「Kiss me again」6

 導かれるままに通路を抜け、開けた空間に出た。


 ろうそくが四隅に一つずつだけ置いてある。その中心で男が祈りを捧げていた。男の足元にあるのは象徴文字と幾何学模様で構成された魔法陣だ。見覚えがある。それは日本から僕を召喚したあの白く輝く魔法陣と同じ構図だった。


 その上で膝立ちになり祭られた女性像へとぶつぶつ語りかけている男が――グレゴリウス。


「お待ちしておりました……」


 僕のファンを名乗る悪魔崇拝者だ。前も思ったが、なぜこいつが教会内でのうのうと息をしているのだろう。


「その魔法陣…… 君が僕を召喚したのか?」


「滅相もございません。私めが悪魔殿を呼び出すなど、とても叶うことではない。この魔法陣はただの猿真似です」


「ならば誰が?」


 グレゴリウスは禁じられた名前を口にするかのように、掠れた声で「魔女でございます」と囁いた。


 落ちくぼんだ目玉がぎょろぎょろ気味悪く動いて、怯えたレナが体を寄せてくる。


「異界の存在を招くことなど、かの者にしかできるはずもありません。只人にとっては雲を掴むと同義です」


「そう…… 僕は記憶を取り戻しにきたんだけど」


 グレゴリウスはばね仕掛けのおもちゃみたいに立ち上がった。


 そして壁に寄り、掛けられていた黒布をはぎ取る。


 そこにはいくつかの水晶玉が飾られていた。ただ保管するのではなく、鑑賞するための飾り付けだ。水晶玉の下には柔らかそうなミニクッションが置かれ、読めない走り書きのメモが壁に貼られていた。水晶一つ一つにゆとりある空間が与えられている。棚の中に入るだけ詰め込んでいたさっきの部屋とは違った。


 グレゴリウスが上から順番に指差していく。


「これが悪魔殿の記憶、これが滅びの獣の娘の記憶、そしてこれが――私めの記憶でございます」


「君の記憶?」


「はい。教区長に頼み記憶を抜いてもらいました。脆い人間の脳に保存するよりも、取り出した方が鮮やかなまま保てるのではないかと考えたのです」


「変わってるね」


「褒め言葉として受け取っておきます。――このコレクション、相当に素敵なものだとは思われませんか?」


「思わないよ」


 やっぱりこの男は狂っている。人の記憶をコレクションするって、悪趣味にも程がある。


「そんな顔をされるな。他人の記憶を覗くのは背徳的ですがそれに勝る楽しみを与えてくれる。人生の追体験、誰しもドラマを抱えています。私は大勢の記憶を見ましたが、つまらないものなど一つもなかった」


