「Kiss me again」10

 暗い場所にいた。


 男が立っている。それは僕自身だ。姿形はまったく同じだが、表情はもっと寂しげだ。


 未来の僕ではなく、過去の僕だ。この世界でのすべてを忘れる前の僕。


 たくさんの悲しいことを経験してきたのだろう。自分のことだから手に取るように分かる。


「ごめんよ。記憶は壊してしまった……」


『気にするな。記憶があるかないかなんて些細な問題でしかない。どうなったとしても俺たちの選択だ。後悔はしないさ』


「ありがとう」


『礼なんていらないぜ、相棒』


 分かたれてなお僕らは二つで一つだ。記憶を忘れたとしても、魂は覚えている。


『いつか別の方法で思い出すこともあるだろう。この世界はファンタジーで満ちてるからな……』


「楽しみにしてるよ」


『それから、十二の助言も忘れるな。それはまだ終わっていない。――すこし無視しすぎだと忠告しておく』


 傷が順番に疼いていく。



1.俺を信じろ

2.断罪の悪魔

3.罪を断て

4.契約するな

5.衝動を抑えろ

6.力は乱用するな

7.黒幕は魔女

8.取り戻せ

9.魔女を殺せ

10.滅び来たれり

11.この世界はくそったれだ

12.lost bible chapter 13を求めよ



 理解できるものもある。理解できないものもある。だがいずれ知るだろう。


 こうしてみると助言に逆らってばかりだ。


 すぐにレナと契約したし、衝動は抑えられなかったし、力も使いまくっている。そして記憶も取り戻せなかった。


「ごめんね……」


『やりたいようにやればいい。勝手に導かれる。すべては神の思し召しのままに、ってな』


 この男はなんて僕に甘いんだろう。なんでも許してくれるじゃないか。


『だから問題ない。これから過去に直面するだろうが……それも問題ない。一つ言えることがあるとすれば、俺は信条に反することはやってない。どんな過去が出てきても俺と自分を信じろよ』


「分かった」


 そいつは気まずそうに頬を掻いた。


『俺もさんざんやらかしてきた。特に女関係だ…… お前ならわかってくれるだろ。我慢できなかったんだよ』


「おい。何やったんだ」


 目が合う。僕らは同じタイミングで、奥歯が見えるほど大笑いした。


『尻拭いをしてくれとは言わない』


「まあすべきと思ったらするよ」


 ちょっといやだな…… どんなことをしでかしてきたのか、想像もつかない。


『お互い様だ。俺もお前に迷惑をかけるし、お前も俺の助言を無視してもいい』


「そうだね」


 僕はこいつのことを知らないが、互いに理解し合っている。心地いい関係だ。


『例によって、この会話の記憶も目覚めると同時に自動的に消滅する』


「寂しいよ。忘れたくない」


『女々しいな。――最後に一つ。この異世界はどうだ? 悪魔としてやっていけそうか?』


 僕はためらわず頷いた。


「くそったれな世界だけど、素晴らしくて美しい世界でもある。どこの世界も同じだな」


『そうか…… なら楽しめよ』


「ああ……」


 僕の意識は浮上していく。男はやはり寂しげに手を振っていた。




△▼△




 夜。


 僕は昼過ぎまでぐっすり眠っていた。


 レナは眠らずに街を駆け回って治療を行い、自警団関係者も眠らずに記憶の返還や教会勢力の鎮圧で忙しくしていたらしい。


 目覚めたときに僕のそばにいてくれたのはクレタだった。可愛いメイドさんだ。


 約束通りに彼女は豪勢な食事を用意してくれていて、みなで揃って夕食を取った。レナはやはり芋しか食おうとしなかったが、僕の精神攻撃によってデザートを口にした。仏頂面を崩さないまま美味しいと言って、クレタはそれにいたく喜んでいた。


 キケロは記憶を取り戻したが、そんなに変わってはいない。


 治療院の患者もほとんどがいなくなり、夕方のうちには屋敷はすっかり淋しくなった。


 そして僕は今、部屋で日記を書いている。


「この世界の文字、難しいよ」


「反復です。繰り返していればそのうち覚えますよ」


 僕は簡単な文字なら読める。日本語でいえばひらがなみたいなものだ。戦士的生き方をするならそれだけで問題ないのだが、本を読むには漢字を覚えなくちゃいけない。レナに教えてもらってはいるのだが、ごちゃごちゃして流線形の文字が多くて面倒だ。


