「Why you should stand up for What」9
――十二日目、夜――
あれから三日が経った。サミーリアからの連絡はまだないので、僕は怠惰な日々を過ごしている。
この狭いアパートにはベッドが一つしかない。当然僕とレナは一緒に眠る。
水浴びを終えた僕は髪の毛の水気をふき取りながら部屋に戻った。レナはすでに薄いパジャマに着替えて、ベッドの上で体操座りをして膝の間に顔をうずめていた。これは彼女の癖だ。一人きりになるとだいたいこの姿勢で小さくなっている。
レナは顔を上げた。目が合う。そして嬉しそうに頰を緩めた。彼女は眠るとき、長い銀髪を緩く結んでサイドテールにする。シュシュみたいなふんわりした髪留めだ。とても可愛い。
「……待ってた」
「うん」
ほんの少しだけ、五分も離れていない。それでもレナは寂しかったらしい。
「もう寝る?」
「うん」
僕たちは裕福ではない。日々の食事を節約するほどではないが、夜遅くまで灯りをつけておくのは贅沢である。この世界では高いのだ。
レナはシーツの下に潜り込んだ。顔だけ出して、目が「はやくはやく」とせかしてくる。僕は灯りを消して、彼女の隣に寝転がった。ベッドは一つ、枕も一つなので仲良く半分こだ。
すぐにくっついてきた。
「水、冷たかったでしょ。温めてあげる」
「……ありがと」
「えへへ」
レナは体半分を僕の上に乗せるようにして抱き着いてくる。薄いパジャマは女体の感触を余すところなく伝え、僕は呼吸を止めた。
「ねえ…… 明日は……どうしようか」
「そうだねえ……」
僕たちはとりとめもなく、ゆっくりと会話のラリーを始めた。今日起きたこととか、明日したいこととか。レナが「見かけたあのお店が気になってるんだ」と話し出して、僕が「じゃあ行こうか」とか「高そうだよ」とか返す。あるいは今日の出来事であれが可笑しかったとか、不思議だったとかだ。
この時間がたまらなく好きだ。振り返ってみて思い出すような時間ではないが、こういうものが情愛を育む。会話はどんどんペースを落とし、話すことがなくなったくらいでレナは静かになる。
そして寝息をたてはじめるのだ。
「すー…… すー……」
艶やかな毛先がレナの頬にかかってくすぐったそうなので払って耳に掛ける。目蓋が少し動いた。
正直言って、眠れない。だって絶世の美少女が息もかかりそうな近さにいるのだ。眠れるはずもなかった。唯一の救いは暗くてその美貌がはっきりとは見えないこと。
そして僕の理性をどん底に突き落とすのは、――レナが実は眠っていないということ。寝たふりをしている彼女は毎夜毎夜とんでもないことを始めるのだ。
「すー…… すー……」
ちょっとわざとらしい寝息だ。レナは知らないだろうが、彼女はほんとに眠っているときはもっと静かに眠る。
寝返りを打って僕に強く抱き着く。
柔らかい乳房を腕に押し付けるように。
太ももをスリスリと擦りつけるように。
そして僕の手は股の間に挟み込まれてしまい、指先は湿った肉の狭間に埋もれる。
「…………」
今夜もまた始まってしまった。
僕が死体のごとく静寂を保っているとレナの抱擁はより一層きつく、動きは細かく速くなる。
なぜこんな行動を始めるのか、僕には分からない。昼間に尋ねることもできない。朝起きたらレナはけろっとしているのだ。
一際強く体が押し付けられた。体の角度を変えて、動きが激しくなる。荒い息遣いが漏れはじめた。
「レナ……? 寝てるの?」
「すー…… すー……」
寝ているらしい。
それでも下半身の動きは収まらない。
しょうがない。今日も相手をしてあげないといけないようだ。
「…………」
僕は体を横向きにして、レナを思い切り抱き締めた。震えが伝わってくる。そしてレナに向こうを向かせて、背中から前に手を回す。後ろ抱きというやつだ。僕より幾分か小さいレナの体はすっぽりと腕の中におさまる。そして指先をレナのすべやかな鼠径部に沿わせて動かし、その最奥へ。
水音がした。
「あ……んっ……」
なぜレナはこんなことをしてしまうのだろうか。
レナが眠っていないのは明白だった。そして僕が「レナが眠っていない」と気づいていることも、レナは分かっているはずだ。全ては了解の上なのに、それでもレナは寝たふりを続ける。
鼻息が荒い。
「――んんん…… ぁぅ…………」
これはきっと、性欲ではない。
