「Why you should stand up for What」5

 サミーリアは怪しげに笑う。ただ瞳だけは冷ややかに僕を映していた。


 聖書原典十三章。またそれだ。


「受けようじゃないか」


 何も考えずにそう答えていた。聖書原典十三章を求めよ。それが過去の僕からの助言だ。サミーリアが嬉しそうに手を叩いた。


「いい決断力よ。もちろん報酬は弾むわ。――本当は催眠をかけて独り占めするつもりだったけど」


「ありがとう。一応聞いておくんだけど……罪のない人を殺して盗んでこいって言うんじゃないよね?」


 それだったら僕は実行できない。公平さに欠ける行いはマイルール的にノーだ。


「違うわ。むしろ逆。魔物に殺された死体から遺物を回収するの」


 ならばいい。僕の良心も痛まない。


「壁の外に出ることになる。よく準備をしておいてね。さっそく明日から、数日はかかる。質問はある?」


「ない」


 全てはなるようになるだろう。壁外を歩くというのは不安もあるが、好奇心の方が上回る。ついに魔物をお目にかかれるのだ。


「余計な質問もナシ、と。やはりよく調教されているようね。今回の仕事ぶりが良ければまた別件を頼むこともあるかも。気張ってちょうだい」


「アイアイサー、ボス」


 サミーリアがぽんと小袋を投げ渡してくる。つかめばチャリチャリと幸せな音がなった。中を覗き込む。


「わあ、こんなにたくさん……」


「それは前金よ。成功報酬はそれの二倍。私の誠意の表れね。そして口止め料でもある。やる気が出てきたかな?」


 毎日食べ放題の店に行ったってしばらく使い切れないほどの金額だ。この世界でも誠意の単位は積んだ金の高さだ。分かりやすくていいじゃないか。


「任せてくれ。契約は絶対。君は求めるものを手に入れるだろう。――僕はユウ。よろしくね」


 手を差し出す。握手だ。サミーリアも手を出してくる。触れ合う瞬間、その紫色の瞳が再び輝いた。しかしどうともない。


「……効かないから。諦めなって」


「なんでよッ――」


 身を引いて睨みつけてくるサミーリアの服の下からポロリと何かが落下した。拾い上げる。お椀型で生温かい。


「これはいったい……」


「パッドじゃないから!」


 サミーリアは腕で胸を覆い隠した。心なしか膨らみが萎んでいるような……


「まさか……そんな……だってサキュバスだぞ……」


 驚きのあまり動けない僕の手から、サミーリアがパッドをひったくり、後ろを向いてもぞもぞ何かを始める。彼女が振り返って向き直ったとき、モデルのようなプロモーションに戻っていた。