「でも、どうして急に日記なんか?」


「そりゃあもちろん、また記憶をなくすようなことがあっても大事なことを忘れないためさ」


 過去の僕に言いたい。


 体に文字を刻み込むなんて分かりにくいよ。手紙でもなんでも用意してくれれば良かったのに。


「それで、左のページに書き込んでいるこの暗号はなんですか?」


「それは日本語。生まれ故郷の文字だよ。左に日本語で書いて、右にこっちの文字で書いてる」


「なるほど……」


 この世界には言語が一つ、文字も一つしかない。あれだけ便利な聖書があれば統一されるのも当然だろう。


「よし。今日はこんなもんでいいだろ」


 少し面倒になったので日記を閉じる。ここ数十日の思い出はすべてを文字に起こしておきたいのだが、それはゆっくりでいい。


 レナとおしゃべりにでも興じようかと思って振り返り――


 僕は目を剥いた。


 レナが肌の透けるようなネグリジェを着ていたのだ。


 胸元は大きく開いて谷間をさらし、丈は短く太ももは一割ほどしか隠していない。黒いレースの下で若々しい肌が解放のときを待ち望んでいる。


「あまり見ないでください……」


「それはむりだ」


 レナは唇を噛みしめるようにして俯いている。そして目を合わせずに言う。


「お支払いをしにきました……」


 意味はすぐに分かった。


 細い指先がネグリジェの紐を摘む。


「この服は汚してはいけません……」


 そして紐が引かれる。リボンが解けて、薄い布ははらりと床に落下した。


 血管さえ透けそうな白い肌が露わになる。僕はもうそれしか見れなくなった。今やレナの体を隠すのは純白の下着だけだ。


 豊かな乳房からからきゅっとくびれたウエストにかけてのラインが美しい。ぴっちりと閉じられた太ももの肉は艶かしく光を反射する。


 その肢体はスレンダーさと肉付きの良さを神がかり的なバランスで両立していた。


「すごく――綺麗だ」


「……ありがとうございます」


「下着もすごく似合ってる。レナには白がよく映えるね。……ていうかそんな下着持ってたっけ?」


「その質問はセクハラですよ。――これは今日お店で買いました。喜んでくれたなら嬉しいです」


 レナが昼間からこのときのことを考えて、僕のために可愛らしい下着を選んできてくれたのだ。そう思うと血が滾ってくる。


「……覚悟はできています。望んでいるわけでもないですが――決してイヤでもありません。契約に基づいた代償を払わせてください」


「……ああ、そうだね」


「今思えばあなたにはとても酷なことをしてきました。私は自分の気持ちと快楽ばかりを優先し、ずいぶんと……我慢をさせたと思います」


 そうだ。僕が何度舌を噛みちぎりそうになりながら誘惑を耐えたことか。


 喉が渇いて体が動かない。自分の体が自分のものではないかのようだ。


 契約の代償。えっちなこと。長い間おあずけされてきたそれを、僕はついに手に入れるのだ。


「とても助けられました。馬鹿な私を救ってくれた。命の恩人です。――だから全力で奉仕します。でも、聞きかじった知識しか持ち合わせていないので、ユウが満足してくれるか少し不安でもあります……」


「なら僕が丁寧に教え込んであげよう。心配しなくていいよ、もうすでに大満足だから」


 レナは目を細めて笑った。そこに淫靡さはなく、性交を目前に控えた女とはかけ離れた、天使のような微笑みだ。


「ありがとうございます。あなたはやっぱり――優しい。そして変わっている」


「そうかな」


「ユウに出会えてよかった。あなたがいなければ私はいまだに牢の中で座り込んでいたかもしれません。――でも今日でお別れです」


「…………」


 オワカレ?


