「Why you should stand up for What」4

――七日目、昼――


 レナ・ヨハルネスは記憶を失った。


 ベッドの上で膝を抱え込むようにして横になる。この姿勢が落ち着くのだ。


 ユウはいない。仕事に行ってしまった。あの日に目覚めて以来、彼はずっとそばにいてくれた。レナが初めて一人きりになったのは一昨日だ。


 彼がいなくなると孤独感が心を蝕む。ただの寂しさではない。レナには縋る記憶も懐かしむ思い出もないのだ。静寂が思考を加速させる。過去を振り返ろうとするたびに、自分が何者でもない空っぽな人形であることに気付かされる。


 どのように生きてきたのか。何を目的としてきたのか。どんな人と関わってきたのか。


 何もわからない。


 積み重ねが人格を形成する。だとすれば今のレナは――レナ・ヨハルネスではないのだ。レナ・ヨハルネスを模倣しようとする歪なナニカ。行動すべて、発言すべてに根拠がない。ただふんわりとした感覚のままなんとなくで生きている。


 何とも繋がることなく深海を漂うような不安と孤独。


 もし彼がいなければ、この世界からレナが消えたって誰一人として気付きはしない。それが孤独というもの。記憶とは楔だったのだ。精神を現世に繋ぎ止めておくための楔。記憶がなければ人は生きていけない。


 でも大丈夫だ。


 レナにも記憶はある。ここ数日、彼と過ごした幸せな記憶だ。彼とは不思議なつながりを感じる。そばにいると安心できる。レナを受け入れてくれる。


 膝の間に顔を埋めた。


 あなたしかいない。

 あなたしかいない。

 あなたしかいない。


 レナには彼しかいないのだ。彼がいなければ生きていくことはできない。留守番の間に外へ出かけようとしたことはある。でも無理だった。彼と一緒でなければ足がすくむのだ。一人になると悲観的なことばかり考えてしまうのに、彼といれば楽しくおしゃべりできる。


「私にはあなたしかいないの……」


 しかし――彼はそうではない。彼にはレナしかいないわけではないのだ。


 彼には仕事がある。彼には家族がいる。彼には記憶がある。彼は女好きだ。商売女に言い寄られるたびに嬉々としてにやついている。レナが横にいる手前すぐに誘いを跳ね除けるが、一人の時はどうしていることやら。


 最悪の想像に至った。


 涙がぽろぽろと落ちてシーツを濡らす。


 今日、彼が帰ってこないかもしれない。


 そんなことはないと理解している。彼はレナのことをよく考えてくれている。なるべく早く帰ってくると約束してくれた。


 それでも想像してしまうのだ。


 もしも彼が、記憶をなくしためんどくさい女に愛想を尽かしたとしたら。飯を食うだけの女を養うことに嫌気が差したとしたら。


 レナは一瞬で捨てられたっておかしくない。そしてそれに文句を言う資格もない。


 涙が滝のように溢れてくる。


 こんなではだめだ。レナは自責の念を強くする。彼は好きだと言ってくれる。抱きしめてくれる。そこに嘘はないはず。信じなければ。彼は今日も何事もなく帰ってくるはずだ。そしてレナは笑顔で迎え入れる。そうでなければいけない。


「こわいよ……」


 何も考えずに笑っていられるほどバカではない。でも立ち上がって行動するほどの勇気はない。


 一層身を縮こまらせた。頭から布団をかぶって光を遮断する。


 どうにかして眠ろう。眠ればこの孤独な時間はいつの間にか終わるはずだ。そして彼のノックで目覚めるのだ。


 だが――眠るのすら恐ろしい。彼に抱きしめてもらわなければまた悪夢を見てしまうのではないか。いよいよ彼がいなくては何もできないクズなのだと悟る。家畜にも劣るただ息をしているだけの木偶の坊。存在価値はない。


