「Why you should stand up for What」2

――三日目、夜――


 夜。


 幾千もの星々と五つの月のおかげで、人工的照明が無くても困らないほどには明るい。


 眠れないと言うレナに連れられて僕は甲板に出てきている。川の上なので寒い。しかしレナはそんな素振りを見せず元気に星座を探している。


 彼女がふと僕を見た。


「ところでさ、今日ニーカさんの話を聞いてるときうわの空だったけど、なんかあった?」


「……いいや、何もないけど」


「そんなわけないじゃん。顔真っ青になってたよ。取り繕ってたけど……私を誤魔化せるわけないでしょ」


 見抜かれていた。レナは天真爛漫なようでいて感情の機微には聡い。


 だが、そうだとしても、あれがただの悪夢ではなく過去の投影だと知られてはいけない。


「言いにくいこと? なら無理に聞かないけど……」


「ただレナのことが心配だっただけだよ。悪夢に悩んでるなんて素振り見せなかったから」


「そっか、心配かけちゃったか。ごめんね」


「僕は意外と心配性なんだ。特にレナのことになると、魚の小骨を食べているだけで青ざめて震えだすくらいには」


「過保護すぎるでしょ」


 くつくつと押し殺すように笑う。


 レナはよく笑うようになった。僕への敬語もやめたし、たくさん食べるし、自分からよく話す。前のレナと今のレナ、どちらが本当の性格なのか。きっとどちらもだ。人は誰だって二面性を持っている。


「そんなに心配なら、ぎゅーっと抱きしめておいた方がいいんじゃない?」


「……それは抱きしめてほしいって意味?」


「違うけど。……やっぱり今のナシ。未婚の男女が抱き合うなんて良くないよ」


「なら結婚しよう」


「しません」


 レナは腕でばってんを作った。怒ったように眉を寄せている。機会を逃してしまったような気がする。有無を言わさず抱きしめておけばまたあのお尻を撫でられたかもしれないのに……


「……ねえ、記憶を失う前の私の話をしてよ」


「…………うーん」


 慎重に言葉を選ばなくてはいけない。


 考えてみれば、僕はレナのことをほとんど知らない。聖書原典十三章を探して世界を巡っているということだけ。彼女はあまり語ろうとはしなかった。付き合いも一日でリセットされた。


 それでもその人間性は鮮明で印象的だ。


「レナは真面目で頑固で無鉄砲で、優しすぎるほど優しい。今と変わらないさ」


「そんなのじゃなくて。ユウとどう出会ったとか、どんな関係性だったとか――」


 上目遣いで僕を見つめる。その潤んだ瞳はどこか色っぽい。


「――どう思ってたのか、とか」


 僕には分かる、彼女がどんな言葉を求めているのかが。そして僕はそれを与えなければならない。


「大好きだよ。何度も求婚したんだ。断られたけど」


「ふふ、誰にでも言ってそう。女好きなのはバレバレなんだから。昨日も年上のお姉さんに鼻の下伸ばしてたでしょ」


「あれはただの世間話だって。目的地の情報を集めてたんだよ」


 お姉さんのフサフサな尻尾に惹かれたわけではない。触らせてくれとお願いしたことにはしたが、仲良くなって話を聞くのが目的だ。


「はいはい。……私のこと好きなの?」


「まあ、好きだ」


「どのくらい好きなの?」


「難しいな。世界を滅ぼしたって構わないくらい?」


「それは困るよ。もっと可愛らしい表現にして欲しいなあ」


 レナは仕切り直すように手を叩いた。


「もう一回だけチャンスをあげる。……どのくらい好きなの?」


「ずっと一緒にいてあげたいくらい。四六時中そばにいて手を繋いで、たくさんお喋りして、笑った顔を舐めまわしていたい」


「……最後に少しだけ変な欲求が混ざってるけど、まあ合格です。よくできました」


 レナが少し背伸びをして僕の頭を撫でる。使い魔としては光栄の至りであるのだが……


 僕はその衝動に抗えなかった。


「んん!?」


 無防備にも近づいてきたレナの背中に腕をまわす。ぎゅっと体を抱き寄せる。息遣いをすぐそこで感じる。レナは子どもみたいに体温が高い。


「ちょっと!?」


「好きだよ」


「急にどうしたの?」


「僕は半径五十センチ以内に女性が近づいてくると反射的に抱き着いてしまう生き物だから」


「犯罪だからねそれは」


 僕はそっとレナのお尻に手を伸ばした。指が沈み込むように柔らかいのに、確かな弾力もあるのだ。


 慎重にタッチを続ける。なるべく長時間触り続けるためには、レナにお尻を揉んでいると悟られてはいけない。あくまで自然に、ハグの延長線上であるかのように。僕はぎりぎりのラインを攻め続ける。……バレてないよな?