 脳みそが音を言葉として認識しない。お別れ? その四音はこの状況において何を指しているのだろう。


 本気で理解できなかった。


「お別れってどういう意味?」


「そのままの意味です。私とユウは、今日でお別れです」


「なんで?」


 レナは哀れむように眉を寄せた。


「――この街にある十三章を手に入れるために力を貸す。代償はえっちなこと。そういう契約でしょう。今日ですべてが満了です」


「違う」


 咄嗟にそう言い放っていた。


「たしかにそういう契約だけど……レナの言っていることは間違っている」


「間違っていません」


 親が子に言い聞かせるように、レナが僕の頰を両手で挟んだ。


 真紅の眼差しが僕を貫いて、心の中までを見透かしてくる。


「私たちの関係は今夜で終わりです。日が昇るころには私は旅立ちます」


 いやだ! そんなのは認めない!


 気付けば僕はレナをベッドの上に押し倒していた。息の止まりそうになる美貌がすぐそこにある。


 抵抗はおろか、悲鳴をあげることさえしない。ただじっと見つめてくる。


「どんなに乱暴でもかまいません。ユウが最も望むように…… 最後にせめてもの恩返しをさせてください」


「最後の恩返しなんていらない」


「ユウ…… 分かってください」


 またそれだ。そう言えば僕が毎回納得して引き下がるとでも思っているのか。


「この先一人でやっていけるとでも? 君には僕が必要だ。一人じゃできないことも二人ならできるよ。………………僕を捨てるのか?」


 レナは唇を結んだまま、辛そうに目を伏せた。そして首を横に振る。


「私とあなたは……距離を近づけすぎました。これ以上は互いにとってよくありません。ユウは人を愛し、愛されることのできる人間です。私はユウにふさわしくない。隣にいる資格はありません」


「そんなことないって」


 レナは僕が出会った中で最も尊い人格だ。時折大虐殺を引き起こすが、それはレナの価値を一切貶めることはない。


「僕はレナが大好きなんだ。真面目すぎるところも、底抜けに優しいところも、隠している無邪気さも」


「嬉しいけど……応えられません」


 レナが僕の手を握った。芯から温もりを感じる。


「私ではユウを幸せにできない。苦しめて傷つけるだけ。あなたはまた自分を犠牲にして私を救おうとする。私はユウに……笑っていてほしいの。だから別々の道を行きましょう」


「僕は君のお尻を撫でてると、それだけで最高に幸せなんだけど。だからレナが僕を幸せにできないってのは間違ってる」


 レナは悲しそうに微笑んだ。またその笑い方だ。ついイラっとしてしまう。


 わずかに震える手が、僕の手をたわわな谷間の上に導く。


「これが最初で、きっと最後。相手がユウで良かった…… お喋りはおしまい。――好きに触ってください」


 念願の蠱惑的なおっぱいの上に手が乗っているにも関わらず、僕の頭の中は真っ白だった。


 今日でお別れなんていやだ。許されない。認められない。いやだいやだいやだ。


 ぐるぐるループする思考の中、刹那に雷のような光が弾けた。天才的アイデアが舞い降りてくる。


 レナがその気なら、こっちにだって考えがあるのだ。


 よし。僕は唇を湿らせた。

 

 このお堅い生娘に社会の厳しさを教えてあげようじゃないか。


「レナと僕の間には、契約の解釈に関してズレがあるようだ」


「……ズレ?」


「えっちなこととは、具体的に何回? 期限はあるのか? なにをもって支払いが完了とみなされる? ……悪いけど、穴だらけの契約は悪魔に有利なんだ。バカな自分を恨むんだね」


「ユウ、それはおか――」


 うるさいレナの口を手で塞ぐ。モゴモゴ言っているが聞こえない。


「僕はこの部屋にレナを監禁して、犯し続ける。永遠にね。世界とかどうでもいいから、滅ぶまでずーっとセックスしよう。三日もすればレナも淫乱になって、自分から求めるようになるだろう」


 口を塞ぐ手を振りほどこうと暴れるレナの体を無理やりに押さえつけた。


 僕らには圧倒的な筋力差が存在する。抵抗は無駄だ。


「ご飯も僕が食べさせてあげる。お風呂も一緒に入ろうね。ご飯食べて、えっちして、寝て、えっちして、ご飯食べて、えっちして、お風呂に入りながらえっち。最高じゃないか」