 彼の体温が恋しい。彼に触れていたい。


 もっと知りたい。どのように出会ったのか。二人でどんなことをしてきたのか。何を考えているのか。どんな風に思っているのか。


 それを知ることが出来なければ、レナは心の底から安堵することはないだろう。


 自信がないのだ。彼に好かれているという自信がない。そんな価値のある人間には思えない。


 ふと、隣の部屋から淫らな声が聞こえてくる。男と女が交わる音だ。快楽に打ち震える女の肉欲の声。


 布団の中に熱がこもっていく。


 目を閉じれば、彼の声が聞こえてきた。


 いけないことだと思って、イメージを振り払おうとする。しかし魅力的なそれは脳裏にこびりついて消えない。


 彼の指が頬に触れてくれる。彼の唇が吸い付いてくる。彼の舌が肌の上を這う。


 レナの指先は引き寄せられるように太ももの奥へ。


 想像する。それだけで不安と孤独を塗りつぶしてくれる。心臓を押し潰してくる罪悪感さえ、想像上の彼が許してくれる。


「ユウ……」


 好きだよ。そんな優しい声が聞こえてくる。


「どのくらい……?」


 世界を滅ぼしたってかまわないくらい。


「罪深くていやらしい私を許してくれますか?」


 許そう。ずっと一緒だ。


 熱が昂っていく。


「ユウ……」


 囁く声が耳の奥で反響した。




▼△▼



――七日目、昼――


 僕は仕事中である。


「おら! まだ持ってるんだろ! 全部出せや!」


「ごべんなざい! 靴の中に隠してます......」


 薄暗い路地裏。無計画な改造を繰り返した建物が無秩序に並んでいるせいで、昼間なのに陽の光が届いていない。


 僕はチンピラの胸ぐらをつかんで吊し上げている。トンガリ頭の彼は派手でパンクな服装で、いかにもなチンピラだ。


「ほら、さっさと出せや!」


「まず降ろしてくだせえ!」


「ああん? この僕に指図とはなかなかの肝っ玉じゃあねえか」


 古い映画で学んだヤンキー口調を真似ているのだが、これで正解だったろうか。


「降ろしてくれないと、出すもんも出せませんよ!」


「それもそうだね。――じゃなくて、うるさいんじゃい!」


 トンガリ頭くんから手を離す。彼は膝から崩れ落ちて咳き込み、大慌てで靴を脱いだ。薄汚れた革靴から転がり出てきたのは、黄金色に輝く硬貨。僕がここ数日頑張って集めているものだ。


「よしよし、貰っていくよ。逆恨みはなしだからね。先に襲ってきたのは君だし」


「ゲホッゲホッ! あなたがあのカツアゲ狩りですか。ひでえ目にあいましたぜ。――この恨みは忘れねえからな!」


 彼は三下らしい捨て台詞を吐いて裸足で逃げ出していった。


 カツアゲ狩り。それが僕の今の職業。暗い路地に迷いんだ無力な市民を装いチンピラをおびき寄せ、殴り返して金をむしり取る。


「汚いコインだけど……」


 金に罪はない。戦利品を懐にねじ込む。一度混ぜてしまえば汚れなんて気にならなくなるのだ。


 さて、今日はもういいだろう。


 僕もかなり手慣れてきた。ノロマ達成タイムは日毎に更新されている。懸念があるとすれば、僕のカツアゲ狩りが噂になっているということだ。数日のうちに今の囮作戦は通用しなくなるかも。


 そうなれば新しい職を探さなければいけない。しかし防壁に囲まれた北大陸の都市国家レマンはその性質上閉じたコミュニティである。ぽっとでの旅人がそう簡単に職を得られるわけはないのだ。


 冒険者? この大陸にそんなものはない。だって人類は基本壁の中に引きこもっているのだから。壁を守る戦士は伝統と名誉のある職業だ。僕じゃ無理。


「なにかいい方法はないものか……」


 僕の良心も痛まず、そしてなにより手っ取り早く金を稼ぐ方法。今は日々の糧を食いつなぐ生活しかしていないが、レナのためにもゆとりは欲しい。


「…………」


 うーん。


 まあいい。悩んでも仕方がない。さっさと帰ろう。レナが待っている。


 来た道を真っ直ぐ戻っていく。積まれた廃材。座り込んでいるしわくちゃのお婆さん。玉蹴りに興じる元気な子ども。ここはそういう区域だ。貧しいが活気はある。似たような建物が延々と続く通り。


 十字路にぶつかる。僕が来た道はたしか――


「まずい、迷った……」


 まただ。昨日も迷子になったのに。僕に道を覚えるなんて超能力はないのだ。スマホをくれ。とりあえず歩く。昨日もふらふら歩いていたら見覚えのある道にたどり着いたのだから、今日もそうなるだろう。


 ふと、声をかけられた。


「そこのあなた。黒い髪の」


 振り返る。


 明らかな不審者がいた。黒のロングコートに黒いハット。顔を見られてはいけませんと公言しているような服装。


 その不審者がハットとコートを豪快に脱ぎ捨て、黒い布がばさりと落下した。僕はとっさに目を伏せる。まさか痴漢……?


