「Why you should stand up for What」8

 僕らは街に戻ってきた。


「少しは良くなった?」


「ぜんぜん。サキュバスは呪いを使う分呪いに弱いのよ……」


 背中の上のサミーリアはまだぐったりしている。


「歩けそう……にはないね。どうしよう。家まで連れていけばいい?」


「そんな淫らなことだめに決まってるでしょ。……癒し手のところまで運んでちょうだい。そしたらすぐ治るから」


「淫らなのはボスの頭の中だけだろ。――わかったよ。最高の癒やし手に頼むしかないね」


「よろしく......」


 レナとサミーリアを引き合わせたくはなかったが、絶対というわけではない。体調のほうが優先だ。


「僕は道を全く覚えていないんだけど、おばあさんのパン屋はどっち?」


「ずーっと真っ直ぐよ…… 待ちなさい。あなた、弱った私を家に連れ込もうとしてるわね……」


 その言葉を最後に、サミーリアは意識を失った。ずしりと重みが増したように感じられる。少しだけ不安が募る。


「大丈夫だよね……?」


 この世界の病も呪いもまったく知識がないので、重症なのかどうかも分からない。早足で、しかしなるべく揺らさないように。それだけを考えて歩けば、すぐにパン屋が見えてきた。それと同時に、外に出て待っているレナの姿も。こちらに大きく手を振っている。


「レナ!」


 慌てた様子で駆け寄ってきた。


「どうしたの? その背中の人は――怪我人?」


「そんなところ。癒しの術をかけてもらいたいんだけど……頼めるかな?」


「私がするの? やったことないけど……」


「君ならできるはずだよ」


 レナは青ざめた顔で頷いた。


「やってみる……」




▼△▼




 サミーリアの体をベッドに横たえる。


 彼女は防護服のようなものを着ているので、うつ伏せにして背中のチャックをおろして引っこ抜く。皮を剥かれて美しい肢体がまろびでた。黒くてぴっちりとしたボディースーツに覆われた、ああサキュバスの血を継いでいるんだなと納得する魅力的な体つきだ。


 そしてヘルメットも外せば、ふわふわした髪の毛からぴょこりと飛び出したねじれた角があらわになる。レナは見てはいけないものを見てしまったように、口に手を当てて驚いた。


