「Who am I」13

 レナは大聖堂の最奥の部屋へ案内された。


 そこは教区長に私物化されているようであった。豪奢な赤毛のソファ、黒檀の大きな机、そして儀式用でないただの嗜好品の香。


 ありえない。レナはまずそう思った。大聖堂とは儀式と祈祷のための場所だ。あまりに俗世的なものが多すぎる。


 女がソファに座っていた。よく手入れされた長い黒髪に、留めるべきボタンを外して着崩した修道服。無駄に大きな背もたれに体を預け、膝の上で眠っている大きな黒い蛇を撫でている。


 この人物こそが教区長であろう。化粧、装飾品、香水、不要な贅沢とされる品々を身につけてはいるが、悠々とくつろぐ姿は部屋の主に違いなかった。


 どんな理由があって神の下僕にふさわしくない装いをしているかわからないが、レナはひとまず教会式の礼をする。


「私はレナ。巡礼修行中の癒し手です。突然の無礼な訪問に対応してくださり、心から感謝しています」


「よい。噂になっていた凄腕の癒し手が訪ねてきたとなれば、無下にするわけにもいくまい。――教区長を務めるカサンドラだ」


 まずい。やはり噂になっていたのだ。まさか指名手配されている"レナ"だとバレているのだろうか。


 しかし焦りを顔に出したところでスカーフが隠してくれる。表情の変化には気づかれないだろう。


「座ってもらって茶と菓子でも楽しみながらおしゃべりに興じたいところだが……あいにく今は非常事態でな。魔女のせいで教会の威厳が損なわれている」


「はい。その件についてお力をお貸しいただきたいと思い、訪ねてまいった次第です」


 カサンドラは意味深げに口の端を吊り上げた。


「力を貸せとな。……お前もアレを求めているのだな?」


「……アレとは?」


「聖書原典十三章のことだよ。聡い者はみな気づいている。かの病の原因が、失われた十三章の切り取られた一ページだとな」


「…………」


 レナの目論見は看破されていた。


 十三章を欲しがる人間は決して少なくない。教会はとうぜん捜索を続けているし、賞金だって懸けらている。邪な目的のために神の力を必要とする輩もいるだろう。


「聖書原典は教会が保持するべきものだ。たとえ魔女から無事に取り返せたとして、お前に渡すことはできない」


「かまいません。一度読ませていただくだけで十分です」


 カサンドラは足を組み替えた。魔改造されたシスター服の深いスリットから艶めかしい太ももがちらつく。


 黒蛇が目を覚まし、カサンドラの膝上から離れて窓際まで這っていく。その黄色い目玉はレナを中心にとらえていた。壁の棚には怪しく光る水晶玉が飾られていて、部屋中に妙な不気味さを演出している。


「十三章は"存在しないもの"とされている。まあ公然の秘密ではあるが…… だが教会本部が秘匿するのにもそれなりの理由があるのだ。誰にでも簡単に読ませていいものではない」


 それは予測できた答えだった。十三章には世界の秘密が記されているとされているのだから。


「……私が魔女を捕らえたのち、その者が不思議な紙切れを持っていたとして、それ含めて全てを教会に引き渡します。神に誓いましょう。ただその過程で紙切れの文字を読んでしまうことがあるかもしれませんが……すぐに忘れてしまいます」


 カサンドラはくつくつと喉を鳴らすように笑った。


「強情な娘だ。教会相手にそんな建前が通用すると考えているのか? それに私の握る情報を教えたとして――お前に何ができる? 我々教会も百日以上捕えられていないというのに」


「それは……」


 その通りだ。レナは聖術が得意なだけの小娘だ。レナにできて教会にできないことはない。しかし、それでも引き下がるわけにはいかない。


「何ができるかは試してみなければ分かりません。それに……私は一人ではない」


 ずいぶん長い間たった一人で行動してきた。それは同行者を殺してしまうからだ。


 だがユウという名の異界人は強い。不思議な力を宿している。実際に獣の前に立って生き延びた。多少暴力的なところはあるが、諭せば従ってくれる。悪い人間ではない。レナはそう信じていた。