純粋な恋愛感情でもない。
レナは不安なのだ。僕以外を頼ることはできず、精神的にも経済的にも社会的にも完璧に依存している。だからこれは自分の存在価値の表明なのだろう。僕に捨てられたらレナは孤独になり、そして死ぬ。記憶をなくした彼女はこの過酷な世界で生きていけない。それをレナは分かっている。
「はぁ…… はあ……」
もしかしなくても、体を使って僕を引き留めようとしているのかもしれない。
捨てないで。
一緒にいて。
なんでもさせてあげるから、と。
これは僕としては不満である。レナがそうしなかったからといって僕がレナを見捨てるなんてことは、絶対にない。その気持ちが伝わっていないのだ。何度も繰り返し言葉にしているのに。
ならばこうしてしつこく――
「んッ――」
レナは体をつま先までピンと伸ばした。筋肉が強張っている。一瞬の間を開けて、背中を逸らしてビクビクと震えた。どうやら悪魔の指はとんでもないらしく、レナはすぐに乱れてしまう。
「ふっ…… ふっ……」
その赤みを帯びた耳元に囁く。
「ずっと一緒だ」
しかし、まだレナは満足しないようだった。僕の腕を掴んでぎゅっと背中を押し付けてくる。そしてお尻をふりふりと動かした。わざと僕に当たるように、小刻みに擦りつけてくる。
「ね…… ね…… ねぇ……」
まだ寝言のつもりなのだろうか。柔らかいお尻の肉が僕の興奮を焚きつける。剛と柔がぶつかり合う。哀れな、同情を誘う求愛行動だった。彼女が求めているのは一つ。僕にだって分かる。もう一歩先の愛情の証明だ。
「ねえ…… ねえ……」
無視する。黙って指の反復運動を再開した。それでレナの動きも止まる。僕はレナの求めに応えるつもりはなかった。
「く…… んぅ…… んぅ……」
だってそれは――卑怯だ。
それは例えば、父親が娘に手をかけるような行為だ。誘拐犯がストックホルム症候群にかかった被害者と関係をもつような行為だ。
レナには僕しかいない。どれだけ媚びられようと、どれだけ求められようと、その一線を踏み越えることはできない。キスなんかはしてしまっているが、それは神も許すだろう。レナを安心させるためだと思っている。
このまま境界線の向こうに二人で落っこちたとして、もしもレナが何かの拍子に記憶を取り戻したら、どう思うだろうか。軽蔑するような表情を想像してしまって、それが僕を抑え付ける最後のストッパーでいてくれる。
「すき……」
ほんの小さな声。
僕は心の中のダムが決壊しそうになるのを必死にこらえた。レナの望みを叶えないのは、ただ卑怯だからという理由ではない。一度そうしてしまえば、僕は七日七夜その体を貪り続けるだろう。他のことはなにも考えられなくなる。悪魔にも劣る――獣だ。
傷が疼く。
<衝動を抑えろ>
<衝動を抑えろ>
<衝動を抑えろ>
跡が残るくらい口の中を噛めば痛みが少し興奮を冷ましてくれる。僕はレナの細くて白い首筋に顔を埋めた。そしてそのうなじに口づけを落とす。
「かわいいね」
「ぅん…… んんんッ……」
大丈夫だ。
僕もまだ耐えられる。
だが――明日はどうだろうか。明後日はどうだろうか。確実に崩壊は近づいている。この腕の中の可憐で可哀想な愛しい乙女を、悪魔の欲望のはけ口にしてしまうのはイヤだ。今のレナは喜び、ともに溺れてくれるかもしれない。
しかし僕が出会ったときのレナはそうではない。彼女は優しくて強くて芯のある人間だった。
「好きだよ。なにより好きだ。愛してる」
こうして根気強く声をかけ続け、何度か高ぶりを頂点まで導いてやれば、レナは満足してぐしょぐしょのまま眠りに落ちる。
そうして僕は夜に取り残されるというわけだ。神に誓って言うが、僕はレナを自分の欲求の解消のために使ったことはない。いや、神ではなく大魔王に誓っておこう。疲れてしまったレナの赤子みたいな安心した寝顔を撫でながら、僕は羊を数えてなんとか眠ろうとしなければならない。
「んぅ…… はぅ……」
しかし、今夜のこの苦行はもう少し続きそうであった。
「ゆぅ…… んんんんんッ――! っ…… ふっ…… ふっ…… ふー……」
地獄の苦しみとはかくやあらん。僕はいるかもわからない地獄の大魔王に祈りを捧げた。我を救いたまえ。
▼△▼
――十三日目、朝――
翌朝。
射し込む陽の光によって、僕は覚醒した。寝ぼけ眼をこすりながら上体を起こす。レナはすでに隣にいない。キッチンから調理する音が聞こえてきていた。