「サキュバス……」


「そうだよ。ハーフらしいけど。僕の上司」


「………………とにかく癒しの術を試してみるね」


 レナは聖書を開いた。指はひとりでに目的のページまで捲っていく。目を閉じて、手をかざす。


「我が命の灯をこの者に分け与えたまえ」


 チラチラと星が舞った。


 記憶を失えどその輝きには一部の曇りもない。大気を震わせて骨の芯にまで染み渡る、恐ろしいまでに神々しい祈り。心が洗われるような、とはまさにこんなことなのだろう。


 サミーリアはすぐに目を覚ます。顔色は上々だ。ぱちくりと目を開閉して部屋の中を見渡し、僕を見つける。


「ありがとう。――呪いは晴れて頭痛も消えた。それに細かい傷も無くなってる…… 凄い聖術だわ」


 その視線がレナをとらえた。


「これはあなたが?」


 レナは黙って頷いた。顔には警戒の色がありありと表れている。それを感じ取ったサミーリアはつまらなさそうに鼻を鳴らした。なんだか気まずいぜ。


「どうして嘘をついたのかしら。腕の良い術士に心当たりはないと言っていたのに」


「……この娘は壁外には連れて行きたくない。ちょっとした病気で、今は安静にしておきたいんだよ」


「ふーん。………………まあいいわ。こっちはこっちの伝手を当たるから。他にないときの最終手段ということにしておきましょう。――それじゃあ帰ろうかしら」


「もう大丈夫なの?」


 立ち上がったサミーリアは腕を伸ばして背を逸らした。快調そうである。


「おかげさまで。……私は術者を探してみる。二、三日後に会いに来るわ。いつでも出発できるようにしておいて」


「ラジャー。……お茶くらい飲んでいく?」


「気持ちだけ受け取っておくわ。歓迎されていないようだし。――またね」


「うん。また」


 サミーリアは最後にレナにウインクを飛ばす。


「治療ありがと、お嬢さん。お邪魔したわね」


 尻尾を器用につかいすばやく防護服を身にまとった彼女は、何ともいえない空気を残して去っていった。


 しかし、ほんの短い滞在にもかかわらず、レナと二言三言しか会話していないにもかかわらず、彼女はとんでもない影響を与えていったのだ。


「レナ……?」


 レナはどこを見るでもなく突っ立っていた。いつも無邪気なはずのその顔は死体のように土気色になっている。僕はどこかで致命的な失敗を犯してしまったことを悟った。これはまずい。どうにか修復しなくては!


「数日間休みになったから、昼間も一緒にいられるね。どこか行きたいところとかあるかな」


「…………」




▼△▼




 ユウが女を連れて帰ってきた。女の匂いがユウから、部屋から香ってくる。しかもその女は男を惑わすことで有名なサキュバス。三つの事実だけでレナは気が狂いそうだった。


 サキュバスが部屋を出て行ったことで取り繕っていた仮面が剥がれ落ちたのだ。突きつけられてしまった。自分がどれだけ彼に甘えていたのかということを。


 他の女に触れないで。


 私だけを見ていて。


 私がんばるから。何でもするから。


 彼を奪わないで!


 言葉が喉を突き破って出ていきそうになるのをなんとか堪える。レナは崩れ落ちるようにソファにへたりこんだ。


「どうしたの!?」


 ユウが寄り添ってくれる。その困った表情がレナを少しだけ安心させた。心配してくれているのだと。


「なんともないよ。心配しないで」


 なんともないわけない!


 もっと心配して!


 ずっと一緒にいて!


 思いがグルグルと巡る。しかしそれらと真反対の言葉しかでてこない。今のレナは思いのままを口に出すほどの自信と傲慢さを持ち合わせていないのだ。強く自戒する。わがままでめんどうな女になってはいけない。求めてはいけない。望んではいけない。その資格も価値もないのだから。


 レナはなんとか口角を持ち上げた。うまく笑えているだろうか。


「ちょっと目眩がしただけ。なんでだろうね」


「そう。……一応言っておくと、さっきの女性――サミーリアはただの上司だから。へんな関係じゃない。安心して」


「ふふ。私が嫉妬してると思ってるの?」


「……ごめん。自惚れてたかも」


 ユウは心配そうなままだ。レナの脳裏に悪い考えがひらめいた。心配させ続ければ心優しい彼はずっとそばにいてくれるだろう、と。


 はらりはらりと涙が頬を伝っていく。ユウはすぐそれに気づき、そして肩を抱いて背中をさすってくれる。レナは冗談めかして口を開いた。


「あのサキュバスとは……どこまでしたの?」


 ユウの瞳が揺らぐ。


「…………何にもしてない」


 嘘だ。レナには分かった。ユウは嘘をついている。後ろめたさを感じさせるくらいの何かがそこにはあるのだ。


 心の内で炎が燃え上がる。それは激しい大火となって体の内側を焼いた。負けてはいけない。譲ってはいけない。奪わせてはいけない。レナには――彼しかいないのだから。


 泣いている暇などないのだ。


 彼の背中を握りしめて、目を合わせる。


 鼻の頭と鼻の頭をぶつけた。吐息がどちらのものか分からなくなるほど近い。唇は触れ合う直前だ。数秒間強く見つめて、目蓋を下ろす。


 レナは知っている。こうすればユウは我慢できなくなって――


 ちゅっ、と軽い音。啄むような優しいキス。お腹がじんわりと温かくなってくる。


 だがまだ足りない。吸い付いてくるユウを引き剥がして、耳たぶにかじりつきながら息を吹きかける。


「下手っぴだね」


 彼の瞳に獣のような嗜虐的な情欲が映し出された。それでもなお煽る。


「なんか――子どもみたいなキス。…………んむぅッ」


 挑発への仕返しは苛烈だった。歯列を割って、舌がねじ込まれる。無垢な口内の粘膜が蹂躙されていく。いままでのキスがお遊びに過ぎなかったのだと教えられた。じんじんと体が熱くなって、その熱は行き場なく蓄積されていく。


