ヤケクソに手を合わせておく。
やるべきことを考えるのだ。
まずは
僕は机の上の貝殻を取り上げた。これは貝の魔物から作られる通信用の道具で、対になっている貝殻を持つ相手と会話ができる。
この貝殻「シェルフォン」の欠点は、常に通信が繋がっていて、勝手に通話を始めても気づかれにくいところだ。別の部屋にいたらまず気付かない。
「もしもーし」
普通の声で呼び出す。返事はない。大声で叫ぶ。
「もーしもーし! エディだよ! エディ・シドニーです! 緊急! 超緊急!」
「……叫ばないでください」
「ビビ!」
ちょっとテンションの低い女性の声。僕の元弟子であり、現相棒のヴァイオレットである。優秀な彼女にはいつも頼ってしまう。
「申し訳ないんだけど、すぐに事務所に来てくれない?」
「えぇ? 今日は休みなんですけど……」
「ほんとにごめん。緊急で、ビビの助けが必要なんだ」
「……分かりました。お腹が減って死にそうとかだったら怒りますからね」
「そんなことでビビを呼ぶわけないじゃないか。僕は大人だ」
「……いえ、前も――――いやこの話はいいです。緊急なんですよね? 今準備してます。これは、貸し一つですよ」
「貸しがだいぶ溜まってきたなあ」
「そのうちまとめて返してもらいます」
「オーケー。セルフォンじゃ話せない案件だから、会って話そう。驚いて死なないように覚悟しておいてね。簡潔にいうと――世界の運命がビビの肩にかかっている」
「あの……ふざけてますか?」
「大まじめだよ」
ため息が聞こえた。
「すぐ行きます」
彼女はほんとに頼りになる。
「愛してるよ、ビビ!」
「……やっぱり行きたくなくなって来ました」
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