 レナが肩を震わせている。珍しくはっきりと怒っていた。


「楽しみとかドラマとか、人の人生をそんな風に言わないでください」


 そうだそうだと僕は心の中でレナに同意した。この男とはあんまり話したくない。


「滅びの獣の娘よ、あなたも一度味わえば理解するでしょう。――ここに飾っているのは数ある中でも最高に面白かった記憶でございます」


 僕の記憶は面白かったらしい。なんだそれ。映画じゃないんだぞ。


「……どうも。楽しんでもらえて何よりだ。面白い人生を送ってきた甲斐があったぜ」


「そのように言っていただけるとは恐れ多い」


「皮肉なんだけど」


 耳に入っていないのだろうか。グレゴリウスは語り続ける。


「……悪魔殿の記憶は図抜けて格別でした。異界からの召喚で始まり、まさに悲劇、そして今に至る。私めは確信しました。悪魔殿こそがこの世界の主人公であると」


 なるほど、だからこの男が僕のファンなどと名乗っていたわけだ。


 しかし僕は主人公ではない。この世界の主人公はレナだ。僕はその従者。


 グレゴリウスの目が奇妙な熱を帯び、カサカサの唇から歌うような言葉が流れ出てくる。


「あなたはこんな僻地にいるべきではない。もっと相応しい舞台がある。信頼し合う仲間と、戦うに値する敵がいる。何もかもが足りない」


「余計なお世話だ」


「私めは悪魔殿よりも悪魔殿のことを知っています。何度も見たのだから。これは善意の助言でございます」


「それが余計なお世話だって言ってるんだよ。僕がどう生きるかは僕が決める」


 少し荒くなった語気にもグレゴリウスは止まることはなかった。むしろ朗々と語る。


「私は滅びの獣の娘の記憶も見ましたが――お前は悪魔殿の隣に立つには相応しくない」


「相応しくない……?」


 突然に口撃の照準を合わせられたレナは戸惑いを隠せなかった。


「どういう意味ですか?」


「聞かなくていい!」


 思わず叫んでいた。それをレナに聞かせてはいけないと思った。


「相応しいとか相応しくないとか、そんなものはない。一緒にいたいと思ったらそうする。それだけだ」


 グレゴリウスは大袈裟に首を振った。自分を役者とでも勘違いしているのだろうか。腹立たしい。


「目にしたはずです、その女はこの世で最も罪深き存在。そして悪魔殿が司る悪業は――断罪。これだけでも答えが分かる」


 傷が疼いた。


<汝は断罪の悪魔。我は断罪の悪魔>

<罪を断て。償わせろ。贖わせるのだ>


 いつの間にかレナの顔が真っ青になっている。そのことに気づいたと思ったら、もう抱きしめていた。


 血の気が失せてふらふら揺れる体を支える。


「ユウ…… 私は……」


「狂人の妄言だ。気にすることない」


「その女は世界で最も多く人を殺している。築いた屍は山を超え、流した血で海が染まる。霊たちの恨み呪いが天にまで響く。あまねく生者が神にその者の死を乞う」


 僕はレナの両耳を塞いだ。


 過去を思い出すにしても、こんな方法はあんまりだ。誰ともしらない男に土足で踏み荒らされていいものじゃない。


「そしてこれからも殺し続ける。地に生きるすべての命が枯れ果てるまで止まることはない。そのように創られている。悪の根源であり象徴。星空を喰らう獣」


「もう黙れ」


 グレゴリウスの言葉は真実だ。そこに嘘偽りはいっさいない。だからこそ苛立たしい。


「悪魔殿も思い出さなければいけない。自分が何者であるか。何をしてきたのか。何をすべきなのか。その女が何者なのか。なぜこの街に来たのか」


 グレゴリウスが棚から水晶玉を取り上げ、神そのものを扱うように恭しく掲げる。


 ゆっくりと歩み寄り、僕の前で跪いてそれを差し出した。


「これがあなた様の記憶でございまず」


 ぼやけた不思議な輝きを宿す水晶。中では記憶が超早送りで何度も何度も再生され、観客を待ちわびている。


 これを額に触れさせれば、僕は記憶を取り戻すことになるのだ。


 傷が疼いた。


<取り戻せ。取り戻せ。取り戻せ>


「お納めください。そして取り戻すのです」


 僕はレナの耳から手を離し、それを受け取った。ずっしりと重たい。


「あなたは過去を失ったままではいけない。役割を思い出さなければ」


 グレゴリウスの言葉で情景が蘇ってくる。記憶を失っても魂は覚えているのだ。


「この世界で得た新たな家族――」


