「Kiss me again」5
ヴァイが扉を一つ開けた。
「ここも違うな」
廊下を少し進み、また開く。
「ここも違う」
もう少し進んで、また開く。
「ここは便所だ。チッ、いったいどこにあるんだ?」
ムムを先頭に、僕らはぞろぞろと遠足の行列みたいになって歩いている。
「まあゆっくりでいいんじゃない。水晶と玉やらに足が生えて逃げるわけでもあるましいし」
「そういうわけにもいかない。外が騒がしくなってきた」
壁の向こうから鎧が走るガシャガシャという音、それから焦ったような大声が聞こえてきた。
僕達の後ろには生死不明の騎士たちが犬のフンみたいに落っこちている。そろそろ見つかる頃合いだろう。
「ゲココ、君のあのお腹レーダーで探してみてよ。…………あれ、ゲココ?」
ずんぐりとした緑の図体が見当たらない。はぐれたとか迷ったとかではないだろうが、いったいどこへ?
レナが僕の疑問を察して答えてくれた。
「カエルさんは蝿を追いかけてったよ」
「自由すぎるだろ。亜人ってほんとに変わった奴ばかりだね」
まあいい。彼ならきっと大事ない。
通路の真ん中を早足で堂々と歩くヴァイは新しい扉のノブに手をかけた。
そして開く。
「ここだ……」
拍子抜けするほど簡単に、その場所にたどり着いた。
目に飛び込んできたのは水晶玉、水晶玉、水晶玉。
空間をぎっしりと埋めるように木棚が並んでいて、その一つ一つに数十の水晶玉が収められている。
それらは真球であることは共通だが、大きさも透明度も中で渦巻くモヤの模様も異なっている。
なんとなくわかった。その多様性はきっとそれぞれの人生を写し出しているのだろう。
それにしてもずいぶん多い。千は軽く超える。もしかしたら万にさえ届いているかもしれない。被害者が多いことは理解していたつもりだが、こうして実際に数を並べられると慄いてしまう。
「これだけ抜魂病患者がいると思うとぞっとするね」
「やはりあの女は殺さなくては」
「うん」
ヴァイの言葉には強い殺意が現れている。僕は大きく首を振って肯定した。
「それもなるべく苦しむように殺してやる。そのための準備もしてあるからな……」
「へえ、どんなの?」
ヴァイは悪魔もビビる凶悪なツラで笑った。
「皮膚が爛れて神経が裂け、それでも死ねないようなお薬さ。――興味があるなら試してみるか? 少量なら死なないぞ」
「遠慮させていただきます」
「そうか。まあまた暇なときにだな」
暇なときでも試さないよ。この女も狂ってる。味方でよかったぜ……
ムムが何かに気づいたように「ガウガウ」と吠えて、木棚の列のなかに飛び込んでいく。棚を倒して水晶を割るのが不安なほどの勢いだ。
「あの犬っころはどうしたんだ? まさかどれが自分の水晶か分かるのか?」
確かにムムは神に導かれるように真っ直ぐと、一つの水晶玉に向かっている。
僕の目ではその水晶は他のものとなんら変わりない。だが本人からすれば違うのだろう。
ムムが額を水晶玉にぶつけた。
水晶玉の中のモヤが激しくうねり、半透明の球体がその頭部へ沈んでいく。
固体が固体に沈んでいくというありえない光景のはずが、あるべきものがあるべき場所にかえったという納得感さえ感じられた。
つぶらな目を何度も開閉し、瞳の中で目まぐるしく情景が映し出されていく。記憶のリバイバルはほんの数秒で終わり、彼はついに二足で直立した。
そして口を開く。
「見苦しいところを見せたな…… さっきまでの俺の振る舞いは忘れてくれ」
それは獣の唸りではない、流暢な人間の言葉だ。
「いやあ、記憶が戻ってよかったね! ワンちゃんモードも可愛かったから気にすることないよ!」
「私は忘れんぞ。夜中までギャウギャウうるさくて眠れなかったんだ……」
ムムは申し訳なさそうに体を縮ませている。
追従してきていた市民たちも部屋に雪崩れ込んできた。「あれだ……」なんて呟き、やはり導かれるように動き始める。
一人、また一人と自分の水晶に触れ、記憶を取り戻していく。
泣いてしゃがみ込む者もいた。笑って抱き合う者もいた。じっと俯いている者もいた。彼らの心情を推し量ることはできない。