「お尻を撫でるのもやめてくれる?」


「ごめんなさい」


「うん。……はい、おしまい。もう十分でしょ」


 星の光を編んだ銀髪がはらりと揺れて、温もりが遠ざかっていく。絶やされることのない微笑みが愛おしい。


「突然抱きしめられるとびっくりしちゃうから。事前申請をお願いします」


「はーい」


 申請すれば許可されるのだろうか。


 レナは恥ずかしそうにはにかんで顔を背けた。その耳は赤い。


「……ユウで良かった」


「何が?」


「一緒にいてくれる人がユウで良かったってはなし。なんとなく分かるの。私には仲間も友人もいなくて一人で彷徨ってた。そこで助けてくれたのがユウなんでしょ?」


「…………」


「あなたが私の騎士様」


 恍惚とした赤い瞳は蕩けていて、言葉は熱っぽい。恐ろしいほどに魅力的だ。


「騎士様はちょっと荷が重いかな。使い魔だよ」


 レナはにへらと口元を緩ませる。


「……そろそろ部屋に戻ろっか。寒くなってきたし。――今日はいい夢が見れる気がする」




▼△▼




 寝苦しい。腹の上に重みを感じて僕は目を覚ました。


 そしてぎょっとする。


「誰?」


 何者かにのしかかられていた。僕の両手は押さえつけられている。暗くて顔は判別できない。ただ瞳だけが火の玉にように浮いてみえる。


「怯えないで。私だよ」


 その声は聞き慣れたレナのものだった。僕は隣のベッドで彼女が寝入るのを見届けたのに、どうやら起きてしまったらしい。


「……何かあった?」


 目が暗闇に適応してくる。レナの目は腫れていて、頬にはうっすらと涙の跡があった。あわてて起き上がってその手を取る。


「大丈夫? 泣いてるの?」


「心配しないで。怖い夢を見ただけ」


 またか。それはレナが獣となって殺戮を起こす悪夢のことだ。思い出させるべきでない過去である。


「ただの夢だろ。忘れればいいんだ」


「今日の夢にはユウが出てきたんだ。ユウは私を――殺そうとしてたの」


 僕がレナを殺す夢。


「ありえないから」


 レナの拘束を力業で抜け出し、頬を挟み込んで言い聞かせる。


「僕は絶対にレナを傷つけない。どんな敵からも守ってみせる。二度と同じ失敗は繰り返さない」


 僕がレナを殺そうとするなんて、絶対にありえないことだ。これまでも、これからも。


 ありえない。ありえないことだ。


 しかし一滴の黒いインクのように、ある疑念が心中を染めていく。記憶を失う前、もしかすれば僕はレナを――憎むべき化け物の宿主と捉えていたのではないか。可能性は十分にある。それでも僕は言い聞かせるように繰り返した。


「ありえないから。ただの夢だよ」


 不安げな表情は変わることはなかった。


「――一緒に寝てもいい?」


「もちろん」


「ありがと」


 シーツの中にレナを招き入れる。二人で眠るには手狭なベッドだが、文句をつけることはできない。


 そして向かい合った。呼吸が混ざり合う。心音が重なってメトロノームのように同じリズムに揃っていく。同じ体温を共有している。溶け合って一つの存在になるかのような官能感。理性がどろどろに崩れていく。


 乙女のたおやかな手のひらが、強張った僕の拳を捕まえた。ほぐすように指一本一本を絡ませてくる。


 いつの間にか、僕とレナは全身のほとんどを密着させていた。触れ合っていない部分がないかと錯覚するほど、その瑞々しく滑らかな肌を感じる。


 顔が近い。部屋が暗くて助かったとさえ思う。女神の美貌を至近距離で目視すれば死んだっておかしくない。現に僕は石化したように凍りついていた。四肢の神経は快感に浸って機能を果たしてくれない。


 レナが小ぶりな唇を寄せてくる。


 もうそれだけしか見えない。


 接触する直前、ほんの数ミリの空間だけを残してレナは止まった。


 苦しくなるような沈黙が体の熱を煽る。呼吸が音を形作る。声なのか、ただの吐息なのか。ひどく曖昧だが、均衡を突き崩すのに十分だった。


「ねえ……?」


 やはり衝動を抑えることはできない。


 僕は反射的にその桜色の肉に吸い付いていた。レナは驚いたように目を丸くして、それでも接吻を受け入れた。ただされるがままになっている。


 あくまで優しく。僕は暴力的になってしまいそうなのを我慢するだけで必死だった。震えから緊張が伝わってくる。レナはいよいよくたりとして身を預けてきた。乳房が潰れて形を変えるのを感じる。揉みしだきたくても、密着しているせいで手を差し込む隙間もない。


 レナが空気を求めて鼻息を荒くした。そこに苦しげな様子を悟って、唇を離す。


 真紅の瞳がまっすぐに僕を観察している。


「……なんでキスしたの?」


 なんて酷い質問だ。これは精神的拷問に違いない。辱めに耐えながら、僕は答えを吐き出した。


「好きだからだよ」


「なんで好きなの?」


「それは……遺伝子レベルで運命づけられてるんだ。そういうもんだよ」


「……今はそれで納得してあげる」


 どういう意味だよ。次までにもっとマシな解答を用意しておけってことだろうか。


「急に女の子のファーストキスを奪うなんて、ユウは悪い人だね。これは貸し一つだなあ」


「いや、そっちが誘ってきたんじゃん」


「誘ってないけど……? 変な勘違いしないでよ」


 その笑顔はいたずらな妖精のようだ。僕は振り回されるばかり。


「ねえ、私もユウのことが好きって言ったらどう思うの?」


「とっても嬉しい」


「ふーん。……まあ言わないけどね。好きじゃないし」


 なんだこいつ。イラっときたので、執拗にお尻を撫でまわす。レナはひゃあと可愛らしい声を出して僕の手を叩いた。


「やめてください、変態さん。……ほら、もう寝ようよ」 


「え?」


「おやすみ。私が眠るまでずっと抱きしめていて。いやな夢を見ないですむように」


 レナは胎児のように丸く小さく、膝を抱え込むような姿勢になった。目蓋はおりている。生殺しで放置されちまったぜ。ご要望どおりにレナを抱きながら背中をさする。


 やはり、ありえない。


 僕がレナに刃を向けるなんてことは、これまでもあったはずがないし、これからもあるはずがない。夢はただの夢だ。


 船の揺れは心地よい。はやく寝てしまおう。不幸なことに寝付きが悪いタイプである僕は悶々としたままレナの寝顔を眺め続けた。

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