 そうだ。僕には新しい家族ができた。父と母と妹。それからペット。


「かつて愛した女――」


 おぼろげな顔が脳内を占有する。こびりついたイメージは消えない。モザイクがかかっているのに、愛しさがこみ上げてくる。


「出会いと別れ――」


 僕はこの世界でたくさんの人々と出会ってきたのだ。そして別れもあった。すべてが楽しいものではないが、悲しさばかりでもない。


「奪ってきた命――」


 人も殺してきた。僕はそれらの死に様をことごとく記憶していた。今は忘れているが、彼らから受け継いだ怨嗟を思い出すことになるだろう。


「果たされない約束――」


 大事な約束があった。絶対に忘れてはいけない約束だ。果たさなくてはいけない。


 血走った目玉が僕を下から睨みつけている。


「あなたにその女はふさわしくない。思い出すのです。どうあるべきか」


「ユウ……」


 レナが微笑んだ。でもすごく不自然でひきつったような笑み。辛さを隠しているのがすぐに分かる。


「過去を思い出したユウがどんな選択をしたとしても、私は責めないよ。責める権利なんてないし、恨みもしない。だから……」


 悪魔的直感が僕に告げる。記憶を取り戻せばこのままではいられない。変化を強制される。


 傷が疼く。



<取り戻せ、取り戻せ>


 水晶玉の輝きが語る。我を見よと。


 レナと過ごした日々が脳裏を駆け巡る。彼女はいつも笑っていた。


 選択の時が迫っている。


「さあ、それを額につけるのです。まさに戴冠。最強の悪魔の帰還を間近で拝めることに、私めは興奮しています」


 気持ち悪い男だ。不愉快さのあまりに僕の足はグレゴリウスは蹴り飛ばしていた。軽い彼の体は吹き飛んで壁にぶつかる。


 僕は水晶玉を高く掲げた。


 察したレナが僕の腕を押さえようとする。


「だめだよっ!」


 だが関係ない。止められるはずもないのだ。僕はやりたいようにやる。


 水晶玉を――地面に叩きつけた。


 パリンと鳴って砕け散る。小指の先くらいの小さな破片になって散らばった。もはや輝きは消え、ただの濁った小石でしかない。


 同時に脳裏を占めるぼやけた映像も消え去った。


 さらば記憶よ。


「ユウ……」


「ああああああ!!」


 グレゴリウスは絶叫し顔に爪を突き立てて掻きむしった。そして這いつくばりその破片をかき集め始める。


「なんということを! あああああああああ…… 何をしたのか理解しているのですか!? これは万金にも勝る至宝ですぞ!」


 うざったいのでもう一度蹴り飛ばす。彼は再び転がった。


「君はもう喋るな。――妄言虚言でレナを惑わせたことは罪だが、殺すほどではない。だから片腕をもらっていこう」


 倒れ伏せているグレゴリウスの右腕に触れる。


「朽ちよ」


 黒い蜘蛛が蝕んでいく。


 数秒もすれば彼の腕は炭化したように真っ黒になっていた。それは消えることのない呪いだ。二度と動くことはない。


 グレゴリウスは口を歪ませた。


「ハハハハハッハ!!! さすがですぞ悪魔殿!! 感謝いたします!」


 少女のような熱視線が突き刺さる。やはり僕はこいつを理解できない。


「思い出さないというのであれば、それも運命。取り乱してしまいました…… 悪魔殿は私の予想を超えていく。いやむしろ予定調和ですね」


「いいから去れ。そして二度と現れるな」


「かしこまりました。またお会いしましょう」


 グレゴリウスの背中は暗い通路へ消えていき、その足音はすぐに聞こえなくなる。


 後悔はない。傷はジンジンと痛んだままだが、そのうち諦めがつくだろう。


 レナは散らばる欠片を見て立ち尽くしていた。


「なんで……砕いたの……?」


「記憶なんて必要ないからだ。僕はすでに持つべきものを持っている」


「……私のせい?」


「レナのおかげ・・・だよ。僕は過去なんかに縛られたくない。それに気づけてよかった」


 助言も忠告もありがたく受け取るが、実行するとは限らない。


 過去の僕に対しては謝罪しよう。天邪鬼で申し訳ないとは思っている。だがきっと許してくれるはず。


 僕の過去は永遠に失われたのだ。


「次は君が選択する番だ。望むままにすればいい、我が主よ」


 棚にはレナの水晶玉が残されている。

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