 レナは不慣れながらも懸命に応じた。彼の動きを真似して、ただがむしゃらに、与えられたのと同じだけを返す。


 引き込んだのか、あるいは押し倒されたのか。いつの間にか彼に組み敷かれていた。レナの華奢な体は、ユウの細身だが男性らしい筋肉に制圧されてしまっている。抵抗はできない。彼が上で、レナが下。支配されるような関係性が心地いい。


「なんでキスしたの?」

 

「……好きだから」


「ふーん。どのくらい好きなの?」


「ずっと一緒にいてあげたいくらい」


「そうなんだ。どんなところが好きなの? ――やっぱりこの質問はナシ」


「全部好きだよ」


 そんなありきたりで適当な言葉じゃ納得できない。満たされない。


「――証明して」


 舌を出して唇を舐める。それだけで彼は誘いにのってくる。


 押し潰すような暴力的なキス。今度はレナは応えることさえできなかった。ただ息をするだけでいっぱいいっぱいになってしまい、生娘には耐えられない。


 頭蓋骨の中で淫らな音がぐちゅぐちゅ、じゅぷじゅぷと反響した。息が苦しくなって、気持ちよさしか考えられなくなる。快感が下腹部からせりあがってきた。


 脳みそが愛で犯されている。彼の動き一つ、吐息一つからそれが伝わる。舌が絡み、口内の形をなぞられる。痺れが頭からつま先まで何度も往復する。ねっとりとした唾液が二人の唇の間に透明な橋を作った。


 ユウは苦しそうに歯を噛んでいる。やはりレナには分かる。彼は我慢して、抑えているのだ。それが嬉しい。女としての魅力が彼の理性に打ち勝とうとしているのだから。彼を繋ぎ止めなくてはいけない。


 口を開く。


「ねえ……もし私のことが足枷になるんだったら――捨ててもいいよ?」


 ユウが悲しそうな顔を作った。


「そんなこと言わないで。捨てるなんてありえないから」


 それはまさに望んでいた言葉だ。最上の快楽物質が分泌されて、頭がぼんやりする。彼が抱きしめてくれる。それもまた望んでいること。


 そして思う。


 ああ、やってしまった。


 自分はなんてずるくて卑怯な人間なのだろうか。


 優しいユウに「捨ててもいいよ」なんて言えばどう答えるかは分かりきっている。分かった上で口に出したのだ。


 謙虚で可哀想な女を演じているが、腹の中ではすべて計算ずく。彼から望む言葉を引き出したいばかりに彼を困らせ、心配させ、苦しめている。そしてそれを喜んですらいる。自分の存在が彼の感情を揺さぶっているのだと。


 罪悪感で急速に熱が冷めていった。


「ごめんなさい……」


「……どうして謝るのかしらないけど、僕に謝罪なんて必要ない。君の使い魔なんだから」


「……使い魔ってなに? そんなのじゃ分かんないよ。ちっとも分かんない……」


「僕は悪魔なんだ。レナ・ヨハルネスと契約した。君の望みを現実にする」


「なら私は……」


 今レナの胸中にある望みはたった一つだけ。しかしそれを吐き出すほど素直にはなれなかった。


「なに? どんなことでも言ってくれ」


「ううん…… こうしてくれるだけで満足だから……」




▽▲▽




 レナが突然幽霊みたいな顔色になって泣き出したときは冷や汗が止まらなかったが、どうにか落ち着いてくれた。


 しかしここから僕はさらに苦しめられることになった。彼女のとんでもない奇行が始まったのはこの日の夜からである。

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