「仲間と力を合わせればなんでもできると言いたいのか? まったく面白い。愛らしく思えるほどの幼稚さだな。だが気に入ったよ」


 カサンドラはまったく聖職者らしさというものを持ち合わせていない。レナはなぜこの人物が教区長というポストにいるのか不思議にさえ感じた。


「教えてあげようじゃないか」


「本当ですか!?」


「ああ。だが、お前では魔女を捕らえることはできない。だから教えるのだ」


「……そうだとしても、お願いします」


 不可能と断じられようと、やり遂げなければならない。己の内に潜む獣を殺すために。


「ヒントは三つだ。第一に……私は魔女の名前も顔も居場所も知っている。だがどうにもすることはできない」


「え……? それはなぜ……?」


 カサンドラは油でよく手入れされた髪の毛を琥珀色の櫛でとかしている。答えるつもりはないらしい。


「第二。抜魂病によって得した人間もいる。皮肉なことに、前教区長の感染により昇進した私もその一人だな。だが私だけではない。ある商会が潰れれば競合する商会が利益を得る。狩場を同じくする戦士の一方が床に臥せればもう一方が独占できる」


「……それは……つまり……」


 話が見えない。レナの頭の中では疑問符ばかりが踊りはじめる。


「抜魂病は無作為に広がっているわけではないのだ。患者、つまり損をした人間と得をした人間。全てを線でつないでいけば、魔女を見つけるのはそう難しくない」


「…………」


「第三。この街に魔女を本気で捕まえたいと考え実行しているものはもういない。みな記憶を失ってしまった…… いや、お前が最後の一人だな」


 カサンドラは髪の毛をいじるのをやめ、レナを舐めるように見る。居心地の悪さを感じてレナは一歩後ずさった。


「ここまで言えば理解したか?」


「いえ……」


「鈍いのだな、レナ・ヨハルネス。滅びの獣の娘よ」


「ッ――! なぜそれを――!」


 白い手が伸びてきて、レナのスカーフを剥ぎ取る。顔が露出された。


 カサンドラの笑みが深くなる。


「私だよ。私こそが――魔女だ」


 そんなはずない。


 レナの思考は真っ白に塗りつぶされた。神の下僕である教区長が魔女であっていいわけがない。人々をこんなふうに苦しめていいはずがない。


「私が同僚を蹴落としてこの地位を手に入れた。目障りな自警団は最初に潰した。異端的市民は魔女狩りと称して処刑した。この街はすでに――私のものだ」


 いったい誰がこの悍ましい真実を知っているのだろうか。


 教会のどこまでが腐敗しているのか。教区長だけではないはずだ。幹部級の人間も魔女の忠実なる手下であろう。


 教会は神の下僕であり、人々の下僕だ。それが私欲のために病を撒き散らすなど神が許さない。レナはそのように教えられてきた。


 黒蛇がチロチロと舌を出し、レナの背中側へと回り込み死角へ消えた。


 ただの蛇なのに、暗殺者に背後を取られたかのような圧迫感を覚える。


「なあ、レナ・ヨハルネス。お前があの塔から逃げ出したと聞いた時は肝が冷えたが……こうしてやってきてくれて助かった」


「あなた……神の教えは捨てたのですか!?」


「ふふふ。とうに捨てたよ。あれは愚者のための杖でしかない。――あの塔には悪魔もいたはずだ。悪魔はどこにいる?」


「......彼は悪魔ではありません。人間です」


「すでに魅入られたか……」


 カサンドラが机の上の聖書を手に取った。レナもバレないように懐から聖書を取り出し、背中に隠した。


「ところで――なぜお前に正体を明かしたか分かるか?」


「どうでもいいです。……十三章を渡してください。あなたが持つには相応しくない」


「傲慢だな。人類の宝は人類のものだ。相応しくない人間など存在しない」


 指の感覚だけでページをめくっていく。何度も繰り返して覚えた動作。目を瞑っていても目的のページを開くことができる。


「主よ、我を守りたまえ!』」


 盾を模った光がレナの前に現れる。レナを何度も救ってきた神の護りの盾。そう容易く壊れることはない。今のうちに策を練らなければ。


 何か、何かないか――


 レナは部屋の中を見渡す。


「なかなかの聖術だが……無駄だ」


 カサンドラは立ち上がりさえしない。開いた聖書からぴらりと一枚の紙切れをつまみ上げた。


「これは原典。神が直接記した真実の書」


 それは神の遺書。人への尽きることなき祝福。世界の創造から今の世に至るまでの歴史書。その一枚の古ぼけた紙は、見るだけでそうだと分かる神気を放っていた。


「お前の持つ低等級な模写と比較することすら不敬だ。言っただろう。お前に魔女を捕らえることはできない」


 視界が極彩色の光に飲み込まれていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る