「え……」


 紫色の豊かな髪の毛から巻いた角がぴょこりと飛び出している。きわどい肌色を露出した透けるような衣装に、太ももをしめつけるガーターベルト。そしてハート型の尻尾。


「サキュバスだ……」


 初めて見た。ついついじろじろ見つめてしまう。美貌のサキュバスは堂々と視線を受け止めながらニヤリと口の端を吊り上げた。


「珍獣を見つけた探検家のような熱のこもった視線、恥ずかしくなっちゃわ。ただ私はハーフサキュバス。肝臓を食べたって勃起不全は治らないから。――まあサキュバスの肝臓でも治らないんだけど」


「僕は勃起不全じゃない」


 視線がぶつかる。絡みついてくるような粘着質な眼差し。紫色の瞳が怪しく光った。不思議な力を感じる。魔法ではない。むしろ僕の使う悪魔の権能に近いような――呪いのような何か。


 しかし体に異変はなかった。悪魔に低等級な呪いなど通じるはずもないのだ。


 サキュバスは腕を組んでフフンと鼻を鳴らす。ハート型の尻尾が太ももの間から伸びてきて、僕の目の前でぐるぐると輪を描いた。


「さあ、私の寵愛が欲しければ跪きなさい。この完璧な体に触れたいのでしょう?」


 なんだそれは。なぜ僕が初対面の変人に跪かなければならない。土下座したらヤらせてくれるという意味なのだろうか? 非常に嬉しいのだが、レナが怒りそうだからなあ……


「早くしなさい。ほら」


 まあ触らしてくれるなら触っとくか。


「えい」


 にぎにぎ。僕はキュートな黒い尻尾を掴み取った。サキュバスさんはひゃあと可愛らしい声をあげる。


「やめなさい!? 急に何してるの!」


 パチンと手を叩かれる。ハート型の尻尾は素早く引っ込められた。


「失礼でしょ!」


「え? 触っていいって言ったじゃん。それに失礼なんて、変な催眠をかけてきた君に言われたくないけど」


「な、ななな、なんで……なんで効いていないの!?」


「なんでだろうね」


 サキュバスは身を抱いて数歩後退する。僕は手の中に残る感触を再度味わった。ゴムみたいな弾力。なかなかの握り心地だった。


「もう一回触らせてよ。今度はさきっぽの方を」


「いやよ! この変態!」


「変態って、君のほうがよっぽど痴女じゃないか。自分がどんな服装だか分かってる?」


「好きで着てるわけじゃないわよ!」


 ならなんでそんな格好してるんだ。サキュバスはエロい服しか着れない法律でもあるのか? 彼女は短いスカートの裾を引っ張って露出を減らそうとしているが、むっちりとした太ももを隠すことはできそうにない。可哀想なのでこれ以上責めるのはやめておこう。


「それで何の用なのかな。落とした金貨でも拾ってくれた?」


 サキュバスは咳払いをして仕切り直す。


「金貨なんてもんじゃない。――私はサミーリア。あなたが噂のチンピラ狩りね? この辺りでずいぶん暴れまわってるそうじゃない」


 おいおい。通りから人の気配は消えている。この路地だけ奇妙なほど静かだ。よく見てみれば後ろは行き止まり。前には立ちはだかる怪しげな亜人の美女。


 これはつまり――


 そうだろう、そうだろう。そろそろそのイベントが発生するころだと思っていたのだ。


「ナンパだね?」


「ナンパじゃない。ずいぶん楽観的な脳みそね。勘違いするにしてもチンピラの報復が一番に出てきそうなものだけど……」


 ナンパじゃないのか。興味は一気に失せた。サキュバスの体をじっくり弄り回すいい機会だと期待したのに。


「それじゃあ何の用だよ。僕、帰るところなんだけど」


「少しだけ話そうじゃない。後悔はさせないから」


「ごめんなさい、彼氏いるので」


「だからナンパじゃないって」


 クソッ。このサミーリアとかいうサキュバス女はどうしても僕に話を聞かせるつもりらしい。明らかに厄介ごとの匂いがする。


 サミーリアは髪をかき上げて朗々と話し始めた。さも得意げで鼻が膨らんでいる。


「言葉遣いから分かる、明らかに余所者ね。金に困っているらしい。職が見つからないから強請紛いのことをしている。かなりの腕利き。自分からは攻撃しないが、一度襲われれば反撃に躊躇はしない。しかし殺すことも過度に痛めつけることもしない。つまりあなたは――よく調教された野良犬。まさに私の探していた人材」


 人を野良犬扱いとは、ずいぶん失礼じゃないか。だが否定もできない。僕自身ですら僕がどういった存在なのか掴みきれていないのだから。


「プロファイリングどうもありがとう。自分を見つめなおせた気がするよ」


「どういたしまして。お力になれたのならなにより。――そんなあなたに仕事を紹介しようと思って」


「仕事?」


 いよいよ本題のようだ。


 金はいくらあっても困ることはない。仕事も同様。稼ぎがいいなら大歓迎なのだが、チンピラ狩りをスカウトするのならまともなものではないだろう。


「噂くらいには聞いたことがあるでしょう。――聖書原典十三章の引き裂かれた一ページ。それがこの街の近くにあるの」


 またそれか。聖書原典十三章。


 傷が疼く。


<lost bible chapter13ヲモトメヨ>

<lost bible chapter13ヲモトメヨ>

<lost bible chapter13ヲモトメヨ>


 敵からは逃げられても、運命からは逃げられないらしい。

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