「Kiss me again」7
レナが壁際の棚に近づいていく。その歩幅は幼児のように小さい。
「いいかい、レナ、世界は君を中心に回っている。何をなすのも思い通りだ。僕がついているよ」
「うん。なら……どんな運命だって受け入れられる気がする」
棚の中から一つの水晶玉を取り出した。僕の目からは他と変わらないが、レナは「すごく輝いている」と呟く。
僕は過去と向き合うことから逃げたのだが、彼女はそうしないらしい。
いつだってまっすぐで、全力。それが僕の思うレナの美徳だ。
僕がその立場だったら絶対に過去など思い出したくない。忘れたのをこれ幸いと運命など放り投げてしまうだろう。
でもレナは立ち上がって、戦うのだ。
向き合うのがどれだけ過酷だとしても、自分が他者を傷つけることを許さない。
変わってあげたいとさえ思った。滅びの獣がころっと僕に乗り換えてくれないだろうか。優しいレナにその役は辛すぎる。不可能なのに願ってしまう。これを口に出すのはレナへの侮辱だろうから、願うだけだ。
レナは僕を見て言った。
「たくさんありがとう、ユウ。大好き」
そして水晶玉と額をぶつける。
レナの瞳の中で、絵画のような風景が映っては薄れていく。
▼△▼
レナは小さな足で彷徨っていた。
思春期を迎えたくらいの年頃だ。両親から愛をいっぱいに注ぎ込まれ、才能と容姿に恵まれ、立派な大人になることを期待されていた。
だが今レナを囲むのは死肉、炎、崩れた家屋。
耳の奥で木霊している悲鳴と絶叫は今なお聞こえているものなのか、鼓膜に絡みついて離れない残響なのか。
生まれ育った故郷のはずだ。この街から出たことはなかった。大通りからネズミの抜け穴まで知り尽くしている。
たった一晩で一変してしまった。
人がいない。魔物の唸りは聞こえる。鼻を突く臭いが充満していた。
拾ったボロ切れだけを纏い、裸足でふらふらと歩く。手の中にあるのは聖書。何が起こったのか理解できていない。夜空を見上げたあと体が膨らんで……どうなったのだったか。
口内で人の骨を砕く感触が鮮明に蘇った。
「オエエエッ、ゲホッ、ゲホッ」
水のような胃液が喉を逆流する。
うずくまって吐き出した。膝がガラスの破片を踏んづけて血が流れる。
母のところに行かなければ。治してもらおう。反射的にそう考えて、思い直す。母はもういない。獣が殺したのだ。
「お父さん、どこ……」
父はレナを残してどこへ去ったのだろう。
あの夜からどれくらい経っただろう。
ただ歩く。
そのとき、通りの端に見慣れた顔を見つけた。間違うはずもない。物心つく前から一緒だった顔だ。
「カルラ!」
仰向けで倒れている彼女のそばに駆け寄り、手を握る。
「レナちゃん!」
「良かった! 生きてる人がぜんぜんいなくて……」
カルラのアーモンド型の瞳から涙がこぼれていく。その腹部は真っ赤に染まっているが、まだ死んではいない。
「怖かったよ…… レナちゃんが見つけてくれなかったら、わたし……」
「今助けるから! 安心して、私の聖術はお父さんにだって負けないんだよ」
レナは聖書を開いた。
「ええと、どのページだったっけ…… 待っててね…… ここだ。我が命の灯をこの者に分け与えたまえ!」
星みたいな眩い光がカルラの上で舞った。
「いたい……」
しかしカルラの苦悶の表情は和らがない。
瞬きをした瞬間、夢が覚めたみたいに真実があらわになった。カルラのお腹には大穴が空いていた。下半身はない。とっくに死んでいる。なのに口だけが生前のまま動いた。
「レナちゃんが殺した」
「違う!」
「殺したでしょ。たくさん食べたじゃない。美味しかった? アリみたいに踏み殺して楽しかったの?」
「我が命の灯をこの者に分け与えたまえ!」
叫ぶように詠唱すれば、光が躍る。だが傷は癒えない。
「早く治してよ…… レナちゃん……」
「任せて!」
三度目の詠唱。四度目の詠唱。
それでもカルラは苦しいと泣き続けた。
「死にたくないよ……」
「ごめんね…… 私の聖術が下手なせいで……」
