「Who am I」15

 レナはベッドの上で穏やかに眠っている。僕はその横で座って寝顔を観察していた。女神のように愛らしい顔をまじまじと鑑賞できるのは今だけだ。目が覚めれば変態的だと叱られてしまう。


 ヴァイにも診てもらったのだが、「命に別状はない、直に目を覚ますだろう」というお言葉を頂いた。そういうわけで僕は取り乱すことなく側にいることができている。


 すでに日は沈んだ。部屋を照らしているのは光る石を中に入れたランプ。原理は不明。あとで解体してみるつもりだ。


 こうして眠るレナの横に座って暇を持て余すのはもう二回目だ。まだこの異世界に来てようやく一日が経過したところだというのに。


 今回の件で認識を改めることにした。レナが好き勝手に遊んでしまう僕の手綱を握ってくれるものだと思っていたが、逆である。僕が猪突猛進なレナを止めなくてはいけない。この娘は控えめに言ってアホだ。とにかく体当たりでなんとかしようとする。それは美徳でもあるが、欠点でもある。補わなければ。


「んぅ……」


 レナの桜色の唇からどこか官能的な声が漏れ出る。長いまつ毛がピクピクと動いて、目蓋が半分だけ開いた。眠そうに口元がむにゃむにゃ動く。


「おはよう、もう夜だけど。体はなんともない? 心配したんだぜ。もう無茶はしないようにしてね」


 レナは何かに戸惑っているようだった。


「うん…… ごめんな……さい?」


「反省してね。――夕食はクレタが用意してくれたものがあるけど……どうする?」


「......夕食――食べます! お腹減ってたんですよね」


 レナは跳ねるようにベッドを飛び降りて小さな机の前に座った。トレーに掛けられた白布をはぎ取れば、まだ湯気の立っている食事一人前が現れる。


「おいしそう」


 レナは律儀に手を合わせて祈りの言葉を唱えた後、勢いよく食べ始めた。まず手を伸ばしたのはチキンソテーに似た何かだった。彼女の食事を黙って見守る。


 昼間はあんなに苦しそうに食事をしていたのに、今は気持ちよくなるような食いっぷりだ。まるで別人のよう。


「お肉も美味しく食べれてるみたいだね。良かったよ」


「はい。不幸なことに、体に悪そうなものが大好物なんです。お肉と油とスパイス、それからお菓子」


「……意外だ」


 レナがソーセージをくわえたまま僕の方に向き直った。


 まんまるな目が僕をとらえて、こてんと首を傾げる。


「ところで……あなたのお名前は……?」


「は?」


 理解できない。世界がぐわんぐわんと歪む。巨人に殴られたような衝撃が脳みそに叩きつけられた。


 そうだ。そういうことだったのだ。


 座っているだけでやっとだ。膝が笑って崩れ落ちそうになる。僕はなぜその可能性を思い付かなかったのか。なんて馬鹿なのだろう。真っ先に思い至って当然ではないか。


「レナ……何も……覚えていないの?」


 乾き切った喉からは掠れた声しか出てこない。


「ごめんなさい」


 無垢な乙女は何も理解できていないようだった。ただ謝罪の言葉を口に出すほどに。ようやく僕は気が付いた。教会こそが魔女の手先だったわけだ。レナは記憶を奪われたのだ。




▼△▼




 気付けば僕は雨が降るように泣いていた。ぽろぽろとひとりでに雫がこぼれ落ちていく。


 悲しかった。


 辛いときに人は記憶に頼る。思い出からパワーをもらうのだ。しかしレナにはそれさえ許されなくなってしまった。


 ただでさえ過酷な運命を押し付けられているレナが、さらにこんな試練に向き合うのだ。それを僕はどうすることもできない。悪魔は神ではない。全知全能ではないのだ。記憶を失ったとて世界は優しくなってはくれない。レナの敵は容赦しないだろう。