レナが僕の手をぎゅっと握った。その手はわずかに震えている。
「こんなに早くてあっけないなんて…… もっと覚悟を決める余裕があると思ってた。まだこの街に着いて数時間も経ってないのに」
「時間が必要なら、今すぐじゃなくたっていい。もし嫌になったならやめたっていい。僕は中央大陸で冒険者になるのも魅力的な選択だと思ってるよ」
「ううん。覚悟ができてなくても踏み出さなきゃ。それに……ユウと一緒なら怖くない」
しかしレナの目は潤み、指先の痙攣はおさまろうとしない。彼女は理解しているのだ、このままのほうが楽しく生きられると。
「記憶が戻ったって、ここ最近の思い出が消えるわけじゃない。――僕とのいちゃいちゃ生活は幸せだったでしょ?」
「フフ、まあそこそこ? ……たくさん笑ったし、美味しいものを食べたし、初めてのことも経験した。記憶を消してもう一度って言うけど、ほんとにそれができたんだから魔女には感謝しないと」
「うん、初めてガルメシア暗黒肉を食べたときの驚きのためなら、僕はもう一度記憶を奪われたっていい」
「あれは……美味しくなかったよ。罰ゲーム用の珍味でしょ。ユウは貧乏舌だから」
「僕は貧乏舌じゃない」
「はいはい、グルメだよね。――そんなことはどうでもよくて」
手を重ねて熱を伝える。口下手な僕にできるのはこれだけだ。
「ユウでよかった。それだけ」
レナは微笑む。
「言えてすっきりした。……なんか恥ずかしい。あんまり見ないで欲しいな」
いくらご主人様でもそれは無理だ。照れて紅潮した表情を穴の空くほど見つめる。
「好きだ。僕が記憶を取り戻したってずっと好き」
より頰が赤くなって「ありがと」と蚊の鳴くような声で囁く。
「……はやく見つけよう。いつまでもここにいるわけにもいかないし」
僕とレナは部屋中を見渡し、記憶の水晶を探した。
そしてそれは――
▽▲▽
どこにもなかった。
部屋の隅から隅、棚の端から端まで確認したが、他のと違って見える水晶玉は存在しない。ムムによれば「星みたいに輝いてた」とのことだが、どれも濁り曇ってぼやけている。
僕のものも、レナのものもない。
「ない……」
「ないねえ……」
僕たち二人以外は全員が記憶を取り戻していた。彼らはまるでゾンビから生身にもどったみたいに生き生きとしている。
ここにないならどこにあるのか。まさか、もう……
「どうしよう」
「別の場所を探すしかないけど……」
腕を組んだヴァイが口を挟んでくる。
「あまり悠長にやってる時間はないぞ。魔女は何やら大規模な儀式を企んでいる。そして今日は巡回の騎士が妙に少なく、寝床も空だ。――急がなければ取り返しのつかないことになるかもな」
「儀式?」
「詳しいことは知らないが、ロクでもないもので間違いない。私はムムを連れて止めに行く」
魔女による聖書原典十三章の儀式。ヴァイの言う通り、パンとワインを無限に召喚するみたいな平和なものじゃないだろう。
「なら僕たちもひとまずついていくよ。魔女から聞き出せば解決する話だし」
「よし。吐かせる前に殺すなよ」
そして僕らはまた行列となって部屋を出た。
「儀式を行うなら、魔女は必ず大聖堂の中だ。屋根が崩れたとはいえあの場所が最も適している」
「ふーん」
そのとき、傷が今までにないほど痛んだ。刃で再び抉られているような鋭い熱。そして僕に語りかけてくるのだ。取り戻せ、取り戻せ、取り戻せ。
分かったって。心の中で念じる。「分かったから治まれ」。ほんの少しだけ痛みが和らぐ。
どこからか良い匂いがした。
僕の足は勝手に立ち止まっていて、視線が廊下の奥、曲がり角の向こうに吸い込まれた。
誘われている。導かれている。
レナが不安げに問いかけてきた。
「どうしたの? 顔色が悪いけど」
「大丈夫だ。――ヴァイ、先に行っていてくれ。僕はちょっと用事ができた」
「……手早く済ませろ」
ヴァイは何も聞かずに頷いた。僕とレナを残し、建物の外を目指して離れていく。
「用事って?」
「記憶を取り戻すんだ。行こう」
僕は暗闇に向かって歩みを進めた。
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