「違う。レナちゃんが生きてるから、私が死んだんだよ。お前が死ねばよかったのに」
ついにカルラは物言わぬ死体に戻った。レナはそこでようやく悟った。カルラはもともと死んでいたのだ。
お前が死ねばよかったのに。
カルラの声が頭蓋の中で巡り続ける。彼女はそんなことを言わないが、極限状態にあって何が真実か分からなかった。
「お葬式をしないと……」
北方大陸での葬式は水葬で行われる。小舟に乗せた死体を大河に流すのだ。
場違いにも思える使命感に従い、レナはカルラの上半身を抱えて港に向かって歩き出した。
道を歩けば死体はそこら中にある。死体とも分からないような肉塊はもっとある。全てお葬式をしてあげないといけないと思った。聖書に死体は葬るべしと書かれている。
ふと、人の声が聞こえた。
子どもだ。レナよりも幼い子ども。わんわんと泣きじゃくって親を探している。
今度は空耳じゃない。
「カルラちゃん、少し待っててね」
死体をそっと置いて声の元へ走る。
道を曲がると、そこにはおさげが可愛い小さな女の子がいた。
「お嬢ちゃん! 大丈夫!?」
少女はレナに気付いた。でも泣き止まない。
「お父さんとお母さんがいないの」
「そうだよね…… お名前は何ていうの?」
カルラ。少女はそう名乗った。偶然だが、ありえないことではない。カルラは人気の名前なのだ。
レナはその頼りない体を抱きしめた。すっぽり覆ってしまえるほど小さい。腕の中で確かな命の鼓動を感じた。生きている。まだ生きているのだ。
「カルラちゃん、泣き止まないと…… 魔物が寄ってきちゃう。我慢できる?」
カルラはしゃくりあげながら頷いた。唇をぎゅっと結んでいる。
「えらい。お姉ちゃんが守るから」
年の割に聡いと言われてきたレナは、守るべき存在を得てようやく、何をするべきかを理解した。
この子を安全な場所まで連れて行かなければいけない。
この街に安全な場所などないだろう。
ならば――船で大河を進むのだ。
道はわからないが、本流を南へ下ればどこかの街が見えてくるはずだ。レナは聖術が得意だ。もちろん船を操る術も経験がある。
幼馴染のカルラには申し訳ないが、お葬式をしている暇はないかもしれない。だがまた戻ってこようとレナは一人誓いを立てた。
食料が必要だ。船旅がどのくらいの時間を要するのかレナは教えてもらっていない。持てる分だけ持っていこう。
カルラの頭を撫でる。
「船で逃げよう。ここにいちゃだめだ。お姉ちゃんと一緒に……ついてきてくれる?」
「でもお父さんとお母さんが見つからないの」
「先に避難しちゃったかも。きっとどこかで待ってるよ」
嘘をついた。まず間違いなく死んでいる。カルラはレナの真面目な顔に何かを感じ取ったのか、幼さに似合わぬ物わかりの良さを見せた。
「きっとどこかで待ってる」
「そう。待ってくれてる」
カルラは涙を拭って小さな拳を握った。その目には生きようとする意志が宿っている。彼女はあの地獄の夜を生き抜いてきたのだ。ただの幼い少女のままでいられるはずもなかった。
この子を死なせてはいけない。それのみがレナの生きる意味だ。
お前が死ねば良かったのに。聞こえてきた呪いを振り払おうと、カルラをもう一度抱きしめた。
「もう大丈夫だよ」
「うん。……行こう、お姉ちゃん」
ずっと幼いカルラに促されて、二人は手を繋いで歩き出した。
そしてすぐに――脅威と直面する。
背後から唸り声がした。
虎みたいに大きな犬の魔物が、よだれを垂らして二人を睨めつけていた。グルグルグルと喉を鳴らしている。
「逃げて!」
カルラはすぐに走り出した。振り返らず、まっすぐに駆けていく。こういう素直さが彼女をここまで生かしたのだろう。
レナは魔物と向かい合った。
命をかけて戦ったことはないが、訓練なら何度もある。過酷な地で生きる北方大陸の人間は男も女もみな戦士だ。
壁を守って戦う大人たちを見て育った。
そしてレナの番がやってきたのだ。
悠長に覚悟を決める暇など、世界は与えてくれはしない。
戦え! 戦え!