「そんなことが……ありうるのか……?」


「貧乳なサキュバスだっていますけど! ――私は巨乳だからね! これは作り物じゃないから!」


「……そうなんだ」


 僕はどうやら地雷を踏み抜いてしまったようだ。申し訳ないぜ。


「そうだよね。ちなみに僕はどっちもいけるタイプの人間だから、安心してほしい。大事なのは愛さ。気に病むことはないよ」


「うるさい! 私を慰めるな!」


「貧乳だって素晴らしいものさ。自信を持つんだ」


「だーまーれっ!」


 変わったハーフサキュバスだ。だが悪い人ではなさそう。きっとビジネスパートナーとして上手くやっていけるだろう。


「あ、そうそう、報酬の件で一つお願いがあるんだけど……」




▽▲▽




 ノックする。二回、一拍おいて三回、一拍おいて四回。


 扉はすぐに開いた。今日は合言葉はいらないらしい。


「おかえり!」


 満開の笑顔のレナが胸に飛び込んでくる。ほとんどタックルだ。なんとか受け止める。


「お仕事おつかれ。今日は遅かったね」


「いろいろあって」


 ぐりぐりと顔を押し付けてくるレナ。銀糸を梳かすように撫でつける。


「ただいま。何もなかった?」


「何にも。強いて言うなら隣のカップルが痴話喧嘩を始めたくらい。男の浮気がどんどんバレてたの。おかしくて聞き耳立てちゃった」


「それは災難だったね」


 南無三。性欲には抗いがたし。男に救いがありますように。レナは冗談めかして怒った顔を作る。


「浮気するなんてサイテーだよねえ。もし私がそんなことされたら……パンチしちゃうかも」


「ハハハ」


 なんか怖いんですけど。パンチくらいじゃ済みそうにはない。切り落とすくらいの気概がありそうだ。


「私、すぐ分かるからね。隠そうとしても無駄だよ。匂いがするの」


 レナの目からハイライトが消えていく。おいおい。これはまずいか? 別に僕は浮気なんてしていないが、サキュバスの香りが移ったのかもしれない。


「――なんちゃって。びっくりした?」


 レナが赤い舌をぺろりと出した。


「匂いなんて分かるわけないでしょ。犬の亜人じゃあるまいし」


「ハハハ」


 恐ろしい話題はさっさと終わらせるに限る。僕は大胆に舵をきった。


「レナ、このホテルとは今日でおさらばだ。出発する準備をしよう」


「そうなの? 別の宿に移る?」


「うん。期待してて」


 準備といっても荷物はほとんどない。着のみ着のままでこの街までやって来たのだから。結局レナと僕は手ぶらで部屋を出た。


「明日からは新しい仕事をすることになったんだ。しかもかなり報酬がいい」


「よかったね! どんなお仕事?」


 僕は少しだけ言い淀んだ。レナになるべく心配はかけたくない。しかし嘘をつき続けるわけにもいかない。


「壁外に行く。魔物に殺された遺体を探すんだ」


「壁外って……防壁の外に出るってことだよね? 危なくないの!?」


 案の定レナは声を上ずらせた。繋ぐ手の力が強まる。


「心配しないで。僕は強いから」


「壁の向こうには人を丸呑みにするような魔物がたくさんいるんだよ。報酬が高いってことはそれだけ危険ってことでしょ。なんだか……怪しいよ」


「大丈夫だ。必ず帰ってくる。信じて」


 自信がある。この地上に僕の敵となりうる存在はほとんどいない。明確に上回るのはそれこそ――レナの宿す獣くらいだ。悪魔の権能を安易に乱用するつもりもない。素の身体能力だけでも相当に戦えるはずだ。


「ぜったいのぜったい?」


「ぜったいのぜったいのぜったいだ」


「そう……」


「今までよりも留守にする時間も長くなると思うけど…… 数日で片付く予定だから。落ち着いたら今後のことをゆっくり考えよう」


「そうだね……」


 街を歩く。目的地まではまっすぐだ。僕でも迷わない。大通りはいつにもまして騒がしかった。露店や詩人芸人が並んで両脇を彩っている。


「そういえば……お祭りが近いらしいね」


「お祭り!?」


 レナが目をキラキラさせた。


「どんなお祭りだろう? 楽しみだね!」


「うん。そのためにもお金を貯めておかないと……」


 他愛もない会話を続ける。今日思ったこと。気になるお店の話。あのレストランにまた行ったら何を注文するかということ。時間は矢のように過ぎ、街は闇に包まれ始めた。原理不明の明かりが灯されていく。


 レナはすっかり上機嫌になった。大きく腕を振りながら歩いている。不安も心配もその表情からは消え去っていた。少なくとも表面上は。彼女の精神はだいぶ落ち着いたように思える。夜中に目覚めて泣き出すようなこともなくなった。


 このまま時が経てば、いつか記憶を自然に取り戻すときが来るのだろうか。


「…………」


「ねえ、ユウ?」


「……着いた」


 足が止まっていた。ここが目的地だ。大通りから一本外れた通りにある木造二階建ての建物。


「ここは……パン屋さん?」


「そうだよ。一階はね。――ついてきて」


 店の明かりはついている。まだ営業中らしい。ドアを押し開けた。チリンチリンと鈴の音が響く。小麦の匂いが香る。パンはほとんど売り切れていた。カウンターの向こうにしわくちゃの女性が座っている。