 レナの目の端に涙が浮かんだ。しかしそれでは僕の燃え盛る嗜虐心を消すことはできない。


「想像してみるんだ。それだけで興奮してくるだろう? それはまさに記憶を無くしていたレナが求めていた生活さ。夜な夜な僕にクリトリスを擦り付けていた日々の気持ちを思い出して。……さあ答えを聞かせてくれ」


 手を離してやる。レナは苦しそうに空気を吸い込んで、僕を睨みつけてきた。


「ユウ! 一時的な快楽に溺れてはいけません。あなたは理解しているはずです。私が戦わなければ、万人が死に絶えることになる」


「そんなのしらない。僕は異世界人だから、この世界なんてどうでもいい。――むしろ滅べとさえ思ってる。そしたら帰れるかもしれないし。……だから僕はレナをこの部屋から出さない。死ぬまで快楽漬けにしてやる。悪魔の精力を舐めるなよ」


 レナの唇にむしゃぶりつく。濡れて光るそれは瑞々しく甘い天上の果実だ。


 執拗に舌を嬲り、ねっとりとした唾液を交換し、愛情を注ぎ込む。抵抗は次第に弱まっていった。


 まるでそれ自体が交尾であるかのような、激しく深いキス。真っ赤な瞳からは理性の色が薄くなっていく。


 そう時間がかからず、レナの焼けるように熱い舌が命ある軟体動物のように動きだした。僕の舌に絡みつき、誘うように舌先でつついてくる。


 ここまでの淫らな生活のせいで、レナの体はすっかり錯覚をしているようだった。すなわち、あっという間に恋人同士の甘い情交の準備を始めてしまう。


 彼女の舌の控えめな誘いに乗り、何倍にもしてやり返す。んちゅ、ぬちゃ、くちゅ、ちゅぱ。あらゆる種類の水音が響く。


 完璧に仕上がった。


 唇を離せばレナは半ば放心状態で、その桜色の口から泡立つ唾液がぽたりとこぼれ落ちる。


「ほら、言ったとおりだ。むしろ三日もいらないね、一晩で十分堕ちきるだろう」


「だめだよ…… ユウぅ……」


 口調がとろけていることに自分で気づいているのだろうか。


 あふれだした涙の雫を指ですくう。レナの白い体は紅葉のように火照りだした。


「それが嫌なら……契約を更新しよう。レナが使命を果たすまで、僕は君の使い魔でいる。代償はいらない。そういう契約だ」


 レナは弱々しく首を振った。


「それはだめ。ユウとは一緒にいられない。分かってください……」


「これ以上譲歩はできないよ。よーく考えるんだ。道は二つに一つ。ここで永遠にえっちを楽しむか、僕と一緒に進むか」


 レナは目蓋を下ろしている。


 すべやかな頰を撫で、くっきり表れ出た鎖骨にキスし、耳たぶを甘噛みする。焦らすように、指先でその体の輪郭をなぞる。


 何度も愛を囁く。そのたびにいじらしく震えるのだ。


「なんと言えば理解してもらえるのか、もう分かりません…… だから、お願いします、ユウ。どちらも選ぶことはできません。私をいじめないでください……」


 やはり強情だ。どうあっても首を縦に振るつもりはないらしい。


「あなたの愛したレナはもういないんです…… 分かって……」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の中の何かが千切れた。僕の愛を伝えなければいけない。


 交渉はもはや次のステージへと移ったのだ。


「そういうことであれば、僕は君の体に叩き込むことにするよ。頭が働くうちに悩めばいい」




▽▲▽




 そのあと僕はレナを数えきれないほど絶頂させ、さらに何度も何度も寸止めすることにより、望む言葉を引き出すことに成功した。


 レナは「快感に負けたわけではない。あなたの思いを認めただけ」などとほざいていたが、そんなのは負け惜しみだ。


 契約は更新された。


 これからも僕はレナの使い魔で、聖書原典十三章を求める彼女に手を貸すことに決まった。


 僕の勝ち。


 僕のチンコの――勝ちだ!


 そういうわけで僕とレナの物語は続く。この先に何が待っていようと、僕はそれを楽しむだろう。


 悪魔は悲劇の観測者にすぎない。僕はレナが舞台上で踊り狂うのを見守り、ときに拍手を送る、それだけだ。

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