北の戦士の歌が思い起こされる。
戦え! 戦え!
聖書を開く。攻撃性の高い聖術は少ないが、うまくやれば退かせられるはず。
まずは守りだ。
「主よ、我を守りたまえ!」
光輝の盾が現れた。犬の魔物は警戒して距離を詰めてこようとしない。
こうなればレナのペース。
新たなページを開き、唱えようとして――
レナは背後から噛みつかれた。
二匹目が忍び寄っていたのだ。初陣はあっけなく失敗に終わった。才能があると勘違いしていた。
押し倒されて喉を食いちぎられる。正面の魔物もやってきて、腹を食い破っていく。二匹は争うようにレナの肉を貪った。痛みはない。ただ流れ出る血が熱いだけだ。感じる熱の分だけ、体は冷たくなっていく。死ぬのだと悟った。
しかし悲しくはない。
むしろ満足していた。カルラを守るという役目を果たすために戦い、死んだのだ。
彼女は別の街まで逃げられるだろうか。彼女なら逃げられるかもしれない。
少なくとも希望は繋がった。
死がこんなに穏やかなら、先に逝ったみんなもそう苦しみはしなかっただろう。
レナは目蓋をおろした。
そして――宿主の死を感じ取った不死の獣が目を覚ます。
それは滅びの具現化。
災厄の根源だ。
そこから先のことをレナははっきりとは覚えていない。
魔物の断末魔、引き裂いた肉の感触。それは記憶にある。
少しずつ大きくなるカルラの背中と、「お姉ちゃん!」という声。
それでおしまいだ。
▼△▼
そんなことばかりが鮮明に蘇ってくる。もっと幼い頃の幸せな思い出もあるが、どれもぼやけていた。
レナは自分の運命を再認識した。戦わなければいけない。この獣を滅するのだ。それまで幸せを求めることなどありえない。
無垢で純真な人格は破壊され、再構築される。記憶喪失前の鋼のような精神性が戻ってきた。
それでもすべてが消え去るわけではない。
喪失後の人格が長い長い記憶を思い出したのだとするならば、喪失前の人格はここ数十日の記憶を新たに得たのだ。
それは初恋だった。
記憶をなくしたゆえのではなく、本当の意味での初恋だ。幼き日々にも劣らない幸せな毎日。
楽しくて苦しくて楽しい、甘い生活。人生にはそんな喜びもあるのだと知った。
愛して、愛される温もり。
希望を得た。
いつかずっと先、運命をまっとうし終劇を迎えたときには――
あんな風でありたい。
そう望んでしまう。だが奪った命に申し訳が立たない。でも望んでしまうのだ。
心も体も、取り返しがつかないほど作り変えられてしまった。
「レナ」
彼が呼びかけてくれる。
その頬に手を添えた。彼の優しげな瞳が迫ってくる。レナも唇を近づけていく。
ちょうど中心で二人は交わった。
キスをする。結んだ約束の通り。
ただ粘膜を触れ合わせているだけなのに、なぜこんな気持ちになれるのだろう。脳からつま先まで幸福感で満たされていく。
体感では永遠のような接吻がついに終わりを迎えた。
「たくさんご迷惑をおかけしました。ごめんなさい。そして――ありがとうございます。これで私はなすべきことをなせる」
「うん、急な真面目っぷりに驚きだけど、まあ、おかえり? かな?」
「はい。ただいま、です」
「それじゃあ……」
「魔女を止めましょう。そして聖書原典十三章を取り上げます」
あとは決戦を控えるのみだ。
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