 眠っているだけなんて虚言に騙された僕にも責任がある。どんな言葉をかけるべきか、五十音が頭の中をぐるぐるとまわるだけで音にならない。


 自分でも不思議なほどに泣けてくる。


「…………ごめん」


 ようやく絞り出せたのはたったこれだけだった。


「泣かないで」


 ほっそりとした指が伸びてきて、僕の目尻と頬を優しく拭う。


「なんで泣いてるの?」


「ごめんね。泣きたいのは君だろうに……」


「ううん。私は泣かない。あなたが私の代わりに泣いてくれてるんでしょう?」


 俯く僕の顔はぐいっと上を向くことを強制された。レナの両手が両頬を挟んでいる。


「わたしは悲しくないよ。だから泣かないで」


「……ごめん」


「謝ってばっかり。かわった人だね」


「……僕は馬鹿だ」


「そんなことない。ねえ、ほら、見てて」


 レナは突然シーツに手をかけた。


「布団が――」


 そしてシーツを投げ飛ばす。白い布地がふわりと広がった。


「ふっとんだ!」


「え?」


 聞き間違いだろうか。レナが絶対に言いそうにないことが聞こえた気がする。


 今度はレナが両手で顔を隠す。


「レナ?」


 両手を開くようにすれば、そこから現れたのは――渾身の変顔。指で目と口の端を引っ張り、精一杯寄り目をしている。子どもがよくやるような変顔だった。場と状況にそぐわない突然の変顔に、僕は思わず笑ってしまった。


「あ、笑った! 私の勝ちね!」


 レナが嬉しそうに笑った。花が咲くように、イタズラな子どものように、熟達した遊女が誘うように。


 それだけで部屋がぱっと明るくなる。太陽に照らされたみたいにじんわりと熱い。レナの笑顔を初めて見た。呼吸が止まるほど、僕はとんでもなく惹かれてしまった。


 もう一度白い指が伸びてきて、僕の頬の肉をむりやりに持ち上げる。


「ほら、笑って。泣きながら笑ってるよ。変なお顔」


「……もう泣き止んだよ。ありがとう」


 吐き出した言葉とは裏腹に、涙はしばらく止まりそうになかった。


 この人間はなんと優しいのだろうか。心根があまりに美しすぎる。生まれてからの記憶すべてを奪われ、残されたのは、底抜けの優しさ。優しさだけなのだ。結局レナの根幹にあるのはそれだけ。