彼女はいつも僕より早く起きている。それは毎夜僕が苦しんで眠れないというだけでなく、修道女である彼女の生活リズムによるところなのかもしれない。
顔でも洗おうかとベッドから這い出る。レナがキッチンから首を出した。
「おはよう。もう少しで起こそうかと思ってたんだ。朝ごはんもうできるよ」
一分子の曇りもない笑顔。レナは朝でもめちゃくちゃ可愛い。その晴れやかな佇まいは聖女みたいだ。昨夜の淫魔みたいな色香とはかけ離れている。
「おはよ」
レナの後ろを通り過ぎて洗面所に向かおうとすれば、「えいっ」という掛け声とともに胸に飛び込んできた。
頬ずりしてくるレナの頭を撫でる。急にどうしちゃったんだろう。上目遣いの紅い瞳と目が合う。僕の困惑を見抜いたのか、レナは首を傾げた。
「"おはよう"のハグ。きまりでしょ?」
「……そんなの初めて聞いたけど」
「だっていま考えたもん。今日からは毎日するよっ」
「はいはい」
脱衣所へ向かう。水でバシャバシャと顔を洗い、歯を磨く。鏡に映る僕の顔は幸せそうに緩んでいた。背後からは何かが焼ける音と、香ばしい匂い。天上の果実がこの世にあるとすれば、それはきっとレナが持っているに違いない。
顔を拭いてキッチンへ戻る。ついでとばかりに、僕はレナを後ろから抱きしめた。髪から香る甘い匂いを吸い込む。
「どうしたの? 仕返しのつもり?」
「……これは"顔洗いました"のハグだよ。それから"お腹減った"のハグも兼ねてる。もちろん今作った」
「なにそれ、おバカさんだね。――そのうち歩くたびにハグすることになりそう」
鈴を転がすような笑い声。耳から幸せになるとはこういうことなのか。
レナが焼き上がった卵焼きをフライパンから取り出した。
「今日は隠し味を入れました。ちょっと味見してみて」
卵焼きに隠し味って……いったいなんだ。当ててやるぜ。
「あ、目は瞑ってください。そっちの方が当てやすいかも。はい、あーん」
言われた通りに目蓋を下ろす。
出来立ての卵焼きの匂いが近づいてきて――
何かが唇に触れた。ちゅっと吸い付かれる。僕も吸い返した。卵焼きよりずっと薄くて、わずかに湿り気がある。もちもちとして柔らかい。そして熱くはない。味は……なんだか甘い。
目蓋を持ち上げる。レナの大きな目が近くにあった。最後に軽いリップ音を立てて離れていく。そしてニコリと目を細めた。
「隠し味は悪戯心でした! 貧乏舌のユウには難しかったかな?」
「……分かってたけどね。それと貧乏舌じゃないから。グルメだから。食に関しては自信がある」
「はいはい。そんなに言うなら明日からも隠し味を仕込んであげる」
「明日と言わず、今日の昼も夜もおやつも仕込んでくれないか?」
「フフ、どうしようかな。……もうできたから運ぶね、座ってて」
部屋に戻る。レナはすぐにお盆をもってやってきた。二人で座卓を囲む。
「じゃあ……食べよう!」
「いただきます」
「召し上がれ」
レナに見守られながら料理を口に運ぶ。美味しい。彼女は異界人である僕の好みに近づけるべく、味の調整を欠かさないのだ。
「おいしいよ。すっかりニホン風の味だ」
「ならよかった。頑張った甲斐があったね。……いただきます」
律儀にも手を合わせ、一瞬祈るかのような仕草をしてから食事を始めた。記憶を失う前のレナの仕草はそこかしこに垣間見える。変わっていないところも、変わったところも、そのすべてが愛おしく思える。改めて言葉にすることにした。理解してくれるまで何度でも繰り返そう。
「レナ。僕はこういう日常が大好きだ。特別な出来事やいやらしい何かが無くたって、こうして食卓を囲むだけで満たされる。――約束しよう。何があってもずっと一緒だ」
少女ははにかむ。僕の言わんとすることは伝わっただろうか。その頬の紅潮が昨夜の淫らな姿を思い起こさせた。
「急に真面目な顔で恥ずかしいこと言うんだね。……ありがと。じゃあ指切りする?」
短い小指が突き出される。僕はそれに自分の小指を絡めた。
▼△▼
そのようにして計三日間の休みを過ごした。昼は穏やかに、夜は官能的に。
僕には分かる。悪魔的直感が告げてくるのだ。この約束はいずれ試される時が来るだろう。
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