「おばあさん、戻ったよ」


「……だから、お姉さんと呼べと言ってるじゃろ」


「ごめんよ、おねえさん。でも僕の母よりもずっと年上だから」


「バカモン! 女性に年の話などするでない。まったく最近の若者は……」


 おばあさんは杖にすがるように立ち上がった。腰はひどく曲がっていて、髪の毛は真っ白だ。


「それでそこのおなごかえ?」


「そう。レナっていうんだ。良くしてあげて」


「ふん。――二人とは聞いておったが、若夫婦とは聞いておらんかったぞ。うるさくしたら叩き出すからな」


「夫婦じゃないから。……ほら、レナも挨拶して」


「はじめまして、レナです。こんばんは」


「うむ」


「じゃあね、おばあさん。おやすみ」


 顔合わせは済んだ。老人を立たせたままにするのも気が悪い。そうそうに退散しようとすると――


「待て。余りものを持っていけ。どうせ店仕舞、捨てるよりマシじゃ。――それから"お姉さん"じゃ」


「まじで? パンくれるの? ありがと、お姉さん」


 並んでいるパンを袋に詰め込んでいく。お姉さんと呼ぶのに慣れることは永遠にないだろうが、施しをくれるのなら頑張ろう。


「取ったら早く出ていけ。耳が痛くてかなわん」


「はーい。おやすみー」


「おやすみなさい……?」


「うむ」


 店を出る。困惑した顔のレナの手を引いて、パン屋の外階段を登る。そこにはいくつか扉が並んでいた。その中の一番奥、青い扉が目印だ。


「ねえ、どういうこと?」


「実は新しい仕事の上司にアパートを紹介してもらったんだ。ホテル暮らしよりずっと安い。そんなに広くはないけど……」


 扉を開く。


 そこは部屋だ。一人暮らし、あるいはぎりぎり二人暮らしができるくらいの広さ。俗に言う1Kだ。


「お家…… もしかして……私もここに住んでいいの?」


「君が良ければだけど」


 レナはぴょこりと跳び上がった。


「ユウ、とっても嬉しいよ! 家だ! ありがとうねっ。キッチンもあるし、テーブルもあるし、ソファもある!」


 テンションの上がったレナに背中を押されて室内へ。


「料理もできそうだね! こうみえて実は料理得意なん――なのかなあ?」


「僕に聞かれてもわかんないけど……」


「好物を作ってあげるよ! 外食ばかりじゃ財布が干からびちゃうからね」


 レナはソファにふわりとダイブした。お尻の形がくっきりと浮かび上がって僕を誘惑する。触りてえ…… なでなで。


「えっち!」


 頬を膨らませたレナが小突いてくる。ついつい衝動に負けてしまった……


「私、こんな人と一緒に暮らすの? 怖いよー、神様助けてください」


「グヘヘ、グヘヘヘ」


「もう、その顔やめて! 手つきもやめて!」


 レナがテーブルの上にあった本を掴み取り盾のようにして、僕の指先による攻撃を防いだ。


 古びて色褪せた革の表紙のそれは――聖書だ。もちろん原典ではない。模写され模写され模写され、加護は薄く引き伸ばされている。僕が攻撃をやめて聖書に視線を落とせば、レナはその本を興味深げに眺めはじめる。


「変な本も置いてあるね。備え付けってことかな?」


 レナの指先がページを捲っていく。慣れた動作だ。感覚だけで探り当てたのは、祝福の祈祷の一幕。


「えーと……精霊があなたを守りますように。太陽があなたを照らしますように。星の光があなたを導きますように。主があなたを祝福する」


 ホタルのような光が宙を舞ってレナの体に纏わりつく。それらはチカチカと瞬いてゆっくりと消えていった。強力な祝福が結ばれたのを確かに感じる。悪しきものを弾く神の守りだ。


「すごい…… なんだかあったかい……」


「さすがの聖術だね。レナはよく聖書を読んでいたから。常にシスター服を着てるくらいには敬虔だったよ」


「ふーん。こんな分厚い本、面白くなさそうだけど……」


 ぼやきながらも目は素早く文字を追っている。記憶はなくとも感じるところがあるのだろう。


「暇なときにでも読むといい。いい刺激になるかもしれない」


「そうだね。――隣に座って?」


 レナがソファを叩く。促されるまま僕は彼女の隣に腰を下ろした。聖書を渡される。最初のページだ。全十二章のうち、第一は創世記。


「一緒に読んでみようよ」


「うん。ええと……はじめには混沌とした暗闇だけがあった。私はまず大地となる巨人を生み出し―― これはなんて読むんだ? 難しいな」


 朗読している間、レナはベタベタと僕の体のあちこちを触ってくる。肩に頭を乗せ、腰に抱きつき、ついには頰にキスまで。無視できなくなったので聖書を閉じる。こんなのどうでもいい。


「何してるの?」


「読み聞かせしてもらってるふりして、こっそりくっついてるの。私の祝福を分けてあげようと思って」


 レナは額をぶつけてきた。血よりも赤い瞳に射抜かれて僕は動けなくなる。


「ユウに幸あれ」


「…………」


「壁の外に行っても無事に帰ってこれますように。――主よ、この者をお守りください」


 堂に入った祝福の言葉だ。やはりレナはレナ。記憶を失えど本質は変わっていないことを再認識させられる。


「ありがとう。元気が出たよ」


 かつてのレナが戻ってくるまで、僕はこの少女を守らなくてはいけない。


 運命から逃れられないなら、ブチ殺すのだ。悪魔は悪魔らしく。

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