「ねえ、お名前を教えて?」


「……優人。ユウでいい」


「なんだか珍しい名前だね。どんな意味なの?」


「優しい人。両親は僕にそうなって欲しかったらしい」


「じゃあぴったり、かな?」


 そうだろうか。僕はそうは思えない。レナの前で自分は優しいなんて思える人間がどれだけいるだろう。


「ユウ。私の名前は知ってる? なんでか思い出せないの……」


 一つ一つ説明しなくてはいけない。


「君の名前はレナ」


「うん」


「レナは記憶喪失になってしまったんだ」


「記憶喪失かあ」


 レナは頬を掻いてはにかんだ。


「よく分かんないや」


「そうだろう。悪い魔女に記憶を奪われたんだ。だから……取り戻さないと……」


「……ユウ、顔が怖いよ」


 無理やりに口の端を持ち上げる。


「変な顔だね。ふふ。――ねえ、ユウは私のお友だち? 家族? それとも……」


 僕はレナにとっての何なのか。その答えは一つだ。


「僕は君の使い魔で、君は僕の主人。何でも言いつけてくれ」


「使い魔? よく分かんないよ」


「……召使、下僕、従者、そういうものさ。僕はレナを守り、命令を果たす」


「そうなんだ」


 レナの手が僕の手を捕まえる。彼女の手は柔らかくて温かかった。指と指が絡み合う。


「……恋人なのかなって、思っちゃった」


 心臓がどきりと跳ねる。


「なんだか絆?っていうか、繋がりを感じるの。分かってくれる?」


「……それは契約だよ。絆とは違うものだ」


「ふーん」


 どちらともなく手が重なった。温もりを感じる。


「――手を繋いでると安心する」


「ならずっと繋いでいよう」


「それはイヤ」


「ひどい。そんなはっきり……」


 レナはクスクスと楽しそうに頬を緩ませて、足をばたつかせた。


「どうしてもっていうなら、たまに繋いであげる」


 三つの傷が疼き始めた。今までにないほどの熱さだ。今にも血が噴き出そうなほどに痛む。


<黒幕は魔女>

<黒幕は魔女>

<魔女を殺せ>

<魔女を殺せ>

<取り戻せ>

<取り戻せ>


 ようやく意味を理解した。殺すのだ。取り戻さなくてはいけない。死だけが代償となる。


「レナ……僕は仕返しをする。今からにでも。君の記憶も取り返す。魔女は殺す。その手下も殺す。復讐だ」


「だめだよっ!」


 レナは唇をひん曲げて怒りの色を表した。


「殺しなんてよくない! 私のために復讐するなんて……ぜったいダメ!」


 記憶を失っても人の本質が変わることはない。それはやはり正解だったらしい。


「でも……やられっぱなしなんて不公平だ。償わせないと」


「そんなの変だよ。私たちは神様じゃないんだから、裁くことも償わせることもできはしない」


「…………」


 赤い瞳の奥で強い意志の炎が燃え上がっている。強情な性格はやはりレナだ。


「僕たちが隠れていたって、敵は襲ってくる。やられる前にやらないと。魔女を捕まえて、痛めつけて、記憶を戻す方法を吐かせる。大丈夫、レナはここで寝てていいよ」


「だめだって。私のために、私の見えないところでユウが傷付いて、誰かを傷付けるなんてだめ。許さない」


「じゃあどうしろっていうのさ。敵を殺さない限りこの街では生きていけない。君は記憶を奪われたんだぜ」


「……いいよ、記憶なんて」


 なんてことないように、レナは言い放った。明るい微笑みが眩しい。


「いいわけないだろ!」


 記憶とは人の精神を支える大切な拠り所だ。失って平気なはずがない。まして誰かに奪われるなんて、許されることではない。許してはいけない。


「ユウ……」


 気付けば僕はレナの胸に抱きとめられていた。母が子にするように頭を撫でられる。


「――また泣いてるよ。泣かないで」


「......殺すか、殺されるか。この街に隠れる場所なんてない。なら殺さないと」


 穏やかで慈悲深い声が諭してくる。"報復は神に任せよ。あなたは悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい"。くそったれのこの世界の神の言葉だ。


「ねえ、そんな顔になるくらいなら……」


 視線がぶつかる。どこまでも澄み渡った純赤の瞳。僕のことを思いやってくれているのが伝わる。ある意味暴力的な優しさ。


「遠いところに行こう。敵なんていないような遠くへ。敵がいるなら、この街から逃げだそう。それでいいよ」


「…………」


 レナが僕の頭をぎゅっと抱いた。


 その体温が僕の激情を溶かしていく。おっぱい柔らかいな……


「きっと楽しいよ」


「そうだね。……逃げよう」


 なんでもいいか。そう思えた。


 僕たちは目的とか因縁とかいった煩わしい全てを投げ出して、遠くへ逃げることになった。魔女なんて知ったことではない。レナの記憶も、本人がどうでもいいというのであればどうでもいいのだ。この街には魔女によって苦しんでいる人々がたくさんいるが、それも僕らには関係ない。レナはそのことを忘れたし、教えるつもりもない。




▼△▼




 レナは再び眠りについた。彼女が寝入るのを見守ったが、僕はまだ眠たくない。今日は昼過ぎまで寝ていたし、先ほどの衝撃がまだ抜け切っていないのだ。


 顔を洗う。


 鏡台と向かい合った。鏡の中にはもう一人の僕がいる。この世界で自分の顔を見るのは初めてだ。


 そいつは生まれてからずっと一緒にやってきた見慣れた顔――とは少し違う。


 数年分歳をとっているのだ。歳をとっているが、血色は良く健康的。見方によっては若々しくなったようでもある。目の下にはまったく覚えのない傷跡が残されていた。


 鏡の中の自分に語りかける。


「気づいてただろ?」


 違和感はたくさんあった。


 いつの間にか習得している異世界の言語。体が使い方を覚えている悪魔の権能。心当たりのない古傷。


 運動なんて久しくしていないはずなのに、筋肉量が増えて日に焼けている。


 性格や心のありようも大きく変わっている。根っこにあるものは同じ。でも枝葉は別物だ。


 体のあちこちに刻まれた日本語のメッセージ。いったい誰が?


 僕のファンを名乗る悪魔崇拝者。

 

 一向に姿を見せない召喚者。


 抜魂病。魔女。記憶。


 目覚めたら檻の中で捕えられているなんてのもおかしな話だ。魔法陣から現れ出るのが悪魔の王道だろう。


「僕の記憶は……奪われている」


 他ならぬ魔女によって。


 生まれてから全ての記憶ではない。


 この世界に来てからの記憶だ。


 つまり――僕は召喚されたばかりではない。数年前には召喚され、言葉を覚え、強くなり、そして記憶を奪われた。全てを忘れたのが今の僕だ。


 十二の助言を僕の体に刻みつけたのは――僕自身。誰かの助言ではない。記憶を奪われる前の僕から、記憶を失った僕への置き手紙なのだ。


 傷が痛んだ。


<取り戻せ>

<取り戻せ>

<取り戻せ>


 頭の中で声が響く。僕の声だ。取り戻せ! 取り戻せ! 取り戻せ!


 そうだ。取り戻さなくてはいけない。


「でも何を?」


「記憶だ」


 鏡の中の僕が口を開いた。


「魔女を殺せ。記憶を取り戻せ。lost bible chapter13を求めよ」


 結局全てはそこに帰結する。


 十二の助言を一つずつなぞっていく。



1.俺を信じろ 

2.断罪の悪魔

3.罪を断て

4.契約するな

5.衝動を抑えろ

6.力は乱用するな

7.黒幕は魔女

8.取り戻せ

9.魔女を殺せ

10.滅び来たれり

11.この世界はくそったれだ

12.Lost bible chapter 13を求めよ



 理解できるものもある。理解できないものもある。だがいずれ全てを知るだろう。記憶を取り戻せば、過去の僕の真意が明らかになる。


「失われし聖書原典十三章……」


「なんなんだそれは……」


「……考える必要はないな」


「僕はこの世界で何をしてきた? 召喚者はどこに? 友人はいないのか?」


 鏡の中の自分と問答を繰り返す。疑問は尽きることなく溢れてきた。


 ふと、誰かの手がそっと背中に触れる。


 レナだ。暗闇の中で不安げな白い顔が浮かび上がる。


「起きちゃった?」


「……黙っていなくならないで」


「ああ、ごめんね」


 レナに手を引かれて連れて行かれる。


 そのまま手を繋いで同じベッドの中へ。やはりレナの精神は不安定だ。鋼のような意志力を見せたと思えば、次の瞬間に幼子のように甘えたがる。


「寝なくちゃ。明日の朝には出発だよ」


「そうだね」


 レナはこの街を離れるつもりでいる。しかし、そうすれば過去の自分からの助言に逆らうことになる。


 夫婦のように寄り添い、抱きしめ合う。レナが顔を僕の胸にうずめた。体の温もりを共有する。足が蛇のように絡みついてきて僕を逃がそうとしない。レナはすでに目を閉じていた。


 だが僕は眠れない。


 眠れるわけがない。この娘と密着していれば、否応にもマグマのような衝動が湧きだしてくる。


 とにかく僕は目を閉じた。若々しい肌の匂いが殺意を忘れさせてくれる。この少女を悲しませるわけにはいかない。


 記憶を失う前の僕。ユウという名の異界人。何もかもを忘れ去った僕とレナ。


 過去の己と、今の主。


 僕は選択を迫られている。



一章一節

「Who am I」


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